ディフェンダーに憧れた少年
「蓮、忘れ物はない?」
「昨日の夜にも確認したよ」
「でも、もう一回確認しておきなさい。初日なんだから」
「はいはい」
玄関に置いた大きめのボストンバッグを横目に、僕は靴紐を結び直した。
今日からしばらく帰ってこない。
そう考えると、十二年間暮らしてきたこの家の玄関も少しだけ違って見えた。
「着替えは?」
「入れた」
「歯ブラシ」
「入れた」
「充電器」
「それも入れた」
「保険証は?」
「ばあちゃん」
「何?」
「昨日一緒に確認しただろ」
「あら、そうだった?」
とぼけたように首を傾げるばあちゃんに、僕は小さく息を吐いた。
絶対に覚えている。
昔からそうだ。
遠足の日も、修学旅行の日も、僕が家を出る時には必ず何度も忘れ物がないか確認してくる。
今日なんて朝から三回目だ。
「そんなに心配しなくても、週末には帰ってくるって」
「そういう心配じゃないのよ」
ばあちゃんが少しだけ困ったように笑った。
僕も、それ以上は何も言わなかった。
分かっている。
ばあちゃんが何を心配しているのかくらい。
「蓮」
今度は後ろから声がした。
振り返ると、じいちゃんが廊下に立っていた。
いつもの灰色のカーディガン。
新聞でも読んでいたのか、右手には老眼鏡を持っている。
「学校に行ったからって、無茶する必要はないからな」
「分かってるよ」
「分かってる奴が十年近くも毎朝走るか?」
「それとこれとは別だろ」
「同じだ」
じいちゃんはそう言って、僕の肩を軽く叩いた。
「逃げることも覚えろ」
その言葉に、僕は一瞬だけ答えられなかった。
逃げる。
昔の僕には、それしかできなかった。
いや。
正確には――逃げることすらできなかった。
「……分かってる」
今度は少しだけ真面目に答えた。
じいちゃんは僕の顔を数秒見つめ、それ以上は何も言わなかった。
僕は立ち上がると、玄関脇に置かれた姿見へ目を向けた。
新品の制服。
黒を基調としたブレザーの胸には、今日から通う学校の校章が付いている。
身長は百六十六センチ。
男子としては少し低い。
小学生の頃から続けてきたトレーニングのおかげで身体はそれなりに引き締まっているけど、制服を着てしまえばそんなことはほとんど分からない。
問題は――顔だ。
鏡に映っている自分を見る。
黒い髪。
少し長めの前髪。
昔から実年齢より幼く見られることが多い。
中学三年の時にも一年生と間違われたことがあるくらいだ。
自分ではそんなに変わらないと思うんだけど。
「……ちゃんと高校生に見えるよな?」
思わず呟く。
「大丈夫よ」
ばあちゃんが答えた。
「制服を着ていれば、ちゃんと高校生に見えるから」
「制服を着ていればって余計だろ」
「あら、褒めてるのよ。蓮は昔から可愛らしい顔をしてるんだから」
「高校生の男に言う褒め言葉じゃないよ、それ」
ばあちゃんが楽しそうに笑う。
僕はもう一度鏡を見る。
……まあいい。
ディフェンダーになるのに、顔は関係ない。
ボストンバッグを肩に掛ける。
そして玄関の扉を開けた。
四月の朝。
少し冷たい風が頬を撫でる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ばあちゃんの声を背中に受けて、僕は家を出た。
◇ ◇ ◇
駅前の大型モニターでは朝のニュースが流れていた。
『――午前六時四十分頃、神奈川県西部でD級魔物一体の出現が確認されました』
足を止める人はいない。
『現場には第三方面隊所属のディフェンダーが出動し、午前七時十二分に討伐が確認されています。人的被害はありません』
画面には道路の真ん中に横たわる巨大な獣が映っている。
狼に似ている。
ただし、大きさは普通の狼の倍以上。
背中からは黒い突起物が何本も伸びていた。
周囲には規制線が張られ、防護服を着た作業員たちが死骸を運び出す準備をしている。
『この影響により県道七十六号線の一部区間が通行止めとなっています。通勤、通学の方は――』
僕はモニターから視線を外した。
誰も騒がない。
スマートフォンを見ながら歩く会社員。
友達と話している高校生。
眠そうに欠伸をしている大学生。
いつもの朝だ。
魔物が出た。
ディフェンダーが倒した。
道路が通行止めになった。
僕たちにとっては、雨で電車が遅れたというニュースとそこまで大きく変わらない。
――八十年前までは違ったらしいけど。
第二次世界大戦の最中。
数百年に一度、地球へ接近するとされる巨大彗星から分離した二つの隕石が地球へ落下した。
一つはユーラシア大陸中央部。
もう一つは、アメリカとメキシコの国境付近。
世界中が戦争をしていた時代だ。
隕石による被害は当然あったものの、各国は戦争を優先した。
だから最初は、大した問題にはならなかったらしい。
異変が起きたのは、その後。
落下地点周辺の植物。
動物。
そして人間。
あらゆる生物に変化が現れ始めた。
原因は隕石に含まれていた未知の物質。
《魔素》。
魔素によって変異した動物は巨大化し、凶暴になった。
それが――魔物の始まり。
同時に、人間にも変化が起きた。
魔素を体内へ取り込み、《魔力》として扱える人間が現れたのだ。
戦車より硬い魔物。
銃弾を受けても止まらない魔物。
炎を吐く魔物。
そんな化け物に通常兵器だけで対応するのは難しかった。
だから魔力を扱える人間たちが戦った。
各国は敵国との戦争どころではなくなり、自国に現れる魔物への対応を迫られた。
その結果。
多くの禍根を残したまま、世界大戦は終わった。
そして魔物と戦った者たちは、やがて組織化される。
魔物から人々を守る者。
《ディフェンダー》。
それから八十年以上。
今では子供でも知っている職業だ。
そして今日。
僕はそのディフェンダーになるための第一歩を踏み出す。
◇ ◇ ◇
電車を二本乗り継ぎ、さらにバスで二十分。
ようやく目的地が見えてきた。
窓からでもすぐに分かる。
高い外壁。
その向こうに並ぶいくつもの建物。
普通の高校ではまず見ない巨大な体育施設。
さらに奥には、演習場らしき広大な土地まで見える。
僕は無意識に背筋を伸ばしていた。
国立東央ディフェンダー高等養成学校。
全国に十二校しかない、ディフェンダー育成を目的とした高等教育機関。
通称――東央。
入学者は毎年百二十人。
僕も今日から、その一人になる。
「……やっと来た」
思わず声が漏れた。
長かった。
本当に。
小学生の頃から、ずっと目指してきた場所だ。
バスが正門前の停留所に到着する。
降りる生徒のほとんどが僕と同じ制服を着ていた。
新品の黒いブレザー。
胸には東央の校章。
大きな荷物を持っている生徒も多い。
この学校は全寮制だ。
今日から僕も、ここで生活することになる。
正門の前で一度立ち止まった。
「……やっと、ここまで来た」
自然と拳に力が入る。
ここに来るまで、何年掛かっただろう。
小学生の頃から毎朝走った。
雨の日だって、家の中で出来ることを探して身体を動かした。
中学生になってからは本格的に身体を鍛え始めた。
休日には魔物について勉強した。
種類。
生息域。
習性。
弱点。
過去に起きた魔物災害。
ディフェンダーの戦闘映像だって、何度見たか分からない。
魔素適性が低いことは、ずっと前から分かっていた。
それでも諦めなかった。
僕に才能がないなら、才能以外の全部を伸ばせばいい。
そう思って、今日までやってきた。
そしてようやく。
僕はディフェンダーになるためのスタートラインに立った。
「よし」
小さく呟いて、正門へ向かって歩き出す。
不安がないと言えば嘘になる。
でも、それ以上に楽しみだった。
ここなら今までよりもっと強くなれる。
もっと魔物と戦うための技術を学べる。
いつか。
本当に誰かを守れるディフェンダーになれる。
そう思うだけで、自然と足取りが軽くなった。
正門横に設置された電子掲示板が目に入る。
《新入生能力測定》
入学式終了後。
一年生全員を対象に、基礎身体能力及び魔力測定を実施する。
「初日からか」
僕は掲示を見ながら、少しだけ笑った。
「望むところだな」
正門を通り抜ける。
広い敷地。
真新しい校舎。
同じ制服を着た生徒たち。
これから三年間。
ここが僕の学校になる。
◇ ◇ ◇
入学式は一時間ほどで終わった。
校長の話。
来賓の挨拶。
ディフェンダーとしての心構え。
普通の高校の入学式がどんなものなのかは知らないけど、少なくとも「死亡率」という言葉が三回も出てくる入学式は珍しいと思う。
そして午後。
僕たち新入生は校舎とは別に建てられた能力測定棟へ移動していた。
身体測定から始まり、筋力、瞬発力、持久力、反応速度。
次々と測定していく。
最初は少し自信があった。
ずっと鍛えてきたからだ。
少なくとも身体能力なら、それなりにやれると思っていた。
でも、結果は僕の予想とは少し違った。
悪くはない。
決して悪くはない。
ただ――良くもない。
中学なら上位に入っていた数値が、ここでは平均程度。
筋力に至っては平均を少し下回っていた。
周囲を見れば、僕より速い奴が普通にいる。
僕より重い物を持ち上げる奴も珍しくない。
持久力だってそうだ。
全国からディフェンダーを目指してきた人間が集まっている。
考えてみれば当然だった。
「……これが、ディフェンダーを目指す奴らか」
思わず呟く。
悔しくないと言えば嘘になる。
でも。
嫌じゃなかった。
むしろ少し嬉しい。
今まで一人でやってきた。
何をすればディフェンダーに近づけるのか、自分で考えて、自分なりに鍛えてきた。
でも、ここには僕より上がいくらでもいる。
なら。
まだまだ強くなれる。
そう考えると、不思議と気持ちが高揚した。
そして最後。
魔力測定。
白い部屋の中央に、大型の測定装置が置かれている。
一人ずつ装置の前へ進み、手を乗せる。
「魔素適性、三十七」
「はい!」
前の生徒がほっとしたように返事をする。
次。
「四十二」
その次。
「三十四」
「三十九」
「四十五」
三十台から四十台。
やっぱり、この学校に集まってくるだけあって、二十台はほとんど見かけない。
時折五十を超える数字が表示されれば、周囲から小さなどよめきが起こった。
一般人なら魔素をほとんど扱えない人も珍しくない。
その中で、ディフェンダーとして認められる最低基準は二十。
東央に入学してくるような生徒なら、三十以上あるのが普通なのだろう。
「次。一ノ瀬凛」
担当職員の声に、一人の女子生徒が前へ出た。
僕と同じ新入生。
背中まで伸びた艶のある黒髪が、歩くたびに小さく揺れる。
姿勢がよく、どこか近寄りがたい雰囲気のある女子だった。
一ノ瀬は測定器の前に立つと、迷うことなく右手を透明な板へ乗せる。
機械が低い音を立てた。
数秒後。
正面のモニターに数字が表示される。
「一ノ瀬凛。魔素適性――六十七」
「……六十七?」
誰かの声が聞こえた。
それまでとは明らかに違うどよめきが測定室に広がる。
僕も思わずモニターを見た。
《67》
高い。
五十を超えれば優秀。
六十台ともなれば、同年代ではそう簡単に見られる数字じゃない。
少なくとも僕は、実際に見るのは初めてだった。
周囲から視線を向けられている一ノ瀬本人は、特に驚いた様子もない。
「はい」
短く返事をすると、測定器から手を離した。
六十七。
最初から、自分がそのくらいの数字を出すと知っていたような反応だった。
「一ノ瀬凛……」
僕は小さく名前を呟く。
たぶん。
覚えておいた方がいい。
そんな気がした。
測定はその後も続いていく。
「三十八」
「四十一」
「三十三」
一ノ瀬ほどの数字は、それから一度も出なかった。
そして。
「次。朝倉蓮」
「はい」
僕は前へ出た。
測定器の前に立つ。
何度経験しても、この瞬間だけは少し緊張する。
「右手を置いて」
担当職員に言われ、透明な板の上へ掌を乗せる。
機械が低い音を立てた。
淡い青色の光が手の周囲を走る。
数秒。
正面のモニターに数字が表示された。
職員がそれを読み上げる。
「朝倉蓮。魔素適性――」
分かっている。
十二歳の時も。
十五歳の時も。
僕の数値はほとんど変わらなかった。
それでも。
ここまで努力したんだ。
ほんの少しくらい。
上がっていてくれたら。
そんな期待をしてしまう。
「二十一」
周囲が僅かにざわついた。
僕は表示された数字を見る。
《21》
変わっていない。
ディフェンダーとして認められる最低基準。
二十。
僕はそれを――
たった一だけ上回っていた。




