-30- 施し
(結界が……!)
ルミアーナを抱きかかえ、塔の前に立ったエバン。
入口の結界が解除されていることに気づき、目を見開いた。そう、入り口にはいつも赤い結界が張られていた。触れる者を瞬時に炎上させて殺害する、罠のようなあの結界だ。
あの結界があるが故に、塔に踏み入ることができるのはエバンと、そして国王だけだった。
しかし、それが消えている今では誰でも塔に踏み入ることができるだろう。ルミアーナは結界を通過できないはずだが、どうすればいい? 塔の外からオプスキュリアに呼びかけ、説得を試みるしかないのだろうか? この場に向かうまでのあいだ、エバンはずっとそう考えていた。しかし、ひとまずその心配は杞憂に終わったようだ。
――その娘を連れてこい。
オプスキュリアの声が聞こえたわけではない。しかし、結界が解除されている塔の入り口を見ていると、あの魔妃がそう命じているようにエバンには思えた。
「うっ……!」
エバンの両腕に抱えられているルミアーナが、また苦悶の声を漏らした。
顔色は時を経てさらに悪化し、立ち枯れの呪いが彼女を蝕み、その命を奪おうとしているのだ。
急がなければ……! エバンは結界の解かれた入り口へと駆け出した。馬も道具も使わずにルミアーナをここまで運んでくるのは容易ではなかったが、この一刻を争う状況に休んでいる暇などない。
「絶対に助ける、死ぬなよ」
ルミアーナは答えなかった。
もう、言葉を発することもできなかったのだろう。しかしわずかに、彼女が首を縦に振った。綺麗な銀髪が揺れるのを、エバンは見た。
まだ死ねないと彼女は言っていた。それならば、全力で助けなくてはならなかった。
身体に鞭打ち、エバンは塔へと足を踏み入れて階段を駆け上がった。
ルミアーナが受けた呪いは強力で、城中の魔術師を総動員しても解呪は困難だとアマンサは言っていた。絶望的と思える状況で、彼女を救える可能性がある唯一の手段――それは、ルミアーナをオプスキュリアと面会させることだった。
魔妃に序される彼女であれば、立ち枯れの呪いを撥ね退けられるかもしれない。そう考えたのだ。
(だが、オプスキュリアがどう思うか……)
扉の前に立ったが、すぐにその奥に踏み入る覚悟はなかった。
可能性がないわけではないが、決して高いとは考えられなかったのだ。面会させたとして、オプスキュリアが協力などしてくれるだろうか?
ためらったものの、ルミアーナの苦悶の声を聞いたエバンは、今の状況を思い出した。足を留めている猶予など、ないのだ。
結界が解除されていたことを考えれば、オプスキュリアがルミアーナに興味を示しているのかもしれない。その点から説得すれば、もしかしたら……そう思ったエバンは意を決し、扉を開けた。
すぐに、こちらを見つめる少女と視線が重なる。
しかし、エルマではなかった。その瞳が赤く染まっており、射抜くような鋭さを帯びた眼差しだったからだ。
「オプスキュリア……!」
エルマの身に封じられた魔妃は、答えなかった。無言のままエバンと、それにルミアーナのほうへ右手をかざした。
その手が一瞬、赤い光を放つ――同時にルミアーナの苦悶の声が、ぴたりと止んだ。
「っ……?」
ルミアーナが息をのんだ。
彼女は驚いた様子だったが、それはエバンも同じだった。
「大丈夫か?」
ルミアーナは何が起きたのか分からず、困惑した様子だった。しかしエバンの呼びかけに応じ、頷いた。
「もう大丈夫……降ろしてくれる? 自分で立てるから」
そう言われて、女の子を抱えていることが急に恥ずかしく思えてきた。
「あ、ああ、分かった……!」
赤面しているのを悟られないようにしつつ、エバンはルミアーナの足を床に付けさせた。
ここに来る前は無我夢中だったので、靴など履かせていない。ルミアーナは裸足で、白いネグリジェ姿のままだった。
自らの足で立ったルミアーナは、目の前にいる彼女を――長大な金髪を有し、白いドレスをまとった少女を見つめた。
エルマという器を借りているものの、彼女は恐るべき魔力を有する魔妃、オプスキュリアだ――しかし、ルミアーナにそのことは分からないだろう。
エバンは緊張のあまり、まばたきもできなくなる。
オプスキュリアはは呪いを撥ね退け、ルミアーナを救った。しかし、機嫌を損ねるようなことがあれば、オプスキュリアがルミアーナに何をするか分からなかったからだ。
「あなたが……魔妃、『オプスキュリア』?」
オプスキュリアは、ルミアーナを射抜くような眼差しで見据えたまま、腕を組んだ。
「いかにも」
ルミアーナの問いに、オプスキュリアは短く応じた。たった数文字の言葉に、底知れぬ威圧感が滲んでいるように感じられる。
オプスキュリアは、エバンへと視線を移した。
「人間にしてはやけに強い魔力を持つ者だと思えば……小僧、貴様の客か?」
「ああ、そんなところだ……オプスキュリア、ありがとう。助かったよ」
エバンが感謝を伝えると、オプスキュリアは眉間に皺を寄せた。
「何?」
「ルミアーナを、助けてくれたんだろ?」
オプスキュリアは黙った。
少しの間を挟んで、「ふん」と鼻で笑う。
「そうでもあり、違うとも言える。並外れた魔力を持つその娘に、興味が湧いただけのことだ」
決して、親切心からルミアーナを救ったわけではないのだ。人間に味方している(あくまで表面上に限った話ではあるが)とはいえ、オプスキュリアは魔族だ。自らの利益に繋がらないような善行をするとは、到底思えなかった。
しかし、動機がどうあれ彼女がルミアーナを救ったのもまた事実。入り口の結界を解除しておいてくれたことといい、礼を言わずにはいられなかった。結界が張られたままであれば、そもそもここにルミアーナを連れてこられなかっただろう。
「それに、わらわはその娘の呪いを完全に消し去ったわけではない」
エバンは顔を上げた。芽生えつつあった安心感に陰りが生まれる。
当事者であるルミアーナは尚更だったようで、彼女が息をのんだのが分かった。
「その呪い……『立ち枯れの呪い』だな? わらわの魔力で一時的に抑え込んでいるが、時が経てば再び貴様を蝕むことになろう」
オプスキュリアは、呪いを受けた者がここを訪れるということも、呪いの種類すら看破していた。だが、完全にルミアーナを救ったわけではない。
助けてくれるかどうかは、定かではない。しかし、ルミアーナにかけられた呪いを取り払えるのは、この魔妃しかいない。
そう確信したエバンは、前に歩み出た。
「頼むオプスキュリア、彼女の呪いを解いてくれないか」
「それはできぬ相談だと分かっておろう。この娘はわらわの眷属ではない……小僧、貴様と違ってな」
仮に呪いを受けたのがエバンだったのであれば、オプスキュリアは助けてくれたのかもしれない。
エバンはオプスキュリアと契約を交わし、眷属となっている。彼の腕には、その証たる薔薇の茨模様が刻み込まれている。
「それなら……私とも契約を結んでは?」
エバンの隣に歩み出たルミアーナが、跪きながら提案した。
「あなたはきっと、私の魔力に興味があるはず……そうでなれば、助けるどころか応急処置すらしない。魔妃たるあなたが施しを与えたということは、少なからず私に利用価値を見出したのでは?」
そのとおりであるように、エバンには思えた。
オプスキュリアは無言だった。まるで品定めをしているかのように、ルミアーナを見つめ続けていた。
「小僧……席を外してもらおうか」
不意に告げられた命令に、エバンは困惑する。
「どういう意味だ?」
オプスキュリアは、エバンのほうを向かないまま応じた。
「この娘と、少し話がある」




