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かおり  作者: ハクノチチ
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天の川の水の匂い

 ダムの建設で集団移転した母の村は五十戸に満たない小さなものだった。去年、77歳で死んだ母がまだ子供だった頃だからおよそ七十年前のことだ。その年に漂った夜が最後だったのだろう。集落の端から端までむせ返すほど漂う「かおり」は夏至から数日内の、雨の降っていない一晩にだけ発生した。時刻は日没後数時間経ってからだったらしい。


 母は言っていた。

「日中に遊び疲れてぐっすり寝ていても目が覚めるくらいだったよ」


 七十年という歳月を長いと取るか短いとするかは個別事例によるところだが、初夏の山や川で遊び疲れて寝入った幼女を起こすほどの自然現象、あるいは奇怪な現象たる質を鑑みれば、現代を生きる私にはたった七十年前でしかないのかと思わずにはいられない。いずれにしろ「かおり」は当時の村人だけでもなく、森の蝶から田んぼの蛙までもが共有する出来事だ・・・・・・。

 

 果たしてどのような香りだったのかを言語化するのは難しい、と言っていた。

「くちなしの花の匂いがあった気もするけれど、同じ時期に咲く匂いの強い花だからそんな気がするだけで、もう少し早ければみかんの花に思えちゃうのかもしれない」等と言っては笑っていたものだ。

「一晩だけ漂うなら月下美人はどう? 初夏の満月に咲くし、とてもいい匂いだしさ。月の匂いにたとえられることもあるらしいよ」と私は言ってみたが、アレは違う、と即答された。

「月じゃないんだよ。星にたとえるならむしろ天の川・・・・・・そう天の川の水のような匂い」病床の母はまた笑った。

 このやり取りを懐かしく思うものだがまだ一年も経っていない。


「かおり」が発生する晩には明らかな予兆があった。その日の夕まづめになると尋常ではない数の蝶が村に集まり始め、場所によっては互いに羽を擦りつけてしまうほどで、地面には色鮮やかな鱗粉の「溜まり」が出来た。田んぼの蛙の鳴き声には、自身の腹の様なつるりとした艶が現れ、おそらく一音ほど高くなった。近くの河原ではカゲロウが朱色になるほど興奮したと言う。この時ばかりは儚さなどなかったよ、と。蛍に至ってはまだ明るい時間から緑の蛍光色を点滅させ、そこら辺をうろつく犬は自ら飼い主のもとへ戻り「今夜はかおりですよ」と犬語で教えた。仏壇の前で寝ている猫も尻尾を立て、こちらは飼い主のご先祖へ告げた。そして村人は「かおり」の発生に備えるのだった。一晩中「かおり」の漂う大気からなる朝露を回収するのだ。

 犬語で訴える飼い犬の頭を摩ると玄関先や庭に皿やコップを並べた。でもやはり朝一で、名もない雑草や低い枝の葉先から回収する方が量は取れた。池と言うか泥沼を作り蓮を植えるどの家も、目的は翌朝に玉となり葉の上で転がる朝露だった。

 年に一度の「回収」で手に入れる量は知れていた。よくてビールグラス半分ってところだろう・・・・・・。



 母の遺言通り透明な液体が入った小さな瓶を化粧箱の抽斗の中で見つけた。蒸発対策で栓の周りには蝋が垂らされていて、手書きのラベルが貼ってあった。「19×× 6月28日 かおり」。幼い頃の母の字は思ったよりもずっと下手で、それが少しおかしかった。

 蝋を削り落とし瓶の蓋を開けて匂いを嗅いでみたが全くの無臭だった。ともすればただの水よりも無臭だったかもしれない・・・・・・でも私は車で街のセレクトショップへ行き、来月の車検代くらいする高価な古い香水瓶を購入し何よりも大切な遺品として移し替えた。



「かおり」は文字通りの万能薬だった。白湯に混ぜて服用すれば血圧の低下から腹部内各疾患を改善させ、切り傷、打身、捻挫に腰痛、関節痛などは患部に垂らすだけで効果は現れ、点眼すれば視力は回復した。頭に塗る村人に薄毛の悩みを持つ者はなく、臍の穴に溜める婦人に更年期障害はなかった。もちろん「あっち」もしかりだ。煙しか出なくなった男の老人は十代の夜に覚える、癖のような青臭い「後悔」を勢いよく飛ばせたし、村の若い女が不妊に悩むよりも、年増の女がこの歳で懐妊してしまわぬよう注意しなければならなかった。 

 死に水に与えると生き返った、というもっとも疑わしい伝説も残っていたらしいが、さすがに信じる者はいなかった。でも言い方を変えれば、絶対にありえない、とまで言い切れる者は少数で、信じてはいないけれど、身内が死ぬと試してみる家は少なくなかった。



 ギャンブルと暴力だけの人生だった、悲しい男を見限った母は私を一人で育てた。母には二つ違いの姉がいて私たちの唯一の身内だ。

生前に会ったことがないので他人としか思えない、祖父母の眠る墓へ母の骨を納めるとき、つまり四十九日に私は叔母へ「かおり」のことを聞いてみた。


「母が小瓶に取っていたから、香水の瓶に移し替えたの。今日つけてきているんだ」

「・・・・・・あら、でも何も匂わないじゃない。そんなもんなのよ。さっさと捨てなさい」と言われたのは意外だった。

「匂いはないけど、お守りのつもり」

「そんなモンつけたって男なんか出来ないわよ。出来てもあんたのお父さんみたいなろくでなししか寄ってこないだろうけどね」今年で44歳になる独身の姪(つまり私)に向かい車椅子から毒を吐く叔母も実は生涯独り身で、妹の葬儀の時も、納骨時も世話になっている施設の人がついてきてくれていたのだった。



 母が「かおり」のことを話してくれたのは病床に伏せてからだった。初めは心臓の疾患に伴うボケかと思ったが、そうではなかった。際の際まで顕著な現われはなかったのだから。そしてまた母が私に噓をついているとも到底思えなかった。

 私は母に「かおり」を服用してみれば、と言った。でも母は「私はもう十分」と拒んだ。どうあれ娘に迷惑を掛けたくない、と言っているも同然。

「でも試しに」

「ありがとうね」母は微笑んで、やはり拒んだ。

 母は最期まで「かおり」を信じていたのだと思う。

「・・・・・・押し入れの奥に楓の小さな化粧箱があるから、見つけたらあなたが使えばいい」



 恐ろしく簡易的な納骨が終わると叔母は付き添いに、車へ戻っていてくれ、と言った。

「かおりのことは誰にもしゃべるなよ」叔母は私に言った。

「叔母さんも覚えているんだね。どんな匂いだったの?」

「・・・・・・美しい女の、美しい死臭としか私には表現できない」叔母は車椅子の上で首を振った。



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