俺、ポニーテールになります。
千春 ♂
和美 ♂
翌日も、暑かった。
昼時ということもあって、駅前のマクドナルドはそれなりの混雑ぶり。時計を見ると午後一時十分。遅刻だ。だが、遅刻したのには理由がある。和美の話を聞く前に、どうしてもはっきりさせておきたいことがあるのだ。
外から見る限り、一階に奴の姿は見えなかった。二階席なら好都合だ。カウンターで飲み物だけを頼み、階段を上がる。フロアの隅から窺うと、奴の特徴的な後ろ姿はすぐに見つかった。文庫本を開きながらダブルバーガーにかぶりついている。
和美だ。
人目がないのを確認してスマホを取り出し、素早く例のアプリを起動する。画角内に和美を収め――シャッターボタンを、押す。
結果はエラー。
『名前の認識ができませんでした』
内心、軽く舌打ちする。生意気に音声認識機能まで搭載しているらしい。そう言えば真の時も、取る直前にアイツの名前を呼んだ気がする。
名前が、必要なのだ。
仕方がないので、俺は小声で「和美」と呟き、再度シャッターを切る。幸い、向こうはこちらに気が付いていない。あの時と同じ様に、視界が歪み、明滅する。
『 和美 を認識しました』
☆
「待ったか?」
何事もない風を装い、和美の前に立つ。
何事もない風に装うのは、無理だった。
「十二分の遅刻。まあ許容範囲内だけどねえ」パーマの間から覗く双眸が、悪戯っぽく微笑む。「……座ったら?」
棒立ちになっていたらしい。「あ、ああ……」と意味のない言葉を漏らし、席に着く。
「何よ、千春は飲み物だけなの?」
「昼飯は家で済ませてきた」
「一時からマックって決まってたんだから、少しくらい我慢すればいいのに」
「そうはいかない事情があるんだよ。昨日、いきなり大きな猫が転がり込んできて――そいつに飯食わせないといけないからさ」
「あ、千尋さんでしょお? 真に聞いた。遊びに来たんだってね。また一緒にゲームやりたいなあ。あの人、強いし」
残ったダブルバーガーを二口で食べ、手についたソースをねぶる。
「考えておく」
「と言うか、千春って家事完璧だよねえ。男のくせに。羨ましい。あたしも頑張って女子力とやらを上げなきゃなあ」
「思ってないことを言うな」
「まあね」
言いながら、一人で笑っている。一方の俺は、ほとんど会話が頭に入っていなかった。
勝浦和美は、完全に女になっていた。
ねちっこい喋り方は相変わらず。特徴的な天然パーマや垢抜けない服装も相変わらず。そういう意味では、髪型や服装で性別の違いを気付かせた真とは大違い。
「……どうしたのお?」女性の和美が、薄く笑う。「人の胸ばっかり、ジロジロ見て」
そう。コイツの場合、体の一部がやたらと自己主張していて――その点でも、幼児体型の真とは大違い。正直、目のやり場に困る。
でも、これではっきりした。
あれは、やはり対象者の性別を反転させるアプリだったのだ。
そんなこと有り得ないと自分でも思うが、現実にそうなっているのだから仕方がない。ここまでは男から女への変化しか確認していないが、女性を撮ったら男性に変わるんだろうか。帰ったら、ヒロ姉あたりで試してみるか。
「まあいいわあ。あまり時間もないことだし、ちゃっちゃと本題に入っちゃいましょ」
「本題って――アプリのことか? 何が分かったんだ?」
「TSの、意味」
口角を上げる。その笑みが妖艶に見えるは、恐らくその身体的特徴のせいだろう。
「教えてくれ」
「結論から言うと――トランス・セクシャルの略だと思う」
「……何だって?」
いきなり聞いたこともない横文字を言われて、面食らう。
「トランス・セクシャル。和訳すると、性転換」
グッと体が硬直する。
それでは――まんまではないか。
「TとSの組み合わせなんてよくあるんだけど、あのマークを見る限り、トランス・セクシャルで間違いないと思う」
あのマーク――♂と♀のことか。それは俺も思った。
だけど。
「性転換って、あれだろ? 女の気持ちを持った男が、外科手術とかホルモン注射とかで、女になるっていう――性同一障害って言うんだっけか?」
「そうね。大昔はオカマ、一昔前はニューハーフ、今はオネェって呼ばれてる人たち。それぞれのニュアンスは少しずつ違うんだけどね。割とその辺、世間のイメージはごっちゃになってるんだよねえ。本当の意味で女の気持ちを持った人もいれば、同性しか愛せないだけの人もいる。女装が好きな人もいる。今持て囃されている『オネエ』なんて言葉は本当に便利で、今言ったような人たちよりもずっとソフトな、単に物腰が柔らかくて女言葉で話す人まで、一緒くたにカテゴライズされちゃってるんだもん。ビジネスオカマ、ビジネスオネエなんて言葉もあるくらい。マスコミ向けの安易なキャラ立てよねえ。あたし、そういうの大ッ嫌い。まあ、ショービジネスにおける、本物のビジネスオカマもいるにはいるんだけどねえ」
始まった。スイッチが入ったらしい。こうなると、和美の話は少し長い。
「そもそも、性転換ってのは人間様の専売特許って訳じゃないのよ。動植物でも性転換する種ってのはたくさんある。いわゆる雌雄同体の一種ね。これは主に、効率的に繁殖活動を行うためだと考えられている訳。一定の年齢になると雄が雌に、雌が雄になる――哺乳類にはほとんどいなくて、魚類に多いかな。ベラやブダイ、クマノミなんかが有名。植物でも、サトイモ科のテンナンショウなんかは性転換する植物として知られていて――」
「和美」
ここまで黙って聞いていたが、もういいだろう。和美の長口上にストップをかけるのはいつもなら真の仕事だが、今は俺しかいない。
「そろそろ、人間の話に戻ってくれ」
「分かってるわよお。今から人間の話をするとこだったんじゃない。さっき哺乳類にはほとんどいないって言ったけど、人間にもいるのよね。……って言うと怒られちゃうか。要するに、男でも女でもない性ってのは、確実に存在する訳」
「だからそれは、オカマだかニューハーフだかって話だろ」
「性同一障害とはまた違う話よお。要するに、両性具有の存在ね。古くは半陰陽、最近ではIS――インターセクシャルとも言われている。ふたなり、アンドロジニー、ヘルマプロディトスなんて言ったりもするね。医学的には性分化疾患ってことになるみたい。男でも女でもあると言うか、男でも女でもないと言うか。この辺りは割とデリケートで、症状はケースバイケースとしか言いようがないかなあ。普通に男として、女として一生を終える人もいれば、思春期を迎えたあたりで逆の性の兆候が出てきて悩む人もいる。出生時にISだと判明してどちらかの性に決めるケースも多いみたいだし。もっとも、フィクション作品だと扱いは全く別なんだけどね。だいたいは神秘的な雰囲気をまとった絶世の美形として扱われることが多い。有名所だと、セーラームーンのウラヌスとかね。意外と知られてないけど、リングシリーズで有名な山村貞子も半陰陽者なんだよねえ」
「へえ……」
思わず、聞き入ってしまう自分がいる。
「さて、フィクション作品に話が及んだところで、話を大胆に戻すわよお。TSは確かに性転換って意味だけど、それを扱ったフィクション作品ってのは一定数の需要があって、実際にたっくさんの漫画、小説、映像作品が作られている訳。そういうのを一括りにしてTSF――トランスセクシャルフィクションって呼んだりするの。ジャンルは細分化されてんだけど、大筋はほとんど同じ。ある日突然、男が女になる、あるいは女が男になる。それによって主人公とそれを取り巻く環境がどう変化するかに主眼が置かれている訳。今まで普通に男子高校生として過ごしていたのに、何らかの要因で急に女になってしまう。困惑するし、混乱するよねえ。今まで普通に接していた親友が自分に恋したり、男と女の社会的位置づけの違いで騒動が起きたり、男と女の体の違いで色々起きたりもする訳。当然、エロいことも考える訳よ」
今まさに、俺の目の前で似たようなことが起きている訳だが。体を揺らし、大きく張り出した体の一部を揺らし、和美は尚も続ける。
「では、何故そんな非現実的なことが起きるのか。あたしはここに注目したい訳。TSFにおいては、その要因は本当に様々なのね。魔法だったり科学だったり、家系だったり人格入れ替わりだったり――まあ、それだけTSFの間口は広いって話なんだけどねえ」
聞き入っていた。だから、油断していた。
「それでさ、千春」
怒涛の勢いで話し続けていた和美が、不意に改まって、俺を真正面から睨めつける。
「そのアプリは、どうなの?」
思考が、フリーズした。
「どうって……」
「ちょっと、本題を忘れた訳じゃないでしょうねえ? あたしたち、何のためにここに集まったのよ。自殺の理由を知りたいんでしょ? そのために、あの子が遺したTSアプリの謎を解くんでしょう?」
和美の濃い二重が、俺をじぃっと見つめている。恐ろしいのに、目が離せない。
「あたしは、自分の知っている知識を、知っている限り晒したわよ? 次は千春の番なんじゃないの?」
「俺の番って……俺が、何を……」
喉が乾いている。慌てて飲み物に手を伸ばすが、すんでのところで和美に取り上げられてしまう。
「おい、それ俺の――」
「答えるのが先。先に教えて。千春、そのアプリがどういうものなのか、本当はもう知ってるんじゃないの?」
目をそらし、和美の手から無理やり飲み物を奪い取り、口内を湿らせる。Mサイズの烏龍茶は、やはり何の味もしなかった。
「その上で『TS』が何を意味するか、あたしの話を聞きたかった。それで今日ここに来た。違う?」
店内の冷房は強すぎる程だったのに、何故か汗が止まらない。一筋、顎へと垂れていく。
「俺はただ、単純に『TS』が何なんのかを知りたいだけで――」
瞬間、和美の目付きが眇められていく。
「嘘だ。……どうして隠しごとするかなあ。千春ってそういうとこある。今は情報を共有するべきでしょうが」
呆れ、溜息をつきながら、そのボリューミーな頭をかきむしる。常に物事を斜めに見るコイツが、珍しく感情を露わにしている。女性化したことで幾分ヒステリックになっているんだろうか。
「何であたしがそう思うか、教えましょうか? 簡単なことよお。アンタ、昨日そのアプリで真のこと撮ったじゃない。あたしや真、マスターや静香さんは何事もなくスルーしてたけど――アンタはそうじゃなかった。何だか知らないけど、随分と動揺してた。真の体をジロジロ見て、『女だったっけ?』なんて聞いたりしてたわよねえ? 当の真は単にひかるの死で情緒不安定になってるだけ、みたいに都合よく解釈してくれたみたいだけど、あたしは違う。あの謎アプリが、何らかの力を発動したのだと考えた訳よ。『TS』って言葉と、あのマーク――性別転換――それと千春の発言を結びつければ、自ずと答えは出てくるわよねえ?」
――そのアプリは、撮影した人間の性別を反転させるんでしょう?
口元はニヤついているが、目は笑っていない。
「ここで引っ掛かることが一つ。あたしは今まで、真はずっと女性だったと認識してるの。真自身もそうだし、桐壺のマスターも、静香さんも多分そう。ただ、アプリを使用した――撮影者である千春だけが違う。だからあの時、千春だけが動揺していた。それで今に至る。アンタはあたしに『TS』の意味を教わって、アプリの意味を理解しようとしている。違う? もし違うのなら、是非とも反論を聞きたいんだけどなあ」
そしてついに、俺は瓦解する。
和美のマシンガントークに、視線に負けて――全てを、吐露する。
ほとんど和美の想像通りだった筈だが、それでもコイツは黙って聞いてくれた。『TSアプリ』で撮影した途端、真が男から女に変化したこと、周りの誰もそれを認識していないこと、その場にいなかったヒロ姉までもが真を女として認識していること――。
ただ――さっき和美を性転換させたことは黙っていた。
言ったところで誰も得はしないし、この世界は勝浦和美が女性なのだとして回り続けている筈だ。今ここで話をややこしくする必要はないだろう。
「……なるほどねえ……」
ひかるのスマホを弄りながら、和美は嘆息を吐く。
「名前が必要な訳だあ……。冗談で言ってたけど、いよいよデスノめいてきたねえ……」
顔が分かっている相手の本名を書くことで死に至らせる――かつて週間ジャンプで連載されていたヒット作を引用に出し、和美は薄く笑う。
「ずっと迷ってたんだ。本当に相手の性別が変わってしまったのか、それとも俺が狂ってしまったのかって」
「そういうとこ、いかにも千春らしいよねえ。でも、ここは安心していいトコだと思うよ? このアプリはこういうものだって、受け入れるしかないんだって。科学的にどうとか、メカニズムがどうとか、そういうのはナンセンスなんだろうね」
淡々と涼しく語る和美を見てると、何だか馬鹿らしくなってくる。これは、こういうものだと受け入れればよかったのか。
「それより、あたしはこれの詳しい仕様が気になるかな」
そう言って、軽やかに立ち上がり、スマホを持って手洗い場へと向かい始める和美。
「何をする気だ」
「新しいモノを見ると、仕様の穴を見つけようとするのがあたしの悪い癖、ってね」
答えになってない。スタスタと歩く和美についていくと、彼女はトイレの出口部分にある男女共有の手洗いスペースで足を止める。目の前には大きな鏡。目付き悪い短髪の男子高校生と、パーマで巨乳の女子高生が並んで立っている。つまり、俺たちだ。
「おい――」
「勝浦和美」
何の躊躇もなく、和美はスマホを鏡に向け、自分の名を呟く。
「何やってんだお前……っ!」
腕を掴み、少し強い声を出す。しかし和美は意に介さない。俺に腕を掴まれたまま、画面を覗き込みながら首を傾げている。
「あれえ? エラー。『撮影者と同じ人物を対象とすることはできません』、だってえ。自撮り不可かあ……」
「お前さ、そういうことは先に断ってくれよ」
「何で千春の断りが必要な訳? これはアンタのものじゃなくて、ひかるのものでしょう? だいたい、聞いたってどうせダメだって言うに決まってるし」
「あのなあ……」
少し後ろで女子校生たちがクスクス笑っている。男女の高校生がトイレ前で言い争いをしているのが可笑しいのだろう。軽く視線を送ると、店内はなかなかに混み合っている。チョイスする場所を間違えたのかもしれない。
「千春」
☆
刹那、僅かに床が揺れた気がした。一歩、大きく足を踏み出す。眩暈、だったようだ。
振り向くと、スマホをこちらに向けた和美が、目を見開いて少し驚いた顔をしている。
「何?」
「……驚いた」
「だから、何がよ」
鏡を見る。そこには、ポニーテールで吊り目の女子校生と、パーマで巨乳の女子高生が二人並んで立っているだけ。
何も変わってない。
「ふうん……面白いわねえ、これ」
スマホを見つめながら、再び薄ら笑いを浮かべている。よく分からないが、嫌な感じだ。
「アンタ、今何かした? 何もないよね?」
「千春がそう思うのなら、それが正解なんじゃない? 少なくとも、千春の中ではね」
「それって、どういう――」
「いけない。もうこんな時間だ」
和美は私の腕を取り、引っ張る。
「二時に桐壺だったよね? 完全に遅刻だよ、これ」
スマホの時刻表示を見ながら、和美が焦った声を出す。
「急ごう。真がうるさい」
私たちは席の鞄を引っ掴んで階段を下りていく。
――これで、お互い様ってことで。
背後で和美が何か呟いたようだったが、急ぐ私は深く考えることをしなかった。