第2話 うち、来ます?
白瀬ルナの事務所は、思っていたより小さかった。
トップ層のライバル配信者と呼ばれているわりに、受付の照明は少し暗く、廊下には使い終わった機材ケースが二つ積まれている。大手の余裕というより、必要なものだけを無理やり揃えた場所だった。
律は案内された応接室で、出された水に手をつけずに待っていた。約束の時間から七分遅れ。遅刻そのものは珍しくない。配信者の予定なんて、だいたいどこかで崩れる。ただ、廊下から聞こえる声が気になった。
「ルナさん、次の案件だけ確認を――」
「あとで見ます。ごめんなさい、ほんとにあとで見ますから。今見ると、たぶん全部気になるので」
柔らかい声だった。
でも、返事が少し早い。断るために急いでいる声だった。
扉が開く。
白瀬ルナが入ってきた。
淡い銀色の髪が肩の少し下で揺れる。画面越しでは白く光って見える髪も、近くで見ると少しくすんでいて、本人が思っているより疲れが出ていた。白いブラウスの袖口を指で押さえながら、彼女は申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、お待たせしました。昨日の今日で呼ぶのは失礼だと分かっていたんですけど、それでも一度、ちゃんとお話したかったんです」
「いえ。予定は空いていたので」
クビになった翌日ですから。
そう言いかけて、やめた。
ルナは向かいに座る。座った瞬間、ほんの少しだけ肩が落ちた。人前では姿勢を保っているが、座ると疲れが出るタイプだ。
律は水のボトルを見る。開いていない。彼女の前にも水がある。こちらは半分ほど減っていたが、キャップはきつく閉められている。たぶん、途中で飲むことを忘れる人間だ。
「昨日の配信、見ました。紅城アカリさんの配信です。あの場で名前を出されて、切られて、それでも何も言わなかったのを見て……正直、少し怖い人だと思いました」
「怖い、ですか」
律が聞き返すと、ルナは水のボトルへ視線を落とした。言いすぎたと分かっている顔だったが、言葉を引っ込める気はなさそうだった。
「普通、怒ると思うんです。あんなふうに配信中に切られたら、怒ってもいいはずなのに、灰原さんは何も言わなかった。だから少し怖かったんです。何を考えているのか、私には分からなかったので」
「怒らなかったわけじゃありません。ただ、あそこで怒ったら、アカリさんの配信がもっと壊れると思っただけです」
ルナは小さく息を吸った。
「そういうところです。怖いと思ったのも、呼びたいと思ったのも」
手放された側が、それを必要だと言われても困る。律は返事をせず、机の上の資料へ目を落とした。
過去一ヶ月の配信時間。予定より十五分延長、三十分延長、一時間超過。切り抜きの伸びは悪くない。むしろ延長した配信ほど数字がいい。数字だけを見るなら、止める理由はなかった。
でも、配信後の沈黙時間が長くなっている。
チャット終了から次のSNS投稿までの間隔。翌日の告知遅れ。喉の不調報告。資料を作った人間は、そこまで意味を読んでいない。数字を並べただけだ。けれど、律には嫌な形に見えた。
「今、裏方はいますよね」
律が聞くと、ルナはすぐには頷かなかった。否定したいわけではない。ただ、いるという事実だけでは足りないことを、どう説明すればいいのか迷っている顔だった。
「います。いますけど、みんな優しいんです。私があと少しやりたいと言えば止めませんし、コメントが盛り上がっていれば拾いましょうと言ってくれます。悪い人たちじゃないんです。むしろ、いい人たちだから困っています」
ルナの指が、ボトルのキャップに触れる。
開けない。
ただ、そこに逃げるみたいに触れていた。
「楽しいまま終われたら、たぶんそれでいいんです。でも最近、どこで終わればいいのか分からなくなるんです。もう一個だけコメントを拾ったら喜んでもらえる、あと五分なら大丈夫、今日は調子がいい。そう思っているうちに、配信が終わったあと、自分が何を話していたのか少し抜ける時があります」
声は落ち着いていた。
だから余計に、危なかった。
本当に壊れかけている人間は、最初から大声で助けを求めない。ちゃんとした言葉で、自分がまだ大丈夫だと説明する。
「昨日の配信、最後に何を言って終わりましたか」
ルナの目が止まった。すぐに答えようとして、指先だけが水のキャップに触れる。
「……来てくれてありがとう、だったと思います。たぶん。でも、その前に何を話していたかまでは、すぐに出てきません」
笑おうとしたのだろう。
けれど、口元だけが少し遅れた。
「覚えてないんです。変ですよね。楽しかったはずなのに、終わったあとだけ、ところどころ抜けてるんです」
廊下の向こうで、誰かが機材ケースを動かした。金具が床に当たり、短く鳴る。その音でルナの肩がわずかに揺れる。
「すみません。こんな話、初対面の人にすることじゃないですよね」
「仕事の話なら聞きます。そのつもりで呼んだんでしょう」
律がそう返すと、ルナは一瞬だけ黙ったあと、少し困ったように笑った。
「そうでした。私が呼びました。なのに、いざ聞かれると逃げたくなるんですね」
空気は少しだけ緩んだ。
でも、緩みきらない。
律は資料を閉じた。
「俺を雇うなら、最初に言っておきます。配信を長く伸ばすための裏方はできません。数字が伸びていても、切る時は切ります。演者にも視聴者にもスタッフにも、たぶん嫌われます」
ルナは少し目を丸くした。
否定してほしかった顔ではない。ただ、そこまでまとめて言われると思っていなかった顔だった。
「そこ、全部言うんですね。普通はもう少し、やわらかく言いませんか」
「やわらかく言うと、たぶん誤解します」
「私が?」
「俺もです」
ルナは水のボトルを見たまま、静かに息を吐いた。
「……それでも、必要だと思いました。優しい人だけだと、私は止まれないので」
律は昨日のアカリを思い出した。
もっと自由に配信したい。
一人でもちゃんとできる。
あの笑顔。あの声。そして、配信終了ボタンへ伸びなかった指。
たぶん、配信者は自由になった瞬間ほど、終わる場所を見失う。
「うち、来ます?」
ルナが言った。
明るく言おうとしていた。
でも、最後だけ少し震えた。
「正直、ちゃんとした条件はまだ詰められていません。契約書も今日すぐには出せません。でも、私には必要です。止める人じゃなくて、終わる場所を一緒に見てくれる人が」
律はルナの前に置かれていた水のボトルを指で示した。
「まず、飲んでください」
ルナは数秒固まったあと、おかしそうに笑った。
「本当に、そういう人なんですね。私がちょっと真面目なことを言っても、まず水なんですね」
「話す時、喉が少し引っかかっています。昨日の配信の影響だと思います」
「嫌じゃないです。ちょっと、安心しただけです」
ルナはキャップを開け、水を飲んだ。喉が動く。飲み終えたあと、彼女はボトルを両手で包んだ。
「昨日まで別の人の裏方だった人に、こんなことを言うのはずるいと思います。でも、私は今、少し安心しました」
安心。
その言葉は、昨日アカリが嫌がったものに似ていた。
守ること。止めること。見られること。
それが安心になる時もあれば、息苦しさになる時もある。その境目を、律はまだうまく読めない。
「一つ条件があります」
「はい」
「俺は、紅城アカリの悪口を言うためにはここに来ません」
ルナの表情が変わった。少し驚いて、それから静かに頷く。
「言わせません。私も、そういう勝ち方はしたくないです」
その返事は早かった。
早かったけれど、軽くはなかった。
律は頷いた。
「なら、話を聞きます」
「雇われてくれる、ではなく?」
「まずは話を聞きます。契約書も条件も見ていないので」
ルナは少しだけ肩を落としたあと、ふっと笑った。
「固いですね」
「昨日クビになったばかりなので」
「それを言われると、何も返せません」
初めて、二人とも少しだけ笑った。
応接室の空気が、ようやく人のいる場所に戻る。
ルナは資料を一枚めくった。指先はまだ少し震えていたが、水を飲んだせいか、声はさっきより落ち着いていた。
「では、話を聞いてください。私の配信が、どこから危ないのか」
律は鞄からペンを出す。
昨日、置いてきたものとは別のペンだ。
「見ます」
その一言を言った時、喉の奥に少しだけ苦さが残った。
また誰かを見るのか。そう思った。
でも、ルナは資料を差し出しながら、まっすぐこちらを見ていた。
見てほしい人の顔だった。
律はペン先を紙へ落とす。窓の外では、昼前の光が白く揺れている。昨日買った水は、まだ鞄の中に入っていた。
それを思い出して、少しだけ重くなった。
もし「面白い」「続きが気になる」と思ってもらえたら、フォロー・★★★・いいねをもらえると嬉しいです。
ひとつ反応をもらえるたびに、「次もちゃんと書こう」と思えています。
毎日20時更新予定なので、よければこれからも見届けてください。




