第33話
路面から衝撃が伝わる頻度が増えていくのに反比例して、人の気配がなくなっていくのが、閉ざされた車内にいるシャルロットにも伝わってくる。
車輪が段差に乗り上げるたびに、馬車の発する音以外のものが、聞こえなくなる時間が増えていっているような気がした。
自分の吐く息の音がやけに大きく聞こえ、思わず息を押し殺してしまいそうな衝動に駆られる。
時間が経つにつれ、不安が増大していく自分を止めることができない。
(……いけない……こんなことでは、『弱虫なんだね』って彼に呆れられてしまわれそうだわ。それとも、こんな私でも彼は『愛しい』と言ってくださるかしら? だけど……)
シャルロットは、侍女のアナから手渡された紙切れを握り締め、魂の底から湧きあがる、自身を喰らい尽くそうとする不安と必死に戦っていた。
「…………」
押しつぶされそうな沈黙が続き、ついには心臓の音までが大口を開けて、自分に襲い掛かってきそうな幻覚に囚われだす。
あとで迎えに来てくれるというが、その〝あと〞というのはいつのことなのか?
そもそも、本当に迎えに来てくれるのだろうか?
車輪が小石を踏み段差に乗り上げるたびに、心理的にも揺さぶられ、心の内にある光明にも揺らぎが生じていくようであった。
(……だけど、ただじっと待ちながら、望みを保ち続けることって、とても難しいことなのね……)
このままの状態が続けば、やがて救出への期待は諦念によって押しつぶされてしまうだろう。
(人の心に触れていないと、寂しさで心が衰弱する。でも、嫌なことがあるとすぐ気落ちしてしまう……私はなんて弱いの……なんて情けないの……)
天から与えられた美貌は、愛情に餓えた彼女の望み通りに、人をひきつける力にあふれていた。
しかし、引き寄せられるのは、好意を抱く者ばかりではない。
嫉妬、独占欲、敵意。そうした諸々の負の感情を、平然と跳ね返せるだけの強さを、彼女は、神からも両親からも与えられなかったのだ。
(――だけど、それが私。たとえ誰かを傷つけることになっても、やっぱり私にはこういう生きかたしかできない)
シャルロットが、『自身に向けられる好意にだけ、過敏に反応してしまう』とアーデルハイドに見られる理由は、そうした彼女の持つアンバランスさに起因しているといえるだろう。
その、外見と内面の矛盾は、彼女が背負った『業』――いや、もはや『呪い』と呼んでいいほど、深く刻み込まれたものであった。
シャルロットの人形のような無表情は、自分に向けられた悪意から心を守る盾であり、鎧の役目を与えられていた。それは幼い頃に身につけた、自身を守るための処世術であり、護身術というべきものであった。
ただし、それらがもたらす守護は、暴言の剣や中傷の矛といった切先の鋭い攻撃には強くとも、暗い水底に沈められるような、心細さという冷たい圧力から身を守るようには作られていないようであった。
(お願い、ローデリヒ様……!)
シャルロットは身じろぎひとつせず、ただ掌の中にある紙切れのみを心の拠り所にして、挫けそうになる自分の心と必死になって戦っていた。
――唐突な事態の急変が一行を襲った。
シャルロットの耳に、荒々しい馬のいななきが聞こえたかと思う間もなく、ガクンと大きな衝撃を伴なって馬車が急停止した。
「なんだ、貴様ら! 道を開けろ!」
御者台から大音声で怒号が発せられた。
アクシデントの発生に、アナは狼狽をあらわにしていたが、シャルロットはむしろ動きがあったことにほっとしてしまった。不安で押しつぶされるよりは、まだましだろうと。
だが、それは早計だったかもしれない。
つづいてシャルロットの耳に届いた、金属をこすれ合わせるような微かな音が、割れるような警鐘を、大音量で彼女の頭の中に鳴り響かせた。
(――剣を抜いたの!? 私、殺される!?)
これから起ころうとする惨劇の予感に、シャルロットは身を硬くした。
芸術の道に突き進んでいたローデリヒの剣の腕が壊滅的なのは、周知の事実だった。
ならば、道を塞いでいる者が王太子である可能性は低い。
「何者だ、貴様ら!?」
ふたたび御者の誰何の声が響く。
次の瞬間、死をまとった風が、馬蹄が石畳を叩く不吉な音と共にやってきた。
死神の乗る馬の足音が、車内にいるシャルロットの耳にも届いてくる。
「マルケス男爵令嬢の乗った馬車だな?」
ややくぐもった耳障りな響きは、地の底から響くような、ぞっとするような冷たい声。それは疑問ではなく、確認であった。
次の瞬間、空気を切り裂くような音が鳴った。
「あ……がっ……」
断末魔の声は上がらなかった。
噴出した鮮血が宙に舞い、地面を叩く音がその代わりとなる。
(殺されたの? 殺されてしまったの? 私のことも殺してしまうの!?)
シャルロットは、暴れだしたりこそしなかったが、それでも心中では錯乱状態に陥ってしまっていた。
途中の襲撃を予想していなかったわけではない。しかし、これほど問答無用で切り捨てられたのは、まったくの想定外であった。
彼女の対面に座る侍女のアナは、なにごとが起きたか理解できていないようで、キョトンとした表情をしていた。
やがて、スリットからただよってくる濃厚な血の匂いが、アナに車外の情景を教えた。
「……ひっ……!?」
彼女はひきつけを起こしたように、のけぞってそのまま固まった。
恐慌を起こした彼女が叫び声を上げなかったのは、ただ単に声すら出なくなっていたからに過ぎない。
同じように固まるにしても、陶器でできた人形のようにまったく取り乱さない主人とは対照的な姿であった。
(外では何が起こっているの?)
予想していたのと違って、すぐに連れ出されるわけではなかった。
この馬車には窓がなく、中からは聞こえてくる音でしか外の様子がつかめない。耳を凝らしてみると、剣戟の音が響いていた。今まで気づかなかったが、何者かが馬車の外で死闘を繰り広げているらしい。
この馬車は、中からは開けられない。彼女たちは待つこと以外にどうしようもできないのだ。
だが、戦いがあるということは、味方が外にいる可能性もある。
シャルロットの心に残ったかすかな希望の光が、ふたたび彼女の心を照らし始めた。もちろん、絶望の闇を追い払うには、到底光量が足りておらず、彼女に楽観をもたらすほどの力はない。
それでも、現実を直視する勇気を、彼女に与えるには十分であった。
馬車の内壁は、乗り込むときの心象では、金属で出来た檻のように威圧的に感じられたのに、いまは厚紙を貼り付けただけの張りぼてのような頼りなさだ。
そうしているうちに、何者かが勢いよく馬車にぶつかった。
フレームは大きく軋み、バラバラになるかと思われたが、予想に反し寸毫の破損も生じさせなかった。馬車は、堅牢な見た目にたがわぬ強度を示し、その面目を保ったといえよう。
しばらくして、辺りから喧騒が遠ざかり始め、やがて世界から取り残されたように、物音が何一つ聞こえなくなった。
――それから、どれほどの時間が経ったであろうか?
シャルロットとアナは、極度の緊張感にさらされたまま、狭く薄暗い空間に長時間閉じ込められてしまったせいで、時間の感覚が狂い、自分が正気を保っているのかさえ曖昧になりつつあった。夢と現実の狭間をたゆたう不思議な感覚に、精神が徐々に染まりはじめていた――
(ここはどこ? 私はもう殺されてしまったのかしら……)
そんな問いにも、応える者は誰もいない。
(――もういい、もうなにも考えたくない)
シャルロットが意識を手放そうとした瞬間――突如静寂が破られ、シャルロットのすぐ側でガチャリ、とドアノブがまわされる音が響いた。
「無事か? シャルロット!?」
開いた扉から強烈な光が車内に差し込む。
瞳の奥が焼けそうなほどのまばゆい光彩の中にいたのは、シャルロットが待ち望んだ最愛の人物、王太子ローデリヒその人であった。
安否を確かめるために繰り返される、自分の名を呼ぶローデリヒの声を聴くたびに、シャルロットは全身が溶かされていくような、不思議な感覚を全身で感じていた。
(夢……? 幻……? いえ、もう何でもいい。ローデリヒ様が……ローデリヒ様が来てくれた……!)
極限状態からの待ち人の登場は、シャルロットの魂に決定的な何かを刻み込んでしまったかのようであった。頬は高潮し、ローデリヒを見つめる瞳は歓喜に潤んでいた。
「……愛しています。ローデリヒ様……ローデリヒ様、もうお側を離れません」
それは救助されてからの第一声として、相応しいものではなかったかもしれない。本来ならば、感謝の言葉をさきに伝えるべきであったろう。
――だが、彼女はその時心に占めていた感情を、ただ当たり前のように言葉にしただけであり、その言葉を口にすることがおかしなことだとは、まったく思いもしなかった。
「愛してます……」と、うわごとのように繰り返すシャルロットを、ローデリヒは息が苦しくなるほどの愛しさをこめて、強く胸に掻き抱いた。
「……私もだシャルロット。怖い目にあわせてしまってすまなかった」
抱きしめあう二人を、侍女のアナがすぐ側で放心したように眺めていた。
――少し離れた場所から、完全武装した二人の男女がその様子を眺めていた。
「――これで満足か、ハイディ?」
「いえ、まだです、クラウス様。二人が結ばれるためには、あとひとつ大きな障害があります。それを乗り越えてこそ、あの二人はやっと本懐を遂げることができるでしょう」
「そうか」
「ええ、では私たちは彼らの後押しをするためにもうひと働きといきましょう」
クラウスとアーデルハイドの二人は、逃げ残った襲撃者を一網打尽にすべく頭を切り替え、戦いの場に戻っていった。




