地震の巣の中で嗅ぐような臭い
・・・・・・叔母は語った。彼女が聞いていた言い伝えに過ぎないのだが「かおり」は身長5~6mほどある巨人の女の天使が村の空(上空20~30m)で首を吊っていたことから始ったという。季節は夏至を過ぎてから数日経った日だ。
ある日の昼過ぎ、村の上空で巨大な鳥が暴れ回るような激しい羽音がした。どこでバサバサしているかの、およその位置は掴めたが怪鳥の姿は誰にも見えない。一、二時間ほど低い空の一か所で暴れていた見えない翼はそのうち静まり、同時に重いモノを吊るす紐が伸びきった強いテンションでピンっ!! と張る音がして、すぐそこの空をまるで縦に切り裂いた。何も見えなかったが紐を吊った梁が軋むような音も聞こえた気がした。見えない激しい羽音だけでも十分すぎた不吉な空は、より不気味な空となり、頭上に対して決定的な想像を人々に与えたのはくぐもった苦し気な小さな低い声だった・・・・・・今度は突然に大量の液体がジャバジャバ流れ落ちてきて地面を叩きつける音が響いた。小さな滝のようだった。でもやはり液体は見えない。しかしこれまで嗅いだことのない、どこか新鮮で強烈な、エネルギーに満ちる悪臭が辺りに広がった。何かが腐るとか、燃やしてはならないモノが燃えている、とかそんな次元の話ではなく、健康やともすれば生命にかかわるんじゃないか? と本能的に危機感を持つような、皮膚が焼けるか脳がただれるかしそうな臭い。地震の巣の中で嗅ぐような臭いだったなのか? と空想したのは、小学生だったころの私の母だったらしい。
村人は家の中に避難した。しかしあらゆる隙間から臭いは入ってきた。臭いで死ぬって全くふざけた人生だな、と誰もが思ったことを後に村人の多くが笑い話にした。
村中の犬の鼻血が止んだ日没になると、どうやら臭いは薄れてきたらしく、恐る恐る表の様子を伺い始めた。臭いの滝つぼは乾いていたのか、もともと濡れなかったのかは分からないのだが、いずれにしろ問題というか懸念は低い空にあったわけで、彼らはいよいよそれを発見したのだった。
昨日と同じ一番星が現れたとき、生涯忘れえぬ不吉な低い空にぐったりする半透明の巨人が現れ、辺りが暗くなり星の数が劇的に増えだすにつけ空から垂れ下がる姿ははっきりし始めた。
見たこともない金髪を丸刈りにする、あるいはされてしまった、真っ白な裸の美人は同じくらい白い大羽を背負っていた。ぐったりした彼女の首を絞めている、大社に飾るしめ縄のような太さの麻紐は空の曖昧な場所から伸びていた。そこが重さに軋んだ梁の場所だったのだろうか?
腰を抜かした村人は、固まった血を鼻につけたまま空を見上げて怯える犬どもと一緒に失禁した。
星座という概念がない、見慣れた満天の星空になると、見えない梁から白い首まで伸びるしめ縄ごと地上に叩きつけられた巨大な女は、当然だったが動かない。もちろん日中に暴れまわっていた背中の翼もだ。
神棚の水をひっくり返すほどの衝撃で落下してきた金髪の白い巨体は、しかし昼間の犬の鼻の穴のような血は流れなかった。ただ三日月や百合よりも美しく整う顔は赤黒くなっていて、それは彼女の陰部の色とよく似ていた。
犬と共に失禁した、ときどき女をぶつような男連中よりもよほど勇敢な女たちは、明かりを手に集まり赤黒い顔へ死に化粧を施した。また別の女たちと失禁しなかった男たちは村のはずれに穴を掘った。近くの川に流せればそうしたかもしれないが、流れや水深を鑑みると翼を生やした死体はどうしたって大き過ぎたのだ。
一人の女が言った。こんなにきれいな顔をした大きな「娘」はどんな罪を犯したのかね?
別の女は言った。きれい過ぎたから「罰」を与えられたんじゃない?
もう一人の別の女が言った。だとしたらさ、私たちの村に生まれてくればよかったのにね。
なんで? と初めの女が聞いた。
村の女はみんな誰でも美人だから、ここならこの「娘」もただ大きいだけで飛びぬけた美人ではなくなるからよ。
確かにそうね。それに小便漏らしの連中をぶん殴ってくれたかもしれないしね。明かり代わりに「しめ縄」を燃やしていた別の女が笑った。
勇敢でユーモアも持っている女たちだったが、落下したとき嚙み切ったに違いない、そこに転がる舌の先きを、無理やりこじ開けた口の中へ押し込んだとき、瞼の上に隠れていた瞳が不意に降りてきたのでさすがに声を出して驚いた。しかし驚きの半分は瞳の色にだった。
「昨日の空みたいな色ね」誰かが言った。
そのとき彼女たちは初めて「娘」のための涙が流れた。
折れているのかいないのか分からない背中の翼を畳むと、各戸から外してきた12枚の板戸に乗せ、三頭の馬に引かせて葬送行進をし夜明け前には無事埋葬した。
失禁した男たちは二度と女をぶつことはなかったが、孫の代になると以前のように、あるいは空から何も垂れていたことなどない他所の村の男のようにときどきぶち始めた・・・・・・翌年から「かおり」が漂ったという言い伝えを叔母は鼻で笑っていたが「絶対に口外するな」とあらためて言ったときの目は歳に見合わず、力強い呪いのように静かな強さに満ちていた・・・・・・たぶんこの人は長生きするんだろうな、と思った。
つい先日のことだが、仕事で使う飛行機のフライトまでの時間をラウンジで待っていたときのことだ。私は見知らぬ男から声を掛けられた。
「突然で大変に申し訳ないのですが、率直に尋ねさせてもらいますけれど、あなたがつけている香水は何てブランドでしょうか?」中肉中背で、高価な生地の黒いスーツを着た裕福そうな、少なくとも私よりは歳の若い男。
「・・・・・・」私は固まってしまった。その日は、私のキャリアにとって重大な出張だったので、ゲン担ぎのお守り代わりに、母が遺した無臭の香水をつけていたのだ。
「特別な意図はないんです。でも印象的な香りだったので、つい・・・・・・」顔を赤らめたのは、おそらく意を決して話しかけてきたからだろう。だとすれば、いくらかの誠実さを持っているのかもしれない。
「あなたはこの匂いを嗅げるのですか?」思わず私は聞いてしまった。
「ええ。もちろん」男は不思議そうな顔をした。
「どんな匂いでしょう?」自分でもトンチンカンなことを聞いている自覚は持っていた。
「悪く取らないでもらいたいのですが・・・・・・どこか悲しい別れを連想してしまう感じです。でもそれは私にとって今では懐かしくさえある匂のような気がしたのです」男の耳は今も赤かった。
「・・・・・・」私は突然に胸が締め付けられたので戸惑った。
「どうもすみません」耳の赤い男は驚いて私の目を見て謝った。
「香水は死んだ母が自分で作ったものなんです。だからブランド名はありません」そしてあろうことか、見つめられている目が潤み始めた。私は手の震えを隠し奥歯をかみしめるしかなかった。
「そうですか。余計なことを思い出させてしまい、重ね重ねすみませんでした」明らかに動揺している見知らぬ男は何度も何度も頭を下げて立ち去った。
男と話している間、空から垂れ下がる巨人の女の天使の姿が頭から離れなかったのは、立ち去るときの男の背中に白い翼が見えた気がしたからなのか?・・・・・・であれば、だからだったのだろうと今では思う。
ラウンジでの私の突然の涙は、これまで感じたことのないほど強く激しい「怒り」によっていた。私は立ち去る男の、金持ちそうな翼のない実際の背中を凝視しながら、自分の背中が翼の羽ばたき方を知っているような気がしたし、一度もしたことのない坊主頭の感覚も思い出していたのだ。頭を摩ったときに掌がチクチクした屈辱と絶望をなぜか私は知っているのだった・・・・・・私は私以外の何者でもないはずなのに、あのとき極めて重大な恨みを晴らすのは今しかない気がした。でももちろんそんなことはしなかった。私は恐る恐る自分の首を摩ってみただけだ。幸い何も感じなかった。




