19 アンズの小鉢料理帖
翌日の休み明けの定食屋にコウは平然とした様子でいつもの恰好で現れた。
「いらっしゃい…コウさん…」
「こんにちは、アンズさん。今日の小鉢はなんですか?」
昨日お見合いしたこともなかったような様子にアンズは不意を突かれた。
意識のしすぎだ。
そう思って、小鉢の内容を思い出す。
「今日は、フキノトウ味噌、豆腐のあんかけ、大根の酢漬けです。主菜が豚肉と里芋の炒め物か鶏の唐揚げです」
「ああ、どれもおいしそうだ…鶏のから揚げと小鉢3種、ご飯は普通盛の気持ち大目で」
「はい、少々お待ちください」
そう言ってアンズは厨房に戻っていった。
コウはいつも通りだ。
静かに食事をし、常連たちと言葉を交わし、アンズとも何気なく料理の話をする。
そして、必ず「美味しい」と言う。
会計のとき、コウは必ず銀貨を先払いと渡す。
受け取るときに、手と指先が触れ合って、その瞬間二人の時が止まった。
ほんの一瞬のできごとに、アンズもコウも息がつまってしまった。
「おーい、アンズちゃん。お茶のお替りくれる?」
常連の声にハッと二人は同時に意識を取り戻した。
「は…はーい!少々お待ちください。コウさん、先払いお預かりしますね」
「はい、また来ます」
「お待ちしてます」
コウを見送って、アンズはお茶を取りに行く。
いつも通り、そのいつもどおりが難しい。
仲人がやってきたのは見合いから7日を過ぎた日のことだった。
昼と夜の仕込みの時間に現れた仲人の言葉はアンズとシイカの予想を反することなく、「相手方はこのお話を先に進めたいと考えている」と言うことだった。
シイカが気遣ってアンズをみれば、その表情は嬉しいとも悲しいとも辛いとも言い難く、仲人も困ったように指で頬を軽く掻いた。
「あの…もう少しだけ考えてもいいですか?」
7日も考える時間があったのだが、と言うのが正直なところだが、そこは仲人も静かにうなずいた。
「相手からも返事を催促しないようにといわれているから」
「ありがとうございます」
「ただ、待たせすぎは良くないよ」
「はい…」
仲人の言葉にアンズは短く答えた。
仲人が帰った後もアンズはグルグルと考えすぎてしまい、料理の手際がとにかく悪い。
手際が悪いせいで、いつも通り作っていても味が決まらない。
そんな様子を微笑ましくシイカも通いの板前も眺めたのであった。
そう言う日もコウは普段と変わらずにやってくる。
変わらな過ぎて、アンズがヤキモキするほどだ。
そうは言っても、少し落ち着いたとはいえ、忙しい夜営業の間に2人で話をするような時間はないし、そもそも何を話したらいいかわからない。
コウはコウで、仲人から縁談の意志を伝えたと聞かされて動悸がとにかく激しい。
定食屋にたどり着くまでに何度立ち止まり、深呼吸をしてきたことか。
いつもと同じように定食屋でご飯を食べる、コウにはそれ以外にできることが思いつかなかった。
明らかにアンズが動揺しているのが見えて、動揺させたのが申し訳ない一方で真剣に考えてくれていることに嬉しくなる。
百戦錬磨の色男ならば、アンズの手を優しく握り目を見つめ「心から愛している」と心にもないことを平然と言えるだろうが、そんなことができるような甲斐性はコウにはない。
コウにアンズに伝えられるのはいつも一つだけだ。
「今日もおいしかったです。また来ます」
「はい…お待ちしてます」
アンズの返事がただただ嬉しい。
その日、閉店後の片づけをしながら、アンズは母シイカに言った。
「母ちゃん、私がお嫁に行ったら寂しい?」
「少しだけね」
「お店、私いないと回らないよね?」
「近所の人たちが手伝いに来てくれるわよ、きっと…」
2人は互いを見ないで、視線は手元の作業だけに集中している。
「でも、小鉢とか…」
「アンズの小鉢料理帖、写させてもらおうかしら?」
「私、この定食屋の看板娘だよ…」
アンズの気持ちはシイカはもう十分わかっている。
定食屋の看板娘がその役割を終えることが近くて、寂しがっているだけだ。
「誰かが引き継いでくれるわよ」
「そうかな…?」
「そうよ…」
定食屋を片付ける音だけが静かに響いた。
「私に紙問屋の若女将できると思う?」
「もちろん、自慢の娘だもの…明日の朝、仲人さんに連絡するわね」
「うん…」




