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第30話 

 学院の情報を伝える役割を、オフィーリア本人より直接仰せつかっていた子爵家の令息は、当初、それをとても光栄なことだ考えていた。

 その顔は喜びにあふれ、どんなささいなことでも報告をもたらすべく、毎日のように王宮に足を運んでいた。


 しかし、この日は役目を引き受けたことを、切実な思いで嘆いていた。

 学院で起こることは、オフィーリアの都合のいいことばかりではないと想像できていなかった彼は、ナターリエとシャルロットの仲が急速に近づいていく状況を、どのように伝えるべきか、自らの軽率さは棚に上げて頭を抱えてしまっていた。

 もちろん途方にくれているばかりでは、問題は解決しない。

 傍から見れば自業自得なのだが、この令息はナターリエを逆恨みし、結果的に最悪の選択を下してしまう。自分に怒りの矛先が及ばないようにと、ナターリエに関する流言を、さらに誇張してオフィーリアに伝えるという愚を犯してしまうのだ。


 曰く、「ナターリエ様は学院でのオフィーリアの地位を乗っ取ろうとしているのではないでしょうか?」「オフィーリア様を裏切ってシャルロットを仲間に引き入れたようです。楽しそうにおしゃべりしているところを、少なくない者が目撃しています」「目的ですか? うわさですが、どうやら王太子ローデリヒ殿下のことを狙っているのではないかと……」etc……


 部屋の端で待機していたメイドには、報告を聞いていたオフィーリアの血の気が引いていく音が聞こえてくるようであった。そう錯覚してしまうぐらい、オフィーリアは急激に顔色を失っていった。


 その結果、『虚無』と題されるべき彫像が生み出されてしまう。見る人を慄然とさせるような存在感を放つそれは、もはや芸術作品といっても過言ではなかろう。

 だが、その作品の寿命はごく短かった。

 『虚無』のあとに生まれたのは『破壊』という名の自動人形であった。

 それは奇声と共に室内で荒れ狂い、おびえた顔の侍女たちは、声を掛けることもできず、立ちすくむだけであった。


 元凶となった子爵の令息は、心身喪失した彼の崇拝対象のあまりの狂態に、後ずさろうとして失敗してしまった。

 よろめいてしりもちをつき、恐怖のあまりみっともなく股間をぬらした。


「あの女……! 許せない! わたくしから大切なものを奪って! 友人も、名誉も、誇りも! 何もかも! 許せない! 許せないわシャルロット! どうして? わたくしを裏切って! どうしてわたくしを裏切ったの? ナターリエどうして……?」


 うめくように搾り出されるのは、ただひたすら呪詛と嘆きの言葉。


 ナターリエに慈愛を与えようとしたのに、その彼女に裏切られた。自分はなんというおろかな道化(ピエロ)を演じていたのであろうか!

 信じられないという思いが恐慌に変わり、危ういながらもかろうじて保っていたオフィーリアの精神の均衡を、根元から叩き折ってしまったのであった。


 ナターリエが行動を起こした動機は、状況を改善しようとしただけで、欠片の悪意も含まれてはいなかった。

 だがその行為は、結果としてオフィーリアの精神に、致命的な亀裂を生じさせる起因(トリガー)となった。


 すべてを破壊し尽くす暴風は、『許せない!』と『どうして?』をあと50回ほど繰り返したあと、ヴァイオレット伯爵令嬢マグダレーナが王妃ベアトリクスを連れてくるまで収まることはなかった。


 ――マグダレーナに伴なわれてやってきたベアトリスは、部屋の惨状には一切触れず、幼子のように感情をもてあます愛しい姪を、ただやさしく抱きしめた。

 変わり果てたオフィーリアの姿に衝撃を受けているマグダレーナをさがらせ、赤子をあやすように声をかけ続ける。


「もう大丈夫よ。オフィーリア」


 はじめのうちは抵抗していたオフィーリアも、暖かい胸に抱かれているうちに、次第に落ち着きを取り戻した。

 そのまま、されるままに肩を抱かれて別室に連れて行かれ、おかれていたソファにベアトリクスと共に身を沈めた。


「そう、それは辛かったわね」


 何があったのかは、敬愛する王妃の前では素直に言えた。

 オフィーリアにとってベアトリクスは、両親以上の存在なのだ。それどころか、いまや彼女に残された、ただひとつの心の拠り所になっていた。


 話を聞き終えたベアトリクスは、彼女の行いのすべてを肯定し、苦しみの元凶を彼女から遠ざけるよう勧奨した。


「どうやらマルケス男爵令嬢は、あなたに苦しみを与えているだけの存在のようですね」


 王国の最高権力者として、ベアトリクスはそう結論付けた。


「ベアトリクス様……」

「オフィーリア。シェーンバッハ侯爵令嬢のことは残念でした。もっと賢い子かと思っていましたが、彼女はあなたの友人には相応しくなかったようです。ですが、いまはそれよりもマルケス男爵令嬢のほうを無視するわけにはいきません」

「……わかっています」

「マルケス男爵令嬢の身の程を弁えない振る舞いについては、これまでも何度か耳にしています。ですが子供のすることに親が介入しすぎるもの良くないと、いままではずっと大目に見ていました。けれども、それは間違いだったようです。わたくしの愛しい娘をこのような目に合わせて……後悔で胸が張り裂けてしまいそうです」


 となりから伝わる包み込むようなぬくもりに、オフィーリアの心はすっかり溶かされてしまっていた。

 恥ずかしそうにうつむいたまま、小声で謝罪の言葉を口にする。


「感情を抑え切れずに、ベアトリクス様にまでご迷惑をおかけしてしまったこと、恥ずかしく思います。まことに申し訳ありませんでした」

「良いのです。あなたから受けるものなら、痛みですら喜びに変わるでしょう。ですが、やはりあなたが心を痛めているところを見るのは、わたくしも辛いのです」


 うつむいたオフィーリアからはベアトリクスの表情は見えない。

 だが、その声音は、限りなく優しさが感じられるもので、傷つき脆くなっていた心にすっと入り込み、暖かく優しく包み込んでいくのを実感できた。


「オフィーリア、わたくしにすべてを委ねてくれますか? 悪いようにはしないわ。ずっと考えてたことがあるの」

「それは……はい、お任せいたします」


 感情を爆発させてしまったあと、子供をあやすようにずっと優しく背中をさすられ続けることで、考えることを放棄してしまっていたオフィーリアは、両親以上に信頼する伯母(ベアトリクス)がかける甘い言葉に、逆らうことなどできようはずがなかった。

 疑問を抱くことなく、うつむいたまま了承の答えを返した。


「ようやく決心がついたのですね!」


 オフィーリアが顔を上げようとしなかったのは、泣きはらしたあとの顔を見られるのが恥ずかしかったからであろうが、もしそこでベアトリクスの顔を見たとしても、彼女は同じ答えを返しただろうか?

 そのときのベアトリクスの顔に張り付いていたのは、醜く歪んだ、悪魔のような笑みであった。幸か不幸か、それを知るのは鏡に映る自分の表情を見ていたベアトリクス本人だけであった。


 まともに思考が働いていなかったオフィーリアは、ベアトリクスに白紙の委任状を手渡してしまったことに、最後まで気付くことはなかった。

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