10 悲愴 その①
――――――ピアノの音色が聞こえる。
穏やかな、川の流れのような調べだった。
どこか遠く、遠くへ流れていくような、悲し気な音色。
すると曲が、軽快に激しく動き始める。
指が流麗な動きで鍵盤に叩き込まれていき、聞く者を激流へ誘った。
意識が戻った昂大は、痛む頭のことを忘れ、ピアノの音色に耳を傾けていた。
聞いたことのないピアノの曲だった。音楽に一切造詣が無い昂大でも、ピアノを弾いている者が非常に高度な能力を有していることがわかる。
小さく、そして激しく。ゆったりと、大きく――――――ピアノがこんなにも繊細に音の大小を表現できるとは思ってもいなかった。
激しいパートが終わり、穏やかな調べに戻る。
先ほどとは変わって、悲しさの中に光があるような美しさを感じた。
昂大はふと我に返り、自らの状況を認識する。
両足は縄で縛られ、両手は後ろ手に縛られていて動かすことができない。
その上、なぜか上半身裸で、体操服のハーフパンツを履いていた。
ジャン――――――。
音が途絶え、パートが小さく終結する。
「……第三楽章はもういっか」
ピアノを演奏していた雪は、そう小さく零すと、鍵盤を乱雑に叩いて立ち上がる。
楽譜をそっと棚に戻し、昂大の元へ近づいていく。楽譜には『ピアノソナタ第八番』と書かれていた。
雪は動けない昂大を起こし、音楽室の椅子に座らせる。その時抵抗できたはずなのに、なぜか抵抗する気が起こらなかった。
「……何なんだよこれ。さっきのみんなの様子は」
「さあ知らない。見ての通りなんじゃない」
「何が見ての通りだよ」
昂大は雪を睨みつける。
「臨起って何なんだよ。何が起こってんのか、ちゃんと説明しろよ」
「……ふ。面白いね昂大君。真っ先に説明を求めるところそこ? 裸で拘束されてることじゃなくて、おかしくなっちゃったみんなと臨起のことなんだ」
雪は昂大の正面に椅子を持ってきて座り、挑発的な笑みを浮かべた。
「じゃあそれも。わからねえこと全部」
「わからなくてもいいよ。説明する気ないし」
「お前、いい加減に……!」
雪は酷く虚ろな目で昂大を睨み返す。
「ねえ。どうして君の臨起は目覚めてもいないんだろうね」
「だから、臨起って……」
「どうして目覚めてもいない君が選ばれて、私は選ばれなかったのかな」
「おい! 話聞けって言って……」
雪は昂大の声を遮るように、足で床を蹴った。
「……私には、人を殺して生きていくことしか存在価値がないの。だからこそ、選ばれなければいけなかった。選ばれなきゃ、私が生きている意味なんてない。なのに……なのに」
雪は昂大を恨めしそうに睨みつける。昂大は何も言えずに押し黙ることしかできなかった。
「教えちゃいけないって言われてるんだ。万屋さんに」
「は?」
「臨起のことも、今回の仕事のことも、まだ何も教えるなって」
「なんでだよ」
「知らないよ。私が聞きたい」
雪は人差し指で目元を拭うと、ぼんやりと天井を見上げる。
「じゃあいいよ。臨起のことはいい。君のことを教えてくれ」
「……なんで私のこと知りたいの?」
「当たり前だろ。こんなことしといて……」
「へえ。昨日私のこと、拒絶したくせに」
「……拒絶? 何のことだよ」
「私の代わりに、人を殺してくれるって話、受けてくれなかったよね」
「それは万屋さんに聞かなきゃだめだから」
「なんでだめなの?」
「だって……人を殺すのは、仕事だけじゃなきゃだめなんだ。だから許可が、ないと」
雪は前のめりになって昂大に迫り、勢いよく頬をぶった。
「ふざけないでよ!! 君は人を殺すことに、責任を持たないつもり!?」
「……え」
昂大は僅かに目を泳がせた。責任という言葉に、強い違和感を覚える。
「私はいつだって、自分の責任で人を殺してきたよ。人を殺すたびに重圧でおかしくなりそうになってる。殺した人の数だけ、私は普通じゃなくなっていく。深くて暗い沼の底へ堕ちていくんだよ。誰にも止められないし、誰も私を助けられない。なのに君は、人を殺すことを万屋さんのせいにするの? 自分の意思じゃないですって、全部万屋さんに言われたからやったって、そう言うの?」
「……違う。そんなつもりじゃ」
「何も違わないよ。理解できない。意味がわからない。本当に、最低……」
雪はぐしゃっと頭を掻く。そして、昂大の上半身を見下すように見つめ、鼻で嗤った。
「それで何? そんなに傷だらけになったのも、万屋さんのせいってこと?」
「……」
昂大の体はどこからどう見ても傷だらけだった。
多数の切り傷、肉が抉られたような跡、火傷の跡もある。仕事で負傷した怪我だけではない。雪はこの傷の多くが、拷問によるものであると見抜いていた。
「逃げてるんだよ。君は思考と責任を放棄することで、人殺しの重圧から逃れたいだけ」
「……違う」
「万屋さんを盾にして、自分の心を守ろうとしている卑怯者なんだよ」
「違う!」
昂大が叫ぶと、雪は視線を落とした。
「……昨日私が言ったことは本当だよ。私は人を殺すことが本っ当に嫌い。でもずっと耐えてきた。生きていくために」
雪は昂大の前で、親指を自分の心臓に強く突き刺した。
「な……」
「臨起のこと、知りたいって言ってたよね。じゃあ教えてあげるよ」
雪の心臓から、青黒い液体が噴出する。
その液体は空中でうねり、流れるように雪を包み込むと、蒼い光を放つ。そして、背中に目玉のついた不気味な翼を形成した。
「この気持ち悪くて気持ち悪くてたまらない力を見せてあげる」




