-15- 差し向けられた傀儡
何事もなく、夜は過ぎた。
村の惨状を考えれば、魔物や獣の襲撃を受けずに朝を迎えられて幸運だった……帰り支度を整えながら、エバンは心の底からそう思った。
篝火を消し、寝具をまとめて馬に括り付ける。
空にはすでに太陽が昇っていた。
願わくば、この村が滅ぼされたということが夢であってほしかった。人々が無事で、いつものように畑仕事に勤しんでいて、家屋や厩舎が破壊されていない、エバンの知るラスバル村の風景が広がっていればいいと思った。
しかし、現実は変わっていない。のどかな村の風景も、人々の命も、もう二度と絶対に取り戻すことはできないのだ。
「それじゃあ、私は先に……」
村の風景を眺めて思いを馳せていたエバンに、ルミアーナが歩み寄ってきた。
彼女はすでに支度を終えており(寝具を使わずに眠ったから、手間が少なかったようだ)、あとは杖を使って飛び立つだけのようだ。
「分かった。『例の件』、よろしく頼んでいいか」
ルミアーナは頷いた。
エバンが口にした『例の件』とはロヴュソールへの食糧支援のことだった。ラスバル村との交易が不可能となった今、アヴァロスタ女学院のほうで何か、手を打ってはもらえないだろうか……ルミアーナは、それを上層部に掛け合ってくれることになっていた。
最上位に近い立場の彼女なら、学院の上層部に話を通すことも可能なのだろう。
「力になれるかどうかは分からないけれど、最善を尽くすわ」
ルミアーナは、もうあとは杖を使って飛び立つだけのはずだった。
しかし彼女はすぐに去ろうとはせず、馬に歩み寄った。
エバンとともに調査に赴いた、昨日彼女に『ブルックス』という名前を与えられたばかりの、赤茶色の毛並みを有するロヴュソールの軍馬は、差し出されたルミアーナの右手を穏やかに受け入れた。
ブルックスの額を撫でながら、ルミアーナは笑顔を浮かべた。
「じゃあねブルックス」
そんな彼女に伝えたいことがあって、エバンは今一度口を開く。
「世話になった、本当に助かったよ」
ルミアーナには、感謝しなければならなかった。
偶然居合わせただけの彼女だったが、その助けがなければ今頃、エバンは今頃魔物の腹の中だったかもしれない。村の人々の仇を討つことができたかどうかも、疑わしいだろう。
銀色の綺麗な髪を揺らしながら、ルミアーナは首を横に振った。
「別に、たいしたことはしてないわ。あの魔物を倒したのはあなただし。それに……」
「それに?」
ルミアーナは、その場で踵を返してエバンに背を向けた。
緩やかな風が吹き、彼女の銀髪やマントが空を泳いだ。
「そう遠くないうちに、あなたとはまた会う気がする……だから、そんなかしこまらなくても大丈夫よ」
エバンのほうを完全には向かず、振り向く形で彼を見つめ、ルミアーナは言った。
どういうことなのか? それを問い返す猶予は、エバンには与えられなかった。
彼からの返事を待つことなく、ルミアーナは水晶が先端に埋め込まれた彼女の杖に腰掛けた。
「それじゃ、帰り道には気をつけて」
そう言い残すと、彼女は魔法を駆使して一気に宙へ浮き上がり、空の彼方へと飛び去っていった。
ルミアーナの後ろ姿を見送ったあとで、エバンは馬へと歩み寄り、その背中へと飛び乗った。
「俺達も帰るか、ブルックス」
ルミアーナが付けた名で、馬のことを呼んでみた。
ブルックスは威勢のいい鳴き声で応じた。もしかしたら、自身に与えられた名を気に入っているのかもしれない。
◎ ◎ ◎
エルマはその場に寝そべり、手にした黒薔薇をぼんやりと見つめていた。
壁の燭台に灯された火が、家具も調度品も何もない部屋を、そして床に張り巡らされるように縦横無尽に広がるエルマの金髪を照らし出していた。
純白のドレスと、満月を切り取ったかのような長大な金髪の対比は、誰もが目を奪われそうなほどに美しかった。しかし、この部屋にエルマの姿を見る者はいない。
ここにはエルマの他にもうひとりがいる。しかしおそらく『彼女』には、エルマの姿を見ることはできないだろう。
《あの小童のことが、恋しいのか?》
それもそのはず、エルマ以外の『もうひとり』――オプスキュリアは実体を有していないのだから。
オプスキュリアが発する言葉は、エルマの頭に浮かぶ。それは、エルマ以外の誰にも聞こえない。エルマの瞳が青いあいだ、つまりエルマ自身の意識が顕在化している際は、いつもそうだった。
姿こそ見えないが、オプスキュリアはいつでも自身の意思を言葉にしてエルマに伝えることができるのだ。
「そうかもね」
黒薔薇を見つめたまま、エルマは応じた。
オプスキュリアが誰のことを言っているのかは、考えなくとも分かる。この黒薔薇の贈り主である、あの少年のことだ。燭台の炎に照らされ、エルマのドレスの前垂れに描かれた紋章が煌めいた。薔薇を象った、ロヴュソールの国章だ。
エルマの細い指先が、黒薔薇の花弁に触れる。
この黒薔薇を贈られたのはいつだったか、もう覚えていない。覚えていないが、ずいぶん前のことだったというのは分かる。
年老いることがないエルマには、時の流れなど無意味に等しいものだ。
《それをえらく大事にしているが……お前、黒薔薇の花言葉を知っているのか?》
「もちろん、知ってるよ」
オプスキュリアの声には威圧的な色が滲んでいた。しかしエルマは恐れるどころか、笑みを浮かべた。
「『あなたはあくまでわたしのもの』……でしょ?」
指先で黒薔薇の花弁をめくってみる。黒の中にほのかな紫色も混ざっていて、言い表せない美しさ、妖しさが漂っているように感じられた。
《不気味だとは思わないのか? 暴走した愛は、時として破滅を呼び寄せるぞ》
まるで実体験に基づいているかのような、含みのある言葉だった。
エルマはその意味を問おうとはせずに、黒薔薇をそっと胸元へと添い寄せた。
「思わないよ。だって黒薔薇の花言葉は、見方を変えれば『実直な愛』ということだから」
この部屋に続く扉越しに、誰かの足音が聞こえた。
音の間隔は狭く、足早に向かってきているのが分かる。ここを頻繁に訪れる者はひとりしかいないから、誰なのかは容易に想像がついた。
長大な金髪を揺らしながら、エルマはその場で身を起こした。
「エバン……?」
彼であるのならば、エルマが待ち望んでいた相手だった。
《エルマ……すまないが、少しのあいだ意識を奪わせてもらうぞ》
「えっ?」
不意なオプスキュリアの宣言、エルマにはその理由を問い返す猶予は与えられなかった。
次の瞬間、エルマの意識が急に遠のいていった。青かった彼女の瞳が血に染まるように赤く変じ、その顔に浮かんでいた優しげな笑みは、跡形もなく消え去った。
立ち上がったエルマ――いや、オプスキュリアは、射抜くような眼差しで扉を見つめた。それがやかましい音を立てて開かれたのは、すぐのことだった。
「エルマ!」
やはり、エバンだった。
急いでここに駆けつけたのだろう、彼は息を弾ませ、大きく肩を上下させながらエルマを呼んだ。
エルマは答えない。そもそも今、彼女の意識はオプスキュリアに取って代わられており、返事をすることはできない。
「大変なんだ、魔物の大軍が攻めてきて……とにかく、一緒に来てくれ!」
オプスキュリアは、何も言わずにその右手をエバンに向けてかざした。
長大な金髪が、まるでそれ自体が命を有しているかのように動き――たちまちエバンの身体に絡みつき、彼を持ち上げた。
「なっ、何を……!」
エバンが身動きするが、逃げることなどできない。
「貴様、これはいったい何の真似だ?」
オプスキュリアの問いに、エバンはただ「えっ、何だって?」と返すのみだった。
「わらわにこんなものを寄越して、どういう了見かと訊いておるのだ……」
聞く者すべてに恐怖を与えるような、荘厳で威圧感の滲む声だった。
エバンに絡みついた金髪が彼を締め上げ、静かな部屋の中に彼の苦悶の声が響き渡る。
「答えろ……『デルフィオーネ』!」
オプスキュリアの手の平から赤い光弾が放たれ、エバンを直撃した。髪によって拘束されている彼には、回避する術はなかったのだ。
悲鳴が響き渡り、エバンの身が灰に変じていく。
もう必要ないと判断したオプスキュリアは、彼の身を捕らえていた金髪を解いた。
その瞬間、エバンの身体がまっすぐに落下し、ドシャリと音を立てて床に打ちつけられた。彼の身体が完全に灰へと変じて消滅したのは、それからすぐのことだった。
灰の中から、人間の骸骨が現れた。
骸骨がボウッと怪しい光を帯びながら浮き上がった。その顎がやかましい音を立てて動き、
《アハハハハ! 私の傀儡をすぐに見破るだなんて、さすがはお姉様。とりあえずは褒めてさしあげるわ!》
いかにも高飛車で、傲慢さが溢れるような女の声が発せられた。
ここに姿を見せたあのエバンは、エバンではなかった。この女が作り出した傀儡であり、つまりは偽物だったのだ。
「相変わらず骸骨集めが趣味か。察するに、『骸骨姫』という通り名をずいぶんと気に入っているようだな」




