第28話
これを戦いに喩えるならば、シャルロットの守りは、ナターリエが考えているよりもはるかに堅牢なものであった。
ナターリエが牽制に繰り出す話題を、鉄壁の返しでことごとく跳ね返していく。
取り付く島のない無表情を崩すことなく、ローデリヒへの足がかりを掴みたいナターリエに攻略の糸口を与えない。
一向に警戒心を緩めないシャルロットであったが、完璧と思われた防御は、ひとつのきっかけから意外なところに穴が穿たれた。
それはちょっとした日常会話。
そして、難攻不落に思えた城砦は、ひとつのほころびからあっという間に陥落してしまう。
ただし、それは攻め手側をも巻き込んで、すべての心理的な障壁を吹き飛ばしてしまうほどの破壊力を伴なっていた。
「あなたの髪ってとてもいい香りがするわね。どんな香油を使ってらっしゃるの?」
それは、ナターリエが気を紛らわすために持ち出した、当たり障りがなく、かつずっと気になっていた話題。
美容にはそこそこ詳しいつもりのナターリエであったが、シャルロットから漂ってくるほのかな芳香は彼女の知るもの中には含まれていなかったため、少なからぬ興味をひいていたのである。
「これは外国製のものです。輸入雑貨を取り扱う店で手に入れました」
すっと手櫛で髪をすきながら、うれしそうに答えたシャルロット。
繊細で、かつ際どい要素を含む、神経をすり減らすような話題の応酬。
そこから切り替わったタイミングで、ナターリエが無意識に口にした何気ない日常の身近な話題は、警戒心を一瞬緩めてしまったシャルロットの障壁の隙間にすっと潜り込んでいき、彼女の琴線に触れてしまったようであった。
ようやく返ってきた感興の乗った反応に、ナターリエの機嫌も良くなり、さらに話題を繋ぐ意欲が出てきた。
「まあ、珍しいものですのね。どこでお知りになられたの?」
「いいでしょう? オットーが紹介してくれたんです」
それまでの慎重さを捨てて、あっけらかんと答えるシャルロット。
「オットー様が?」
意外な名前を耳にし、ナターリエは小首をかしげた。思い浮かべたオットーは髪を短く刈り込んでいたのだ。
「……似合いませんわね」
ナターリエは、率直な感想を口にした。
するとシャルロットはとっておきの秘密を開陳するかのように、悪戯っぽい笑みを浮かべてナターリエに耳打ちする。その仕種は無邪気な子供のようで、いままで持っていたシャルロットに対する偏見を完全に打ち壊す威力があった。
「それがそうでもないんですよ。彼が勧めてくれたものには怪しげなのも多いですが、とにかく、いろいろなものを試しに買っているみたいですよ?」
美容に関しての話題は、花の香りが虫をおびき寄せてしまうように、女性たちの関心を引きつけはじめる。
「何でも、『王立学院にいるのだからいろんな情報を持っているだろう』と実家の女性陣からプレッシャーをかけられているのだとか。彼が女性用の美容品に詳しいはずなんてあるわけがありませんのにね。ですから、彼が試しに買ってみたものを私が実際に使用してみて、その感想を教えているんです。中にはいまいちな物も少なくありませんでしたが、おかげでそれまで知らなかったものまで試すことができたので私も満足です。この香油もそのうちのひとつなんですよ」
そう饒舌に返すシャルロットは、もう表情を持たない人形ではなくなっていて、喜びが内側からあふれ出てくるような輝かしい笑顔を振りまいていた。
その姿は、ナターリエから見ても、たしかに人を虜にさせずにはいられない魅力に溢れていた。
「まあ、よろしければ私もあなたのお勧めを教えてもらいたいわ。ダメかしら?」
「ええ、よろこんで」
「私も! 私も教えてもらいたいわ!」
不意に第三者の声が介入してきた。
いつしかシャルロットとナターリエの会話は、サロンの外で耳をそばだたせていた女性たちの関心までも引き付けてしまったようであった。
「あなたたち、いつの間に……」
「えっと、まぁいいじゃないですか。それよりシャルロットさん! あなたのお勧めを……」
「……ええ」
そうしているうちに、会話に参加する者も増え始め、ナターリエがはっと我に返ったときには、こっそりあとをつけてきた有閑令嬢たちをも巻き込んだ、一大美容討論会の様相を呈していた。
(……どうしてこうなっちゃったかなぁ)
予想外の盛り上がりにナターリエは呆気にとられたが、それ以上に素のシャルロットに触れた衝撃のほうが大きかったかもしれない。
(かわいい……)
それが、初めて屈託のない笑みを浮かべたシャルロットを見た、ナターリエの正直な感想であった。
(彼女、こんな子だったのね)
アーデルハイドは言っていた。シャルロットは自分に向けられる好意に敏感だなのだと。
(このことだったのだわ)
シャルロットがナターリエに向ける笑顔には、打算も駆け引きも超えたところで、人をひきつける引力が備わっているかのようであった。ほんの僅かに会話を交わしただけなのに、彼女を気に入りかけている自分を発見したナターリエは、戸惑いを隠せない。
クラウスが出会ってすぐプロポーズしたくなる気持ちも、これを経験してしまった今では理解できてしまいそうである。
この心地よさは、オフィーリアの側では決して得られなかった類のものであったのだ。
(ローデリヒ殿下のことはもう少し後でもいいか……)
しばらくは、この屈託のない笑顔に癒される心地よさを堪能していたい。
そんなことを考えてしまうナターリエであった。
誰もいない教室で、アーデルハイドは一人、机に積まれた書類にペンを走らせていた。
教室内の空気がかすかに揺らいだ瞬間、アーデルハイドの整った柳眉がピクリと反応し、手元の書類に何事かを書き込んでいた手を止めて、誰もいないはずの空間に向かって呼びかけた。
「グラス? 私に何か用なの?」
「……はっ」
入り口の扉の前に、騎士科の制服を着た男が揺らめくように姿を現す。
「その前に、何をなさっているか聞かせてもらってよろしいか?」
「ああ、これ?」
アーデルハイドは手元に置かれた書類の山を一瞥した。
「気付いたら、学院祭の実行委員に選ばれてたわ。しょうがないから、ことが起こる前にすべての仕事を終わらせておこうと思っているのよ。で、そちらはなに? わざわざ危険を冒してまで接触してくるってことは、けっこう一大事なのよね?」
「それが……」
グラス呼ばれた男は、パラダイン家の密偵の一人で、いまはアーデルハイドの直属として、彼女の指示で動いている。
彼からナターリエの暴挙に関する報告を受けたアーデルハイドは、脱力したように背もたれに身体を預け、呆然と天井を見上げた。
「なにやってるのよ、ほんと……」
オフィーリアの意識改革をするようにとアドバイスしたはずが、なぜシャルロットとの美容談義にすり替わってしまったのか、アーデルハイドにはまったく理解できなかった。
「それに関連するかはわかりませんが……」
もうひとつの報告は、公爵令嬢オフィーリアに関するものであった。
彼に与えられた任務は、本来こちらが主であったが、鮮度の高い情報を優先したため本命の情報はあとに回したとの前置きがあり、それから本題に入った。
ナターリエが屋敷で語った内容から危機感をつのらせたアーデルハイドが、ひそかにオフィーリアの身辺を探らせていたのだが、報告の内容は眉を顰めてしまいそうな、非常に芳しくないものであった。
「良くない傾向ね」
「はっ。どうも、精神的に不安定になりつつあるようで……いつ理性の糸が切れても不思議ではないかと――」
「そこで、ナターリエ様の暴挙ね。オフィーリア様がどう捉えるか……ちょっと危険な兆候かも知れないわね」
「いかがしますか?」
「思ったより、早まりそう?」
「そう考えます」
アーデルハイドは小首をかしげ、考えをめぐらす。決断は早かった。
「いつでも動けるように態勢を整えておいて! 卒業どころか、学院祭が始まる前にことが起こる可能性が高いわ!」
「はっ!」
「なるべく、衝突は避ける方向で動きたかったのだけれど、相手は王宮にこもってるんじゃ、こちらからは手の出しようがないわ。後の先で、敵の動きを利用させてもらう方向で動きます。おそらく狙われるのは、マルケス男爵令嬢シャルロットかシェーンバッハ侯爵令嬢ナターリエ。決して警戒を怠らないで! あと、こちらの動きを相手に悟られても駄目。こちらが破滅する羽目になります。気を引き締めて!」
「わかりました」
足元の蠢動は影の中で急激な変貌を見せはじめ、大きくうねりながらその姿を固めつつあった。
学院内の派閥闘争の中で暖められ続けた〝謀略〞という雛は、当初の思惑とはかけ離れた形で、アーデルハイドの目が届かない場所から孵化を始めていたようだ。
殻を破って世に出たあと、何が起こり、生き残る者が誰になるかは、いまの時点では誰にも予測がつかなかった。




