第32話
学院の前に停められていた馬車は、じつに形容し難い怪しさに満ちており、まともな神経の持ち主であれば、よほどのことでもなければ乗り込みたいとは思えないであろうほどの、強烈な忌避感を感じさせる代物であった。
「あれに乗り込め、と?」
シャルロットの視線の先に鎮座しているのは、全体を黒く塗られた馬車。
重厚というよりも、威圧感をより感じさせる車体は、ほとんど金属の塊といっていいほどの無骨な形体をしていた。
窓がない代わりに細かいスリットが入っているが、外からは中の様子がまったく確認できない。おそらく車内からも同様に外の景色を見ることは不可能であろう。
「シャルロット様、さすがにあれはヤバくないですか?」
シャルロットの侍女のアナは、自分の声が震えているのを自覚したが、まったく恥ずかしいとは思わなかった。むしろ、あんなものを前にして平然としている人間のほうが、精神構造的にどうかしているに違いないと思う。
主人の際どい行動には慣れてしまっているはずのアナであったが、慣れたからといって心楽しくなれるわけでもない。
明らかに腰が引けているアナをよそに、御者はシャルロットにためらわず馬車に乗り込むようにうながした。
「急いでください!」
「……仕方がないわ。諦めましょう」
「そんなにあっさり諦めないでくださいよ……」
アナの泣き言は、シャルロットの行動に、髪の毛一本分ほどの影響すらも与えられなかったようである。
主人と共に馬車に乗り込んだアナは、ふと強い違和感を覚えた。しかし、ありとあらゆるところにおかしさを感じてしまっていたために、感じた違和感の正体が何なのか、その時は気付くことができなかった。
スリットからもれる光のみを光源とした車内は相当に暗く、細部にまで光が行き届くことはない。
足元の闇から何かが飛び出してきそうな幻覚に、アナは気が気ではなかったが、彼女の主人はまるで動じた様子を見せなかった。というより視線を手元に固定したまま石像のように固まっていた。
(また見てる……)
シャルロットの手元に握られているのは、一片の紙切れであった。
それはナターリエを経由してアナの手からシャルロットに渡されたものである。
もっともそれは、〝単なる紙切れ〞、とはいえなかった。
そこには、王太子ローデリヒの署名が入っていたのだ。
余白部分には、乱雑な筆致でこう書きなぐってあった。
『あとで迎えにいく。いまは彼らの指示に従うように』と。
ただ、アナの見たところ、メモと署名で筆跡が違っているのが気になった。
そもそも、ローデリヒは現在、王宮にいるはずである。どうやってメモを書いて寄越したのか……
――筆跡の違いを見過ごさなかったアナの眼力は、わりと馬鹿にできないものといえよう。
実際、署名はローデリヒ本人のものだが、メモはオットーが書いたものだ。
ローデリヒ本人の署名が入った白紙のメモは、この日のために用意してあったオットーの切り札であった――
神経が過敏になっていたアナは、馬車の外の状況の変化にいち早く気が付いた。
(外の様子がおかしい……?)
王立学院からマルケス男爵家の別宅のある貴族街までの街道は、整備が行き届いているはずである。
何しろ王立学院は、王都の一等地に建てられているのだ。
にもかかわらず、馬車は不安定に左右にゆれ、たまに小石を拾ってしまったようにガタンと大きな音を立てて、衝撃が彼女たちに襲ってくる。
明らかに道の状態が悪くなってきているのだ。
外の様子を見ようとして、アナは乗り込んだときに感じた違和感の正体を、その身を持って知ることができた。
扉を開けようとした彼女の手は、なにも掴むことができなかったのだ。
(取っ手がない?)
馬車の内側には取っ手がなく、中からは開けられない構造になっていた。
「シャ、シャルロット様……」
思わず主人に助けを求めてしまったアナは、極端なまでの小心者であった。
二年前、女装して頭巾を目深に被った、顔の見えない怪しい人物が、剣を抜いて近づいてきただけで、彼女は恐怖のあまり失神してしまった。彼女がオフィーリアに話したというのは、そのときの話であった。
――ちなみに殺害云々の話を吹き込んだのはオットーである。
アナが意識を回復したとき、シャルロットはオットーによって別の場所に匿われていたが、彼は『賊に襲われて殺された』と彼女に説明した。『ここにいないのは死体を別の場所に運び込まれたあとだからだ』、と。
相談相手にオフィーリアを選ばされたのも、オットーの差し金であった――
「シャ、シャルロット様……?」
もう一度呼びかけるが、相変わらず返事はなかった。
急速に拡がる不安に心を覆いつくされそうになった彼女は、シャルロットの返事を諦め、今度は御者に語りかけた。
「ねぇ、御者さん。この馬車どこの向かっていますの?」
「…………」
「お屋敷なら、道が違うんじゃありませんの?」
「……いや? この道であってますよ」
涙目で震えていたアナは、返事があったという一点だけで大きく安堵した。
だが、続く言葉に完全に凍り付いてしまった。
「あなたが目的地を勘違いしているんでしょう。馬車は屋敷には向かっていませんからね」
「ど、どういうこと……?」
「地獄へ送ってやるっていってんだよ。その前に楽しませてもらいたかったが、雇い主がうるさいんでね。俺の役目はあんたらを引き渡して終わりだ。もう少し黙って待っていな!」
もう隠す必要もないと思ったのか、口調も粗野なものに変わった。いや、もとに戻ったというべきか――
アナの脳裏に二年前の恐怖がよみがえった。意識を失わなかったのは、まるで動じるところを見せないシャルロットの態度に引きずられただけに過ぎない。
彼女自身は、泣き出しそうな表情のまま、もはや一言も発することができなかった。
「だまって、アナ。見苦しいわよ」
彼女は、主人に言われるまでもなく、すでに言葉を失っていたが、シャルロットはお構いなしに言葉を続けた。
「大丈夫です。私の危機をローデリヒ様が黙って見過ごすはずはありません。きっと助けに来てくれます」
夢見るような口調で断言するシャルロットの妄想めいた言葉には、アナを落ち着かせる効果が含まれていたようだ。
不思議と震えがおさまり、不安で崩壊寸前だった思考が、少しだけ機能の回復に成功したようであった。
(あの人が助けに来たって何も出来ない気がするんですけど……)
もっとも、最初にアナの頭に浮かんだのは、そんな突っ込みの言葉であった。




