家庭内プロトコル(2032年)
2032年の夏、佐伯家の食卓は、かつてないほど殺伐としていた。
弘樹は10歳になり、もはや子供の言葉遣いではない。夕食中も、彼はホログラム端末で近隣の交通渋滞の緩和策をシミュレーションし、その数字を読み上げている。美沙は、中古のフィルムカメラで自分の食事を撮り、その「現像の失敗」について独り言をつぶやいている。
「ねえ、聞いてる? この信号機、あと3秒の青を延ばせば物流効率が……」
「またその話? そんなの、今ここで食べてる味噌汁の味とは何の関係もないじゃない」
美沙がフォークを叩きつける。
「関係ないんじゃないよ。社会システム全体が最適化されれば、君が今食べてる食材も、より低コストで届くんだ。それは『味』よりも重要なんだよ」
弘樹の冷徹な正論。美沙の感情的な拒絶。
慎吾は、その二人の間に座りながら、胃の奥に鈍い痛みを感じていた。かつては笑い声が響いていたこの場所が、今や「効率」と「感性」という名の、相容れない二つの文明の衝突現場となっている。
「二人とも、そこまでだ」
慎吾の声は静かだったが、食卓の空気を凍らせるには十分だった。
彼は立ち上がり、リビングの隅にあるコンセントから、家族全員のデバイスを一括管理している中継機を物理的に引き抜いた。
「食卓ではAI論争はやめよう。デバイスの使用は禁止だ。お互いの考え方が正反対なのは分かった。新しい技術、誰も正解なんて分からないし、正解なんてないんだ。今は忘れよう」
弘樹が困惑し、美沙が驚いて顔を上げる。
「そんなの、効率が悪いよ!」
「効率じゃない。これは、俺たちが『同じ家族』として明日を生きるための、最後のプロトコルだ」
窓の外では、東京の夜空がAI制御による完璧なイルミネーションで彩られている。しかし、家の中は真っ暗だった。デバイスの明かりが消えた瞬間、彼らは初めて、暗闇の中で互いの「顔」を見る。
そこには、AIの分析にも、写真の記録にも収まらない、人間同士の不安と、そして微かな温もりが確かにあった。慎吾は、この「不便な沈黙」こそが、今の家族に必要な唯一の共有資産だと信じていた。




