アイツと彼女の☆☆★★
今年の夏は、異様に暑かった。
高知だか岐阜だか埼玉だかでは連日のように最高気温を叩き出し、確か去年もそうだった気がするから、きっと地球もそう長くはないのだろう。
扇町の駅舎から出たところで、とめどない熱射線に身を焦がし、とめどなく溢れる汗に閉口する。女子大生や買い物帰りらしき主婦が、汗を拭いながら通り過ぎていく。
そして、涼しい顔で氷菓を頬張る従姉妹に冷たい視線を戻す。
「いつの間に買ったの」
「そこの売店。こう暑くちゃ、アイスでも食べなきゃやってられないわよ」
完璧に依存症だな、この人。
「別に、見送りしてくれなくてもよかったのに」
「暇だからね」
「私がいないと淋しくなる?」
「電車で三駅のところに住んでる人間に対して、淋しいも何もないわよ。暇だからついて来ただけだっての」
両親が海外旅行に行ったという理由でヒロ姉がウチに転がり込んで、一週間。伯父さんたちはようやく帰国したらしく、私もこの手のかかる従姉妹から解放される。成績は学年トップらしいが、もう少し生活能力を高めるべきだと思う。
「そう? ま、何かあったら、このお姉さんに相談して頂戴。千春の頼みなら、大概は聞いてあげるから」
「丁重にお断りします」
確かにヒロ姉の助言は役には立ったが、それはそれだ。あまり借りは作りたくない。
また、一筋の汗が額を流れる。夏の外気は密度が高く、その場にいるだけで消耗する。
「なーんか、疲れちゃったね――残り短い夏休み、せいぜい満喫しなきゃ」
「何がどう疲れたってのよ……ヒロ姉、寝てるかアイス食べてるかだったじゃない」
「――そうだったわね……。とにかく、この一週間ありがとね。感謝してる」
あげる。
突然、食べかけの氷菓を口に入れられる。口に広がる甘さと、歯に沁みる冷たさ。
「い、いきなり何を……っ!」
「今までのお礼。じゃあね」
こちらが何か言うより早く手を振ってさっさと行ってしまう。勝手な人だ。
でも、まあ――こちらも何かと世話をしたが、逆に世話にもなった。どこかのアホが巻き起こした騒動がとりあえず収束したのは、あの人のアドバイスがあったからだ。こちらこそ、少しは感謝すべきなのかもしれない。
残り半分となった氷菓をシャクシャク囓りながら踵を返すと、正面から五人の派手な女子高生集団が道いっぱいに広がって歩いてくるのが見える。ああいう連中は苦手だ。扇町だから恐らくは心峰なのだろうけど、あまり進学校の生徒には見えない。ギャハハ、と下品な笑い声を上げるグループに道を譲る形で、私は脇に逸れる。集団の中心にいる少女のソバカス顔がやけに印象的だ。
だけど、急に横移動したのがよくなかったのかもしれない。
「あっ!」
腰に強い衝撃。振り向くと、麦わら帽子をかぶった幼稚園くらいの女の子が俯いて立っている。手にはアイスのコーン。本来その上に乗ってなければならないアイスクリームは、アスファルトに転がって、すでにほとんど溶けてしまっている。どうやら、ぶつかった拍子に落としてしまったらしい。
「すみませーん」
離れた場所から母親らしき女性がパタパタと走ってくる。随分と若い。まだ二十代ではないだろうか。日傘を手に駆けるその姿はどこかお嬢様然としていて、あまり悩みなどないのだろうな、なんていう失礼な感想を抱かせる。
「あの、大丈夫でしたか!?」
「えっと、私は平気なんですけど、その、アイスが……」
「あら」落ちたアイスに気が付き、目を丸くしている。仕草まで若い。
「だって、はやくパパにあいたかったんだもん……」
今にも泣きそうな顔で、女の子は落ち込んでいる。このまま立ち去る訳にはいかない。どうしようか、と視線を下げ――視界に入ったあるモノに、私はニヤリと口元を綻ばせる。
こんなことって、あるんだ。
考えるまでもなかった。女の子の前にしゃがみ込んで視線を合わせ、持っていたモノを彼女に手渡す。
「これ、あげる」
「……ごみ、いらない……」
食べ終えたアイスの棒を見て、ゴミだと判断したらしい。
「よく見て。ここ、『あたり』って書いてあるでしょ? あそこの売店で渡せば、これと同じアイスもらえるから!」
私の話を理解した途端、目がキラキラと輝き出す。分かりやすい子だ。
「いいんですか? こんなの頂いて……」
「いいですいいです。二本もいらないし、これから電車で帰らなきゃいけないんで」
「ありがとうございます――ほら、真央もお礼言って」
「ありがとうございます」
親子揃って頭を下げている。聞けば、今日は旦那さんの帰りが早いらしく、三人揃って外食をする約束なのだそうだ。
絵に描いたような幸せ家族に手を降り、私は背を向ける。
それにしても、あの人――ウチで何十本と食べても全部ハズレだったのに、よりによってここでアタリを引くなんて。時々こういうミラクルを運んでくるから、侮れない。
駅舎に向かう前、喉の渇きを覚えてコンビニに立ち寄る。氷菓半分では、やはり足りなかったみたいだ。いつも飲んでる烏龍茶のペットボトルを掴んでレジに向かうと、そこには先客の姿。
何だか、妙な少女だった。
中学生くらいだろうか。背は低く顔も小さく、サイズの合ってない黒縁眼鏡をかけ、更にカチューシャで前髪を上げている。そしてカウンターには、大量のペットボトル。緑茶に炭酸飲料、オレンジジュースにミネラルウォーター。種類もバラバラだ。一人で全部飲むつもりか。呆気にとられて見ている俺の前、少女は会計をすませながらスマホを耳に押し当てる。着信があったらしい。
「はい――今ッスか。駅前のコンビニッスよ。パシったのはそっちじゃないッスか。え? もう行きますってば。どんだけ待てないんスか、もう」
早口でまくし立てている。どうやら先輩の命令で買い出しに来ていたらしい。部活か何かだろうか。少なくとも運動部ではないようだが。
「こっちは昨日、北海道旅行から帰ってきたばっかなんスよ? ……ええ、お土産は持参してありますって! もう、下っ端だからって、人使い荒いんスから……」
何だか大変そうだ。
会計を済ませ、先輩たちの飲み物を袋に提げて店を出て行く少女を、私はやはり少し不思議な気分で見送っていた。
会計を済ませ(接客をした中年店員のネームプレートには『渡辺』と書かれていた)、コンビニを出た所で、買ったばかりの烏龍茶を口に含む。今日も暑い。水分補給は必須事項だ。コンビニを囲むブロック塀にはいつ貼られたか分からない選挙ポスター。
城ヶ崎薫。
県会議員だ。
この人物、昨日自身のブログで突然同性愛者であることをカミングアウトして、一部で話題になっている。何でも、長年のパートナーである男性とはすでに入籍済みなのだとか。もちろん、日本の法律で同性結婚は認められていないが、養子縁組でその代替を果たすことは可能らしい。今後は性的マイノリティを支援する活動を表明しているが、どうして今になって突然カミングアウトを行ったのかは不明。この話題を教えてくれた和美も、首を捻っていた。
まあ、私には関係のない話だけれども。
飲みかけの烏龍茶を鞄にしまい、私はようやく電車に乗り込む。望月町へ向かう電車は混雑していたが、三駅などあっと言う間だ。車内では何もない。強いて言えば、若い気の強そうな女性に足を踏まれたくらいだ。ホームタウンに戻ってきた私は駐輪場の愛車にまたがり、目的の場へと走り始める。
途中、町の中心を流れる新川の河川敷で、草野球の試合が行われているのが目に入る。もしかしてと思い、路肩に自転車を駐め土手を降りると、案の定だった。
マウンドには、長身の少女が立っていた。
投球フォームから、全身のバネを使って渾身の一球。ズバン、と心地よい音と共に内角高めに収まる。キャップの下から覗く三白眼からは、並々ならぬ闘志と集中力が窺える。
「あれ、千春も来たんだ」
振り返ると、ギャラリー席で手を降る少女が目に入る。ホットパンツにツインテールの小柄な少女。真だ。
「いや、たまたま通りかかっただけ。そっちは、鳴川さんの応援?」
「うん。よく考えてみたら、わたし鳴川さんが実際にプレイしてるとこ、見たことないって気が付いてさ。男に混じって野球してるなんて面白そうだし、一度ちゃんと見ておこうと思って」
鳴川翼とは少し前の騒動で親しくなった。学年は上だし、三白眼と厳しい言動で取っ付きづらいが、仲良くなってみると案外付き合いやすい人間だと分かり、今でも時々交流している。
「と言うか、真だけなんだね……」
「和美は演劇部に顔出してる。文化祭でやる劇の練習だって」
演劇部の連中と親しくなったのも、鳴川と同じ経緯だ。騒動を巻き起こしたのは別のアホだが、どういう訳か和美がそこの変人部長に気に入られてしまい、なし崩し的に入部させられてしまったのだ。
「でも、経験ゼロで入部して、速攻で劇に出演って、どうなのよ」
「それだけ人手が足りないってことでしょ」
身も蓋もないことを言われてしまう。
「それより、これ見て」
和美から送られてきたのだという画像を私に見せる。練習の合間に撮ったオフショットだろうか。中央で真澄がモデルばりのポージングを決め、その右側に和美、大谷、堂島、左側に新井、立花が並んでいる。女装男子三人と、外ハネ少女とマッチョマン、そこに巨乳パーマが加入した形だが、意外と違和感がない。むしろ馴染んでいる。
「和美、あれだけ渋ってた割に、満更でもないみたい」
「案外こういうのが性に合ってるのかもしれないね」
大谷や堂島と肩を並べて笑う和美の姿。それはいいのだけれど。
「……真澄に関しては、スルー?」
「わたし、あの人苦手」
「知ってる。でも――キレイだよ?」
舞台衣装なのか、真澄は黒のラインが入った黄色いライダージャケットを身につけている。片目には眼帯。おまけに、先端に鉄球のついた鎖を手にしている。
「……今更、『キル・ビル』?」
その時だった。
「ヤッチマイナァ!」
この場に似つかわしくない馬鹿声。
振り向くと、大きなサングラスをかけたワンピースの人物がこちらに向かって歩いてくるところだった。大きなつばの帽子をかぶり、手には日傘。今まさにスマホで見ていた人物だ。どこの大物女優だ。
「よく撮れているだろう。本物のユマ・サーマンだと思ったか?」
「や、ルーシー・リューとダリル・ハンナと栗山千明がごっちゃになってますから」
確かにちょっと似てますけどね。
薄ら笑いを浮かべながら、その背後から和美が顔を出す。こちらは飾り気のないTシャツにジーンズで、まるで服装に頓着していない。
「き、吉良真澄……」
素速く、私の背後に移動する真。
「『さん』をつけろよデコ助野郎っ!」
「ヒッ!」
「友達を怖がらせないでください」
演劇部の新顔である筈の和美、すでに真澄の扱いに慣れつつある。この女の順応性は異常だ。一方、真は完璧に俺の背後に隠れてしまっている。怖いものは怖いのだろう。
それにしても。
と、私は思う。
いつ見ても、完璧な容姿だ。肩先まで伸ばした金髪は美しく、大きな碧眼には誰しもが吸い込まれる。誇張ではなく、件のハリウッド女優と比べても遜色ない美貌だ。
これが男だと言うのだから、世の中分からない。
もっとも、半分ロシア人の血をひいているせいか、身長は百九十センチと、驚くほど高い。和美など、初対面で『そんなデカいギャルがいるか』と冗談交じりで言い放ったくらいだ。
と、言うか。
「演劇部の練習はどうしたんんですか?」
「一段落ついた。今は休憩中だ。で、和美から翼が試合中だと小耳に挟んだもんだからな、せっかくだからこの私が応援にきてやろうと思った訳だッ!」
「恩着せがましいな」
視線を転じると、ユニホーム姿の鳴川が近付いてくる。いつの間にか攻守交代していたらしく、見た限りでは鳴川の打順はずっと先らしい。
「馬鹿はともかく――町田も来ていたのか」
「いえ、私はたまたま通りかかっただけで。これから行くところもありますし」
「そうか――残念だな。せっかく、ここまでノーヒットノーランで来てるのに」
「へえ、翼、すごいじゃない」
思わぬ方向から声がして、五人揃って振り向く。
我が望高のエースピッチャー・七瀬悠季がそこに立っていた。
「まだ野球続けてたんだな」笑顔が爽やかだ。「隠すことないのに」
「……な、何でいるの」
数秒間、フリーズいていたらしい。
やっとの思いで、ようやくそれだけ絞り出す鳴川。
「ん? こいつに誘われたんだよ。草野球の試合に翼が出るから、ぜひ応援に来てくれないかって」
真澄を指差す七瀬。当の鳴川は蒼白な顔で口をパクパクさせている。
「せっかくの活躍ぶりだろうがッ! 七瀬悠季には是非知ってもらおううと思ってなッ! ちょっと無理して来てもらったんだッ!」
顔面蒼白の鳴川の様子など知らず、空気など読まず、真澄はそう言い放つ。
いや、空気は読んでいるのか。
空気を読んで、空気を読まないふりをする――だからこそ、吉良真澄はタチが悪い。
「……私が、いつ頼んだ?」
悪気のない真澄に対して、鳴川はこめかみに血管を浮かび上がらせている。青くなったり赤くなったり、忙しい人だ。
「言われなくても分かる。君は心のどこかで、自分も同じ野球人だと認めてもらいたかったんだろう!? ならばコソコソする必要などないッ! 思う存分、自身の力をこの幼馴染みに見せつけるといいさッ!」
「そういうのをね、余計なお節介って言うんだよ! だいたい、アンタといると毎回毎回、ろくなことないッ! 私が――」
「翼」
真っ赤になる鳴川を制止する七瀬。
「チェンジみたいだよ。まだ継投するんだろ?」
「え? あ、うん……」
「ノーヒットノーラン、期待してるから」
ギクシャクとマウンドに上がる鳴川に、更なる追い打ち。さっきまでと違って体ガチガチだけど、あんなので大丈夫だろうか。
結果は、三者連続フォアボール。
増田さんが慌てて降板させ、代わりの選手がマウンドに上がる。
消沈する鳴川。
励ます七瀬。
気まずい雰囲気の、真澄。
「……さて、私も演劇部に戻るとするかな……」
「真澄」いつの間にか真後ろに移動していた鳴川が、真澄の首根っこを掴む。「アンタ、野球は好き?」
「なんだその設問は!? さては、あれか!? アウトレイジビヨンドの加瀬亮みたいにするつもりか!? おい、和美くん、町田、相良、助け――わああああああああッ!」
真澄の絶叫を背後に、私たちはそそくさとその場を後にしたのだった。
熱量で飽和した空気を切り裂くように郊外を疾走していく。太陽光が肌を焼き、暑いを通り越して、痛い。真ではないが、少しは日焼け対策をするべきなのかもしれない。
途中で烏龍茶も飲み干してしまい、自販機で新たに水分補給するかどうかを逡巡してる間に目的地に着いてしまう。
喫茶桐壺。
駅前の外資系コーヒーショップが賑わいを見せる中、意固地に昔ながらのスタイルを守り続けている古風な喫茶店である。古くさいのは構わないのだけど、交通の便が悪いのは勘弁してほしい。幼馴染の実家でなければ、こうして通うこともないのだけれど。
「お邪魔します」
「どうも」
「涼しいなあー」
カランコロンと、これまた古くさいベルを鳴らして、私達三人は入店する。
「おお、千春ちゃん、それに和美ちゃんと真ちゃんも、いらっしゃい!」
カウンターの向こう、ひげ面のマスターが出迎えてくれる。夏でも冬でもシャツを腕まくりにして、些細なことでもよく笑う豪快な親父だ。
あまり息子には似ていない。
「二人は、部屋ですか?」
「あー、何か朝から籠もっちゃってるねえ。きっと今頃だらけてるだろうから、ちょっと発破かけてきてよ!」
「私たち、そのつもりで来たんですよお?」
ねちっこい口調で答える和美。
「真ちゃん、これ持って行ってあげて」
横からトレイを手にした静香さんが現れる。乗っているのは烏龍茶、カルピス、アイスコーヒー、そして、アイスミルクとジンジャーエール。皆の好きな飲み物だ。私たちは居住部の階段を上がっていく。
二階突き当たりのドアを開けると、そこには想像した通りの光景が広がっていた。
畳の上、大の字になって転がっているひかる。
テーブルで、真面目に宿題を片付けるアキラ。
あまりに想像通りで、思わず溜息がこぼれてしまう。
「あれ、千春。どうしたの」
頭を上げたアキラがナチュラルな反応を示す。隣のアホはピクリとも動かない。
「陣中見舞い。進んでる?」
「おれは順調に進んでるよ。お、ジンジャーじゃん」
「私のおごりだから」
「お金払ってないでしょ」
飲み物を手に取りながら、薄く笑う。
この二人とは小一からの付き合いだから、もう知り合って十年という計算になる。ひょろりと細長い体。髪も瞳も、色素が薄い。人格も顔付きも癖がなく、誰とでもそつなく付き合える。それがこの桐壺アキラの個性だ。
「で、こちらの屍は、どうしたのお?」
和美の問いに、アキラは軽く答える。
「飽きたんだって」
これ以上ない程に簡潔な説明だ。腹が立ったので足蹴にしてやる。
「いったいなあ……」
「何をサボってるのよ。ちゃんとまだ全然終わってないんでしょうが」
「むー」
ゴロゴロ転がりながら奇声を発している。きっと、人類より犬猫に近いんだろう。
「別に、今日中に終わらせる必要、なくない? 夏休みは二週間以上残ってるんだし」
「毎年そう言って、最終日に泣きを見てるんじゃないの。文句言ってないで、さっさと手を進めなさいよ」
「明日できることを今日やる必要ないじゃんかあ」
「……駄目人間の常套句だね」
真が呆れている。
私はひかるの横に腰を下ろし、その弛緩した顔を真上から睨みつける。
「言っとくけど、宿題を集中して片付けようって言い出したの、アンタなんだからね!? 言い出しっぺが真っ先に飽きてどうするのよ!?」
そう。この状況は、ひかる自ら生み出したものなのだ。とある事情により夏休み前半を潰したコイツは、残りの日数を目一杯遊んで過ごすため、今日一日で全ての宿題を終わらせると宣言。殊勝な心掛けだと感心していたのに、蓋を開けてみれば、案の定このザマだ。
「分かったよう……やればいいんでしょ。やれば」
唇を尖らせるひかる。二十一世紀の女子高生がやる仕草ではない。
「――でも、もうちょっと休憩させて」
「スマホに手を伸ばすなっ!」
素早く、伸ばされた右手を叩く。
「痛いなあ! ちょっとぐらい休ませてよ!」
「休憩は構わないよ? でも、スマホは禁止。連絡以外で使わないって、アンタ私たちに約束したでしょうが!」
我ながら口うるさいとは思うけど、コイツはこのくらい言わないと分からない。
「千春、ちょっと厳しすぎるって。いいじゃない。ひかるは反省してるんだからさ」
黙ってシャーペンを走らせていたアキラが穏やかな声を出す。
「アキラは甘やかしすぎなのよ……」
この半月間の騒動を忘れたのか。
私は呆れて溜息をつき、目の前の烏龍茶を飲み干した。
TSアプリなんてトンデモアイテムをどうやって手に入れたのか、詳しいことは分かっていない。気が付いたらスマホにあったのだと言う。考えても答えなど出そうにないので、皆その辺りはスルーしている。
問題は、ひかるがTSアプリを手に入れたその後だ。何人かの友達――もちろんそこには私も含まれる――を撮影して、それが性別を変換するアプリだと気付いたその瞬間に、ひかるの暴走は始まった。人智を越えた力を手にしたこのアホは、自分には困っている人を救済する使命があるのだと、壮大な勘違いをしてしまったのだ。
その被害者が、鳴川翼と吉良真澄の二人。
野球少女を男に変え、女装男子を女に変え――だけども、それは余計なお節介に過ぎなくて。一度暴走を始めたひかるは、それでも止まることはなかった。自身を台風の目にして周囲を振り回し、気になった人間、関わった人達をパカパカ性別変換させて――私たちがそのことに気付いた時には、収拾がつかないほどに事態はカオスを極めていた。もう、元々誰が男で、誰が女だっか、把握できなくなっていたのだ。
私と真、和美の三人でどうにかしようと思ったが、状況はますます混沌とするばかり。途方に暮れかけた時に手を差し伸べてくれたのが、ヒロ姉だった。
彼女は的確に元の性別を推測し、事態を丸く収めてくれたのだ。
ひかるの巻き起こした騒動は収束し、結果として私たちは鳴川や演劇部の連中と親しくなった。和美も、真澄のしつこい勧誘に折れ、演劇部の一員に加わった。
そして、騒動を巻き起こした二人には、宿題が残った。
「何かズルいよね。千春たち、いつの間にか宿題終わらせてるんだもん」
「何もズルくない。夏休み初日からコツコツ進めてただけの話でしょうが」取り上げたスマホを顔の前で振る。「アンタらが、こんなオモチャでアホやってる間にね」
「むー」
のそのそと起き上がってノートに向かうひかる。ようやくやる気になったらしい。
「ねえ、アンタらって、そこにはおれも含まれてるの?」
「当たり前でしょうが!」
キョトンとしているアキラに、スマホを突き付ける。
「だいたいねえ、アンタ、一緒に行動してたんなら、少しは止めなさいよ!」
「おれにできる訳ないじゃない。ストッパーは千春の役割でしょう?」
柔らかな声音でそう言うアキラに、私は再度溜息をつく。コイツは昔からそうだ。温厚で優しく、誠実な人間性を否定するつもりはない。ただ、ひかるに対する態度は、どうだろう。ひかるが何を言っても何をしても、大人しく、従順で、このアホを甘やかして、調子づかせて――全てを肯定して、受け入れて。いつもひかるの後を金魚のフンのようにくっていているから、一見アキラの方がひかるに依存しているように見えるが、実際は逆だ。寄り掛かってるのはひかるの方。自分を見つめ、認めてくれるアキラがいなければ、コイツは立っているのすら覚束ないだろう。そういう意味では、バランスがとれている。
と、言うか。
「さっさと付き合っちゃえばいいのにね」
耳元で囁く真を、私は軽く小突く。
私だって、そう思っている。お互い幼馴染以上の感情を抱いているのは確かなのに、なかなか進展しない。アキラが奥手なせいか、それともひかるが鈍感なせいか――。十年もの間、真横で見ている身としては、もどかしいことこの上ない。真も和美も、同じことを思っているに違いない。分かっていないのはこの二人だけだ。
「とにかく、夏休みが終わるまでスマホは禁止。九月になっても、あのアプリは使っちゃ駄目だからね」
TSアプリ、封印――
それが、皆で出した結論だった。他人の性別を変えてもろくなことにならない。今回の教訓だ。性別がパカパカ変わるような世界は、もう沢山だ。
無言でペンを走らせること、約三十分――沈黙を破ったのは、やはりひかるだった。
「ねえ、提案があるんだけど」
「何よ」
「もう、やめにしない?」
「集中力ないな。まだまだ、半分以上残ってるじゃない」
「いやあ、これでも結構頑張ったんだよ?」ひかるに同調するアキラ。「おれら、朝から六時間ぶっ続けでやってるし」
「残りは明日以降にさせてよー。あたし、もう限界」
とうとう泣きが入る。もっとも、これも想定内だ。一日で夏休みの宿題を自力で全て終わらせようなんてのが、そもそも無理な話だったのだから。
救いの手を差し出したのは、和美だった。
「別に、ひかるたちがそれでいいなら、いいいんじゃない? 残りは明日以降にしたら?」
「やった!」
両手を上げて喜びを表現している。小学生か。
「じゃあさ、みんなで花火やろ、花火! 真と和美も呼んでさ!」
「いいねえ。じゃあおれ、コンビニで調達してくるよ」
ひかるの提案にアキラが同調し、反対する理由もないので私もそれに同意する。真と和美の二人も、嬉々として参加するのだろう。
何も特別なことはない、どこにでもある日常。
だけど今は、それが何だかとてつもなく特別なことに感じられる。
目の前の烏龍茶を飲み干す。
喫茶桐壺特製の烏龍茶は、ほのかに甘味が感じられる。
私たちの夏は、まだ終わらない。




