第10話
王立学院の女子寮は、校舎から北に数分ほど歩いた先にある。
宿舎前の階段を上ったところには重厚な門が設置されている。守衛は交替制で、常にだれかしらが待機し、玄関を通る人の出入りを監視している。
高貴な身分の者がここで寝泊りする以上、当然ながら王国でも有数の厳重な警備体制が作り上げられていた。
宿舎は相部屋の平民エリアと個室が与えられる貴族エリアに分けられているが、その貴族エリアの中でも、侍女用の個室までが用意された特別な一画が存在した。
その特別区画の一室で、一人の少女が居間におかれた椅子に腰掛けていた。
日が高く昇る時間帯でありながら、閉じられたカーテンによって窓明かりがさえぎられた薄暗い部屋に、ぽつんと置かれた椅子とテーブル。
少女は椅子に腰掛けたまま、まるで時が止まってしまったかのように、身じろぎひとつせず、ただそこにいた。
――美しい少女であった。
顔にかかる亜麻色の髪は、清楚さと艶やかさを両立し、白磁のようなつややかな肌と透き通るような水色の瞳とわずかに幼さを残す造形が、絶妙なバランスで同居している。
彼女を前にしては、同じ空間を共有する誰もが、神によって作り出された完璧な人形がそこに置かれているかのような錯覚すら覚えてしまうことだろう。
カーテンが締め切られた薄暗い部屋は空気すら重く、この部屋だけ時間の流れが狂っているかのように感じられた。
誰もいない椅子を正面におき、少女は一人、何もすることなくただ椅子に腰掛けている。
ふと、少女の頬がピクリと動いた。
人形に息吹が吹き込まれたかのように少女に生気が戻り、ようやくこの完璧な造形をもつ少女が生きた人間なのだという実感が湧く。
締め切られていた室内の澱んだ空気が微かにゆらぎ、その直後にパタンと小さな音が少女の耳に届いた。
――それは公然にはできない来客の到来を告げる合図であった。
無邪気さと狡猾さを同居させたような、なんともいえない微妙な表情を顔に貼り付けた男が、ためらいなく部屋の主である少女が座るテーブルの正面にまでやってきて、空いた椅子に腰掛けた。
男の名前はオットー。
現在の財務卿の子息であり、将来の幹部候補としてうわさされている男であった。
「……こうして薄暗い部屋に閉じこもっていると、気分まで暗くなってしまうわね。まだ出てはいけないのかしら?」
やってきた男に向けて歌うようにつむがれた言葉は、内容だけ見れば不満の表明であるはずなのに、鈴を鳴らすような声のおかげか、不思議と聞く者に不快な印象を与えなかった。
むしろ頬を膨らます子供っぽい仕種すら、親密さを演出するのに役立っているように錯覚させられる。
話す相手にネガティブな感情を懐かせないのは、この女の天から与えられた才能なのだろうなと、向かいに座ったオットーは妙な感銘を受けていた。
(……本当に美人というのは得ですね)
だが、口にしたのは別のことであった。
「もう少しの辛抱ですよ、シャルロット様。いまは、『婚約破棄に傷つき、落ち込んだ少女を、心配した王太子が立ち直らせるべく、自ら少女のもとへ足を運んで慰めている』というシナリオを構築している最中です。あなたは王太子のその優しさに惹かれるのであって、それ以前には親しい交流など、決してなかったわけですから――公然での話では」
「ご苦労様……ほんと、面倒でかなわないわね、貴族社会って」
悪戯っぽくからかう絶世の美少女の微笑は、傍観者を身上とする男ですら、その先に破滅が待っているとわかっていても、思わず手を出したくなるほどの魅力を感じざるにはいられないほどのものであった。
(彼女に自覚がない分、罪は深いんですよね)
質素な部屋着を羽織っただけのラフな装いで、なおかつ薄暗い部屋の中にあっても、彼女の美貌はいささかのかげりも見せない。
生気あふれる美しさは、巷でうわさされるような、婚約を破棄され傷心を抱えて部屋に閉じこもってしまった少女にはとても見えなかった。
(……実際のところ、傷心云々の話は僕自身が広めた捏造なわけですが)
「やむを得ません。これからの展開に説得力を持たせるには、多少の細工は施しておかないと」
「私は気にしないけど?」
「そこがあなたの魅力でもありますが……残念ながら世間では〝評判〞というのはなかなか馬鹿になりません。何しろ彼らがあなたの行動の正当性を担保してくれるのですから、多少の手間は惜しむべきではないかと」
「そんなものかしら?」
「ええ、そんなものなのですよ、世の中というのは。物事の正当性というのは行為そのものではなく、大多数の人々の欲求によって決まるのです。ですから多数を味方につけるための大義名分を用意しておく必要があるのですよ」
「そうですか……」
シャルロットはため息の代わりに口元を綻ばせた。
「なら、あなたに任せるわ。あなたのすることに興味はないけど、邪魔する気もないから好きにやってくれてかまわないわ」
(まぁ、なんとも彼女らしい言い回しですねぇ……)
あまりに直截的すぎる承諾の言葉に、わざとらしい慇懃な態度でオットーは頭を下げた。
それを見たシャルロットが、二人の関係性をおかしく思ったのか、オットーに向けてクスリと自然な笑みをこぼしてみせた。
シャルロットという少女をよく知る彼は、それを嘲笑とは受け取らなかった。
地位的にははるかに上にいるはずの財務卿の跡継ぎが、こうして一介の男爵令嬢に頭を下げているのだ。その奇妙さを思えば、笑みのひとつもこぼれるだろうと、オットーは別段気にした様子もなかった。
――近隣諸国に比肩する者のない、透き通るような美しい容貌と、孤独を嫌い、誰彼かまわず愛されたがる困った性癖、にもかかわらず感受性はむき出しのままで、打たれ弱く傷つきやすい繊細な精神の持ち主。
そのくせ言動は直截的で、相手の自尊心に配慮するそぶりすらみせず、敵を作りやすい性分。
それがオットーが知る、美貌の下にある一人の人間としての、マルケス男爵令嬢シャルロットという少女の本質であった。
(まさに、傾国の美女というべき存在……)
彼の目の前にいる美姫は、いつ破綻してもおかしくない、精神のきわどい均衡によって形作られている。その危うさこそが、ある意味彼女の魅力を、よりいっそう引き立てているといえよう。
彼女につきまとうアンバランスさは、周囲を巻き込んで、人々から虚飾の仮面を奪い取り、彼に人間の真実の姿を見せてくれる。
普段は良識という衣に覆われて、見ることができない人間の本性とは、薄皮一枚の下で蠢く感情の坩堝の中にあるとオットーは考えている。
シャルロットの危うさは、触れ合う者の感情を波立て、薄皮の下にある人の本性を暴きだすのだ。
オットーが、自身すら惑わすこの厄介な令嬢の助力にためらいを覚えないのは、他では得られないそんな快楽が、彼女の側にひそんでいるからであった。




