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蒼境の子羊《メシア》たち  作者: くろ飛行機
3章 ぬくもり
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13 おれの意思で


 深夜一時。誰もいないはずの校舎に、大きな足音が響いている。

 北棟にある第一化学教室から、うっとりと笑った中年の男が廊下を進み、南棟三階にある第二化学教室へ向かっていく。


 ――――――引き戸を開いた先にいたのは、窓から差し込む月の光に照らされた美しい女子生徒だった。


「近藤さん」

「……来たの、前川先生か」


 雪は酷く憂いを帯びた表情で前川を見つめる。前川は顔を赤らめながら雪に近寄ると、シャツのポケットからメモリースティックを取り出した。


「これが君のために持ってきた、施設のデータ(・・・・・・)だよ。これで、〈E3研究棟〉までの施設の概要がわかる。それ以降はちょっと、私たちにもわからない」

「そう……有難う御座いました」


 雪はメモリースティックを受け取ると、前川から離れようとする。しかし、前川は狂気的な笑みを浮かべ、背中から雪に抱き着いた。


「あ、ああ。あああ、愛している。君のことしか考えられないんだ。君のことしか頭にないんだ。ああ、どうすれば」


 雪はメモリースティックを傍にあった机に置いた。前川は恍惚の笑みを浮かべたまま、雪の体を無理やり机の上に押し倒す。


「好きだ。好きだ。愛している。愛している。だから、だから」


 前川は荒い呼吸のまま、雪の制服に手をかける。雪は無感情な顔で前川をじっと見つめているだけで、一切抵抗しなかった。


 夏服のボタンが一つ一つ外され、滑らかな肌が露わになっていく。

 雪の瞳に映る前川の姿が――――――欲望に塗れた前川の姿が、いつの日か憎んだ男と重なって見えた。


 ――――――大好きだった母。唯一の家族だった母。どんなに貧しくても生きていけた。母が笑っているだけで、生きていけた。

 どれだけ母から叱られようが、理不尽に罵倒されようが、大好きだった。好きでいようとした。見放されたくなかった。独りは嫌だった。


「いい、雪。お母さんが帰ってくるまでいい子にしててね。絶対に、家から出ちゃだめよ」


「お母さん、どこへ行くの?」


「お母さんは買い物に行くだけよ。ちょっと長くなるけど、待っててね。必ず帰る(・・・・)から」


 信じて待ち続けた。どれだけ寒くても。どれだけお腹が空いても待ち続けた。


 でも――――――母は永遠に帰ってこなかった。


 憎い。

 ()が憎い。()が好き。()が憎い。空腹(・・)が辛い。寒い(・・)のは嫌い。

 乾いていく心、母を奪っていった、()が憎い――――――。


 前川がブラジャーに手をかけた瞬間、左手の薬指にきらりと光る銀色の指輪が見えた。

それを見た雪の右目から、涙がツーと流れ落ちる。


 雪は右手の親指を、心臓に突き立てた。


臨起戒抗(りんきかいこう)


 自分に芽生えた能力。それは、憎んだ()を無理やり手に入れるための力だった。

 雪の言葉と共に、心臓から青黒い液体が噴出する。液体が目の前の前川に付着し、体を染め上げていく。


「……」


 前川の瞳孔が高速で動き始める。全身から汗が流れ、頬が赤らむ。荒かった呼吸がさらに速度を増したところで、雪は机の中に隠していた果物ナイフを取り出した。


 ――――――人を、殺したくない。

 力を使いたくない。母と同じになりたくない。乾いた心に偽りの愛を注いでも、何の意味もない。


 雪は果物ナイフの柄を、そっと優しく握らせる――――――。

 後は命じるだけだった。いつもと同じく、私のために(・・・・・)死んでくださいと、偽りの愛に殉じさせるだけ。

 なのに、なのに、言葉が出なかった。どうしても、言い出せなかった。


 ――――――助けになりたいって言ったの、嘘じゃない(・・・・・)よ。


 昂大の一言が、雪の脳裏から消えない。

 酷いことを言って、生徒たちを徒に傷つけ、挙句の果てに最低なことをするよう命じた自分に対して、昂大はそう言ったのだ。


 嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、たまらなかった。


「……助けて」


 ようやく出た言葉は、前川の耳には届かなかった。


「雪!!」


 その時、勢いよく引き戸が開け放たれる。肩で息をした昂大が、廊下からこちらを見ていた。

 雪は無意識に、昂大に手を伸ばす。


 ――――――好き。

 あれほど憎んだ愛に縋る。気持ち悪くて気持ち悪くて否定した愛を、そのぬくもりを、雪はずっと求めていたのだ。


「昂大君……」


 名前を呼ばれた昂大は、前川の前に躍り出る。前川が持っていた果物ナイフを奪うと、前川の首元に突きつける。

 既に理性の吹き飛んだ前川は何もせず、ぶつぶつと譫言を吐き、雪だけを見ていた。


 昂大が持つナイフが、ガタガタと震えている。

 これは、万屋の指示ではない。昂大は初めて、人を殺すことに強い恐怖を抱いていた。


 やりたくない。嫌だ。やってはならないことだ。怖い。怖い――――――。


 ――――――雪の言った通り、自分は人を殺した十字架を背負いたくないだけのクズだ。

 人を殺すのは、生きている価値のないクズだけでいい。クズな自分が、悲しむ雪の代わりになれるのならば。


「どうして……来てくれたの」

「……君が、人を殺したくないって言ったから」

「それは君も一緒でしょ! これは万屋さんの指示じゃない!」

「うん。わかってる。これはおれの意思(・・)なんだ」


 昂大は果物ナイフを振りかぶる。

 恐怖と不快感でどうにかなってしまいそうになるのを押さえながら叫ぶ。


「うあああああああっ!!!」


 心臓を一刺し――――――。

 吐血し、力なく崩れる前川を見た昂大は、茫然としたままナイフを床に落とす。

じわじわと滲む額の汗を拭うと、その場で蹲る。

 自らの意思で、人を殺した(・・・)。もう誰のせいにもできない。

 不意に、以前殺してしまった二人の子どもを思い出し、強い吐き気が込み上げてくる。


「うっ……うぁ……」


 雪は、口元を押さえて蹲る昂大の背中を抱きしめた。

 雪の涙が背中を伝う感覚が、昂大に現実を実感させた。

 恐ろしいまでの自己否定が、昂大を襲う。ガタガタと体が震え、消滅願望が膨らんでいく。


 ああ、そうだ。昔誰かに言われたっけ―――――おれは、生きてちゃだめな子(・・・・・・・・・)だって。


「ごめん、なさい……ごめんなさい……おれ、おれ……」


 昂大は床に広がっていく血だまりを、ただじっと見つめ続けていた。




 第3章、終了です!! ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!!

 3章は、ヒロインの雪ちゃんがメインのお話でした。雪ちゃんはリメイク前である十年前の作品にもちょろっと出ていたのですが、全然活躍もなく、一瞬で出番が終わるという不遇ヒロインでした(そもそもヒロインと言えるのか?笑)

 ですので、この度はきちんとキャラ立てをした上で、ストーリーにも絡ませたい思いが強かったです。これまで書いたことのない、病みヒロイン(?)をテーマに、キャラづくりを行いました。ここらへんのこだわりとか裏話は尽きないので、いつかお話できる機会があればいいなぁと思っております。

 さて、今回のお話、いかがでしたでしょうか!? というのも、私が過去に類を見ないほど、気に入っておりまして……特に最後のオチとかは! あまり面白くなかったのならば、私の感覚がおかしいのかもしれませんね。そもそもキャラを虐めすぎるところがありますし(笑) とにかく、主人公とヒロインのキャラ像を存分に出力できたかなと思っております。互いに不器用で、心が弱いが故に、こうなってしまうんだという説得力は、自分の中でかなり強く持っておりまして、それがキャラクターのアイデンティティを引き立てているのではないかと思います。私は普段、結構な割合でキャラが勝手に動いて話をひっちゃかめっちゃかにするのですが、今回はそれの究極系だったと振り返って感じます。

 色々書きましたが、自画自賛の痛い奴だと思ってください(笑)。これから二人の関係性はどうなっていくのか、温かく見守っていただけますと幸いです。

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