さかいけ
千春 ♀
真澄 ♀
扇町は、海と山に挟まれた閑静な住宅地だ。地名が表す通り、町は扇状の形をしている。駅前はそれなりに賑わっているが、数分も歩けばたちまち田園風景が広がる。さしたる産業も、観光名所もない。あるのは、県内有数の進学校である心峰学園くらいのものだろう。実際、この駅を利用する人間は地元住民を除けば、そのほとんどが学園の関係者だ。進学校だけあって夏休みでも補習が多く、また部活動も盛んなために学園に出向く生徒は多い。熱心なことだ。ウチの居候にも見習ってほしい。おかしいな。あの人は心峰の生徒会長の筈なのに。
さて、望月高生である私が何故この地に連れてこられたのか――その理由は、駅舎を出てすぐの所に立っていた。
「広海さん」
笑顔で手を振る真澄。その、先。
「……ああ、吉良さん」
一人の女性が立っていた。年は三十代半ばだろうか。線の細い、儚げな印象の人だ。ボーダーのシャツを着て、この炎天下の中、ビラらしき紙束を持って佇んでいる。
「紹介しよう。こちら、酒井広海さん」
真澄の紹介に頭を下げる。それだけで折れてしまいそうだ。
「こっちは、私の学校の後輩で、町田千春と言います」
慌てて頭を下げる。アスファルトの放射熱が容赦なく熱い。
「この子、松前ひかるの友達でしてね」
「……ああ、ひかるちゃんの……」
驚いたことに、この人もひかると面識があるらしかった。
「そうです。今日は、この子にも何が起きているか教えようと思いまして――差し支えなければでよろしいのですが」
この奇人も、大人相手だとまともな喋り方になるらしい。
「……ええ、もちろん……そのために立っているんですから」
これです、と持っているビラを手渡す広海さん。そこには、こう書かれていた。
『目撃証言を探しています』
「……先月の終わりに、主人が痴漢の疑いで捕まったんです」
消え入りそうな声で、彼女はそう話す。
「痴漢冤罪です。私は、主人の疑いを晴らすために、目撃証言を探しているんです」
周囲の気温が、僅かに下がった気がした。
「先月の終わり――七月二十八日の午後六時半のことです」
ひかるが演劇部の部室を襲撃した、その直後だ。
「いつものように仕事を終えて帰途に着いていた主人は、同じ車両の女子大生からいきなり痴漢呼ばわりされて、駅員室に連行されたんです。お尻を触られたとか、何とか――だけど、そんな筈がないんです。生真面目で正義感が強く、曲がったことが大嫌いなあの人が、痴漢なんて……」
「否認してるんですか」
「……やっていませんから」
目を伏せる広海さん。だけど、それはどうなんだろう。痴漢冤罪で否認を続けてもろくなことにならないと聞いたことがある。認めた振りでも何でもして、示談に持ち込んだ方がいい――そんな風に言っていたのを、テレビで見た。
「やってないことを、やったなんて言えないんだと思います」
か細い声で、広海さんが言い切る。目の奥に、強い光が宿っている。その目を見たら何も言えなくなってしまった。
「――取り敢えず、場所を移しましょうか」
空気を読んだのか、それとも灼熱の太陽に音を上げたのか、真澄が横から口を挟む。
「そうですね――真央」
広海さんが呼びかける先、小さい影が駆けてくる。麦わら帽子をかぶった幼稚園児だ。
「……真央です」
言葉少なに自分の子供を紹介する。真っ黒に日焼けしているが、目はパッチリと大きく、成長したらお母さん似の美人になりそうだ。
「年、いくつ?」
屈み込み、目線を合わせる。誤解されがちだが、私は子供好きなのだ。
「……ろくさい」
母親の脚に隠れ、小さな声で教えてくれる。
「へえ、年長さん?」
さらに問い掛けるが、今度は完全に隠れてしまう。私は子供が好きだ。ただ、子供に好かれないだけで。
私たちは四人揃って、駅前の喫茶店へと避難した。一通りの注文を終えた私たちは、早速本題に入る。
「広海さんのご主人は昴さんと言って、建築会社で働いている。働き盛りの二十九歳だ。美人の奥さんと可愛いお子さんを授かり、今まさに幸せの絶頂にいた。そんな彼を悲劇が襲うのは、先月の終わり頃のことだ」
いつもながら前口上が長い。私は烏龍茶に口をつけながら、話の続きに耳を傾ける。
「時刻は午後六時半。座席は全て埋まり、立っている乗客の肩が触れ合う程度だったというから、乗車率は一五〇パーセントと言ったところかな。昴さんは乗降口近くに陣取り、つり革を手にボーっと車窓を眺めていた。周囲には心峰の生徒らしき女子高生がいて、昴さんの前には二十前後の女子大生が立っていた。あと数分で扇町に着くというところで――事件は起きた。前に立つ女子大生が、『この人、痴漢です』と声を張り上げ、昴さんの右手を掴み上げたんだ。騒然となる車内。昴さんは扇町で引き摺り下ろされ、駅員室に連行された」
この辺りは、先ほど広海さんに聞いた。
「ご主人は、ずっと否認を?」
「……ええ」
「今は……」
「拘留中です。もう二週間になるんですけど……」
声がデクレッシェンドで小さくなっていく。語尾など、ほとんど聞き取れない。
「よくある話さ。人質司法の代理監獄、推定無罪は適用されず、身の潔白のために悪魔の証明を強いられていると言う訳だ」
「悪魔の証明?」
「あるものをあると証明するのは簡単だが、ないものをないと証明するのは難しい。痴漢事件の場合、実際に触ったという目撃証言さえあれば簡単に罪を立証できるが、その逆は難しい。別の人物が触ったという目撃証言か、或いは被害者女性の証言の矛盾点を探し出して指摘しなければならない」
「……そう、なんです」
絞り出すように言葉を発し、俯いてしまう。彼女の膝の上では、真央ちゃんがクリームソーダを飲みながら、心配そうに母親を見上げている。
「拘留されてから今日までずっと、駅前でビラを配ってるんですけど、なかなか……」
沈んだ声。よく見ると、目は落ちくぼみ、濃いクマができている。ファンデーションで隠しているけど、口の周りは吹き出物だらけだ。後ろでまとめた髪はほつれ、シャツの襟も同様にほつれている。
何というか――ボロボロだった。
最初は三十五くらいだと思っていたけど、実際はずっと若いのかもしれない。線が細いように見えたのも、痩せているのではなく、やつれているからだ。
「被害者女性のでっち上げってことは……」
「勿論、それは考えた。示談金目当ての狂言なんじゃないかとね。しかし、被害者の女性は東京の名門、K大学に通う女子大生だ。夏休みで帰省中ということだが、実家も裕福で、身元もしっかりしている。金が目的とは考えづらい。かと言って昴さんとは何の縁もゆかりも無く、怨恨の線も考えられない。でっち上げとは思えないんだよ」
一息つき、コーラに口をつける真澄。
「なのに、彼女は尻を触られたと訴え、対する昴さんは一切触っていないと主張している。双方の意見が食い違っているんだ。こういう時、警察や司法は被害者の主張を尊重する。かくして、昴さんは未だに拘留中の身という訳だ」
ならば、答えは一つだ。
「他に真犯人がいるんじゃないんですか?」
「そう思って目撃証言を探してるんですけど……」
しまった。話が一周して戻ってしまったらしい。
「どうにも妙なんだよ。触られたと訴えた時、傍にいたのは昴さんだけだったと言うんだ。そんな訳はないんだが、これだけやっても有益な証言が得られないのだから仕方ない」
「……正直、どうしたらいいか分からないんです。何が起きてるか、どうするのが正しいのかも、もう……。会社には急病で倒れたと伝えてありますが、いつそれがバレるかも分かりません。バレたら、間違いなくクビです。私たちは破滅です。来年はこの子も小学校なのに……。弁護士の先生からは、示談を勧められています。確かに、そうしてしまった方が楽なんだとは思います。だけど……」
涙が一筋、広海さんの頬を伝う。
「ママー」
真央ちゃんが広海さんの袖を引く。心配なのだろう。
「あの、話は変わりますけど、真澄さんはどうやって知り合ったんですか」
「電車の中で話しただろう。例の騒動の直後に、私たちは広海さんにビラを貰ったんだ。他人事とは思えなくてね。今みたいに、この店で詳しい話を聞いたんだ」
その後の展開は、何となく想像がつく。
「それで、ひかるが?」
「そう。あの子は私以上に感情移入してしまってね。絶対に昴さんの無実を証明するんだと息巻いてた。私に付き纏うのをやめたのは、それが原因だね」
アイツ……。
鳴川から立花、真澄と救済の相手をコロコロと変えた挙句、辿り着いたのが痴漢冤罪の被害者という訳か。確かに、野球少女や女装男子に比べれば、助けを必要としてる度合いは比べものにならない。誰を救うべきかと考えるなら、この家族になるのだろう。
しかし、高校生の手に負えるかと言えば――大いに疑問が残る。その場にいれば、真澄の時のようにTSアプリで無理やり疑いを晴らすことはできただろう。しかし、件の人物は拘留中の身だ。力技は使えない。だとすれば、正攻法で無実を証明する他ない。
アイツには、それができるという算段でもあったのだろうか。
いや――そんな計算をしないのが、ひかるという人間か。
「それでですね、ここからが本題なんですが」人が考え事をしている間に、真澄はどんどん話を進めていく。「この前まで手伝ってくれていたひかるは、諸事情により来られなくなってしまったんですよ」
「そうなんですか……」
自殺のことは伏せるつもりらしい。この人なりの気遣いか。
「その代わりと言ってはアレですが、今日からはこの町田千春に、無実を晴らす手伝いをしてもらおうかと」
「ちょっと」いきなりの展開に、私は真澄の襟を引き、広海さんからは聞こえない位置で抗議する。「何ですか、それ。私聞いてませんよ」
「今、初めて言ったからな」
「そうじゃなくて――」
「どっちみち、そのつもりなんだろう? ひかるの足取りも追えて、一石二鳥じゃないか」
それはそうかもしれないけれど。
「真澄さんは? 手伝ってくれないんですか」
「やりたい気持ちは山々なんだけどね。昨日も言った通り、冗談抜きで忙しいんだよ」
「……分かりました。お役に立てるかどうか分かりませんけど……」
腹を括った私は、広海さんに向き直る。
「……よろしくお願いします……」
力なく頭を下げる広海さんと、幼気な表情を見せる真央ちゃん。
この家族を救えたら、本当にいいのだけれど。




