第3話 見やすくなった配信
白瀬ルナの配信開始まで、あと十分。
律は管理席に座り、配信画面、コメント欄、進行表を順に確認していた。ルナの事務所で用意されていた進行表は、予定というより願望に近い。
二十二時開始。
雑談。コメント拾い。盛り上がったら延長。
最後の一行を見て、律はペン先を止めた。
「白瀬さん、この“盛り上がったら延長”は消します。今日は二十三時で切ります」
配信ブースの中で、ルナが振り返る。淡い銀色の髪はきれいに整っているのに、白いヘッドホンを押さえる指先だけが落ち着かない。
「最初から決めるんですか? コメント欄がいい感じだったら、少し続けた方が喜ばれると思うんですけど」
「喜ばれます。でも、そこで続けると次も続ける前提になります。視聴者は悪くありませんが、一度できた期待は勝手に育ちます」
「律さん、言い方が怖いです。間違ってないから余計に怖いです」
「やわらかく言うと、たぶん流されます」
ルナは少しだけ困ったように笑い、それでも反論しなかった。律は延長予定を消し、終了前の五分に水、二分前に締めの言葉、と書き込む。
「そこまで決められると、逆に固まりそうです。自由に話していいって言われても、終わりが先にあると、ずっとそこを気にしちゃいそうで」
「自由に話していいです。ただ、戻る場所だけ先に置きます。終わる場所がないまま走る方が、たぶん怖いので」
「終わる場所……」
ルナはその言葉を小さく繰り返した。
声が、ほんの少しだけ落ちた。配信者の顔になる直前、人はだいたい一度だけ素に戻る。律はその瞬間を見るのが苦手だった。見てしまうと、放っておけなくなる。
「開始三分前です」
スタッフの声が飛ぶ。
ルナは頷き、背筋を伸ばした。表情が切り替わる。配信者・白瀬ルナの顔。けれど、指先だけが水のキャップに触れたまま止まっていた。
「飲んでください」
律が言うと、ルナはマイクに入らないよう小さく笑った。
「もう見られてるんですね。始まる前から見られてるの、ちょっと落ち着かないです」
「嫌なら言ってください」
「嫌じゃないです。慣れてないだけです」
ルナはそう言って水を飲んだ。
二十二時。
画面が切り替わる。
『こんばんは、白瀬ルナです。今日も来てくれてありがとうございます。今日は最初に言っておきますね。二十三時までです』
コメントが一気に流れた。
《ルナちゃんこんばんは》
《いきなり終了時間宣言?》
《今日は短め?》
《水飲んでてえらい》
ルナの視線が、コメント欄の中で少し泳いだ。いつもなら、ここで曖昧に笑って流していたのだろう。律は進行表の端を指で軽く叩いた。
ルナは少しだけ息を吸う。
『短めというより、ちゃんと終わる日です。楽しくても、今日は二十三時で切ります。途中で私が延長したそうな顔をしたら、みんなも止めてください』
《おお》
《止める係やる》
《でも延長してほしい》
《今日は終わらせるぞ》
コメント欄が笑いに変わる。
空気が軽くなった。
けれど、軽すぎない。
律はコメントの流速を見る。いつもより遅い。遅いというより、拾える速度に落ちている。ルナが全部に反応しようとせず、間を置いて読んでいるからだ。
前の配信なら、ここでコメントを拾いすぎていた。
笑う。拾う。また笑う。その繰り返しで、視聴者も本人も止まれなくなる。
今日は違った。
ルナはコメントを一つ選び、少し考えてから返す。
『最近よく眠れてるか? うーん、昨日はまあまあです。三時間を超えたので、私としては勝ちですね』
《勝ちの基準低い》
《寝て》
《五時間は寝ろ》
《それ勝ってない》
ルナが笑う。
『厳しい。でも、そう言ってもらえるのありがたいです。前は眠れてない話をすると、心配かけると思って避けてたんですけど、避けると余計に変な感じになりますね』
律はペンを持つ手を止めた。
今のは、いい。
無理に明るくしない。心配させないために笑いすぎない。コメント欄も、茶化しながら受け止めている。
《言えるのえらい》
《無理に笑わなくていいよ》
《今日のルナちゃん見やすい》
《声が楽》
見やすい。
その言葉が流れた瞬間、ルナの視線が横へ来た。律を見る。ほんの一瞬。
律は頷かなかった。
合図もしなかった。
ただ、ペンで進行表の次の話題を軽く示す。ルナは小さく笑って、画面へ戻った。
配信はその後も、大きく跳ねるわけではなかった。
でも、落ち着いていた。
ルナは全部のコメントを拾おうとしない。拾えなかったコメントへ申し訳なさそうに笑うことも減った。話題を変える時に一度水を飲み、視聴者もそれを茶化しながら受け入れる。
二十二時五十五分。
律は水のボトルを指で示した。
ルナは一瞬だけ眉を上げる。それから、配信画面のまま自然に水を取った。
『ちょっと水飲みます。今日はちゃんと飲んでます。偉いので褒めてください』
《えらい》
《水飲み配信》
《裏で誰かに言われた?》
《管理されてて草》
そのコメントで、ルナが少しだけ固まった。
律はすぐに首を振る。
拾わなくていい。
ルナはそれを見て、画面へ戻る。
『誰かに言われたかどうかは内緒です。でも、言われないと忘れることってありますよね。私はけっこうあります』
その返しで、コメント欄の空気が柔らかく流れた。
二十二時五十八分。
律は進行表の最後を指で叩く。
ルナはその音を聞き、コメント欄を見た。
《もう終わり?》
《早い》
《延長しよ》
《でも今日は二十三時までって言ってた》
《また明日でいいよ》
また明日でいいよ。
そのコメントを見た瞬間、ルナの唇が少しだけ止まった。それから、ゆっくり笑う。
『そうですね。また明日でいいですね』
声が、少しだけ違った。
明るいだけではない。
どこか、ほっとしたような声だった。
『今日はここまでにします。楽しかったです。ちゃんと楽しかったので、ちゃんと終わります。また明日、来られる人は来てください。来られない人は、ちゃんと寝てくださいね』
《おつルナ》
《また明日》
《ちゃんと終われた》
《見やすかった》
《今日好き》
配信終了。
画面が暗くなる。
配信ブースの中で、ルナはしばらく動かなかった。ヘッドホンを外すでもなく、マイクを切ったあとの姿勢のまま、暗くなった画面を見ている。
律は管理席から立ち上がり、ブースの扉を軽く叩いた。ルナがこちらを見る。
「終われました」
彼女は笑った。
笑ったのに、目元が少しだけ赤い。
「私、ちゃんと終われましたよね。延長したいって思ったし、コメントもまだ拾いたかったです。でも、二十三時って最初に言ったから、そこに戻れました」
「はい。戻れていました」
「……それ、すごく変な言い方です。でも、今はちょっと分かります」
ルナはヘッドホンを外し、机に置いた。指先が少し震えていたので、律は見ないふりをした。
「今日の配信、どうでしたか」
「見やすかったです」
コメント欄と同じ言葉。
でも、今はそれしかなかった。
ルナは一度だけ目を伏せる。
「それ、嬉しいですね。かわいいとか面白いより、今は少し嬉しいです」
控室に戻ると、相沢が慌ただしく入ってきた。
「ルナさん、切り抜き上がり始めてます。コメントもかなり良いです。今日見やすいって反応が多いですね」
ルナは律を見る。
律は資料を閉じた。
「数字より、今日は寝てください」
「余韻に浸らせてくれないんですか」
「余韻に浸るとコメントを見始めます。コメントを見ると寝れませんよ」
ルナは口を開きかけて、閉じた。それから、小さく笑う。
「怖いくらい正しいですね。でも、嫌じゃない。ちょっと悔しいだけです」
その時、律のスマホが震える。
切り抜き通知。
『白瀬ルナ、配信が急に見やすくなったと話題』
律は画面を見て、すぐ閉じた。別の通知が、続けて来る。
紅城アカリの切り抜きだった。
『紅城アカリ、今日も神対応! 延長しかけるほどファン想い』
律はそのタイトルを数秒見てしまった。
ルナが気づく。
「……アカリさんですか?」
「切り抜き通知です」
「見ますか」
「いえ……今は見ません」
答えは早かった。
早かったのに、スマホを伏せる手は少しだけ遅れた。
ルナは何も言わなかった。ただ、自分の水をこちらへ差し出す。
「律さんも、飲んでください。人に飲ませる人は、自分も飲むべきです」
律は少しだけ笑った。
「それは正しいですね」
水を飲む。冷たかった。
喉を通る冷たさで、ようやく今日が終わった気がした。
でも、スマホは伏せたまま机の上にある。
その黒い画面の向こうで、昨日まで見ていた配信者が笑っている。
律はそれを見ないまま、ペットボトルのキャップを閉めた。
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