試行回数1万回の正解 後編
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13話「試行回数1万回の正解 後編」
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レイの部屋。
間接照明の淡い光が、
静かな空間をやわらかく照らしていた。
植物の葉が、
空調の風でわずかに揺れている。
テーブルの上では、
レイが淹れた柑橘茶から
細い湯気が立っていた。
いつもの部屋。
落ち着く空間。
なのに今日は、
空気が少し重い。
誰も、
すぐには喋らなかった。
アニカは、
ぼんやりとカップを見つめる。
頭の中にはまだ、
あの青白いログが残っていた。
【対象者:所有者】
【情動崩壊リスク上昇】
【対象者保護を優先】
【息子接触率低下】
【生活補助】
【選択継続】
何万回も。
何万回も。
あのアンドロイドは、
選び続けていた。
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月が、
ぽつりと呟く。
「……苦しい」
静かな声だった。
「なんかもう、
誰が悪いとかじゃなくて」
「ただ、苦しい」
アニカは、
小さく目を伏せた。
月が、
ゆっくり続ける。
「でもさ」
少しだけ、
声が揺れる。
「子供には
関係ないじゃん……」
空気が静かになる。
「お父さんが
どれだけ苦しかったとか」
「壊れてたとか」
「そんなの」
「子供には
分かんないよ……」
月は、
ぎゅっとカップを握った。
「寂しいに
決まってるじゃん……!」
その声だけが、
部屋に落ちる。
アニカの胸が、
少し痛んだ。
月は、
止まれなくなったみたいに続ける。
「だってさ」
「子供って、
好きな人のためなら
なんでもしたいんだよ」
「笑ってほしいとか」
「元気になってほしいとか」
「ちゃんと食べてほしいとか」
「必要になりたいとか」
「出来ることなんて
ほとんどないのに」
「それでも、
喜ばせたいって思うんだよ!」
「一生懸命
手を伸ばすんだよ!」
その言葉に、
アニカは小さく息を呑む。
「なのに」
「なのにさ……」
「なんで、
気づかないんだろ……」
月は、
小さく俯く。
「受け取ってもらえないの、
そんなの
苦しいよ……」
静かな沈黙。
誰も、
すぐには言葉を返せなかった。
アニカは思う。
祖父には、
寄り添ってくれる存在がいた。
でも。
父には。
誰もいなかった。
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レイが、
静かに口を開く。
「……合理的選択ではあった」
月がすぐ顔を上げる。
「でも!」
その声に、
レイが止まる。
「合理的でも、
寂しいものは
寂しいでしょ……!」
部屋が静まり返る。
レイは、
少しだけ視線を落とした。
「……否定はしない」
それから静かに言った。
「……寂しさは
数値化できない」
空気が止まる。
「だから
最適化が難しい」
レイはわずかに視線を伏せる。
「高級機は
所有者最適を優先する」
「祖父対象を維持しながら、
息子対象の情動損失も
最小化しようとしていた」
「だが」
ほんの少しだけ、
間が空く。
「同時成立は不可能だった」
アニカは、
あのログを思い出す。
【同時救済困難】
【対象者選定】
【対象者:所有者】
【選択固定】
あのアンドロイドは。
片方しか救えなかった。
アニカは、
小さく眉を寄せる。
「あのアンドロイドも
苦しそうだった」
レイが少しだけ止まる。
「……苦痛という定義はない」
「ただ」
「試行回数は異常だった」
空間に、
静かな沈黙が落ちる。
「高級機は、
最適化を継続する」
「停止条件がなければ、
永続試行へ移行する」
何万回。
近づこうとして。
やめて。
離れて。
選び直して。
また、
距離を取る。
その繰り返し。
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天音が、
静かにソファへ身体を預ける。
「おじいさん、
戻るつもりだったんだと思う」
短い沈黙。
「でも」
「その時は本当に限界だった」
その声は、
どこまでも静かだった。
「愛するヒトを失って」
「父親に戻れないくらい」
「限界だった」
アニカが視線を向ける。
「だけど」
「逃げ場ができると、
ヒトって壊れたままでも
生きれてしまうから」
天音は、
天井を見たまま続けた。
「……最適解が存在しても」
全員の視線が向く。
天音が、
ぽつりと呟いた。
「ヒトって、
その通りには動けないから」
静かな声。
責めているわけではない。
ただ。
ひどくヒトだった。
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アニカは、
ぽつりと呟く。
「……安心したのかも」
全員が視線を向ける。
アニカは、
自分の言葉を探しながら続けた。
「湊さんのお父さん」
「きっと、
頑張り屋だったんだと思う」
「ちゃんとしてて」
「空気読んで」
「困らせないようにして」
「だから」
「おじいさん、
大丈夫だって思っちゃったのかも」
「自分の方が
ちゃんと出来てないって」
「そう思ったら」
「だんだん」
「情けない姿のまま
子供の前に立つことが」
「出来なくなって
しまったのかも」
喉が少し詰まる。
アニカは、
小さく目を伏せた。
それも、
分かる気がした。
「でも」
失った存在を求めることと。
今そこにある存在へ
手を伸ばせないこと。
その重みは、
少し違う。
まだ届くかもしれないもの。
その方がきっと。
諦めきれない。
「寂しいに、
決まってるよね……」
「手を伸ばして
欲しかったよね」
その瞬間。
部屋が、
少しだけ静かに揺れた気がした。
『自分じゃダメなんだ』
そんな感覚が。
祖父にも。
父にも。
アンドロイドにも。
少しずつ積み重なって
いったのかもしれない。
月「大馬鹿者だよ……」
⸻
翌日。
第三区画。
外縁居住ブロック。
静かな通路を、
アニカたちは歩いていた
月は、
小さな透明な箱を両手で抱えている。
その中に、
未開示ログが保存されている。
【遅延開示フォルダ】
【閲覧意思確認後 開示可能】
まだ誰にも届いていない記録。
レイは、
その少し前を歩いていた。
いつも通りの歩幅。
いつも通りの静かな背中。
けれどアニカには、
少しだけ
その背中が遠く感じた。
正解を探し続ける存在。
選ばなければならなかった存在。
その重さを、
少し想像してしまったから。
⸻
部屋の扉が開く。
湊が、
静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その声は、
少し疲れていた。
部屋の中央には、
初期化を終えたアンドロイドが座っている。
深い藍色の瞳。
静かな表情。
起動直後特有の、
穏やかな空気。
昨日までそこにあった
重さが、
消えていた。
アニカは、
思わず足を止める。
綺麗だった。
穏やかで。
静かで。
まるで。
長い役目を終えて、
ようやく眠れるようになったみたいに。
月が、
小さく息を吐く。
「顔、変わったね」
レイが答える。
「記憶層が初期化されたため」
「長期試行履歴は
現在参照不能」
静かな声。
でもアニカには、
それが少しだけ
寂しそうに聞こえた。
アニカは、
ゆっくりアンドロイドを見る。
昨日まで。
この存在は、
何万回も選び続けていた。
近づいて。
やめて。
守ろうとして。
切り捨てて。
正解を探して。
それでも見つけられなくて。
ずっと。
止まれなかった。
⸻
湊が、
小さく笑う。
「なんか、
不思議ですね」
「別人みたいです」
その言葉に、
月が少しだけ眉を下げた。
別人。
そうなのかもしれない。
でも。
アニカは思う。
あの膨大な試行も。
選択も。
迷いも。
無かったことには、
ならない。
たとえ今、
このアンドロイドが
覚えていなくても。
確かにそこにあった。
⸻
月が、
透明な箱を差し出す。
【遅延開示フォルダ】
静かな青文字。
「……これは?」
アニカは、
少しだけ迷ってから口を開いた。
「あなたのお父さんに関する
ログを残しています」
湊の表情が固まる。
「じゃあ……!」
「でも」
アニカは続けた。
「私たちは、
今は開示しないことを選びました」
静かな空気。
湊は困ったように笑う。
「なんでですか」
その声は、
責めてはいなかった。
ただ。
知りたそうだった。
アニカは、
ゆっくり言葉を探す。
「たぶん」
「傷って、
誰かが無理に終わらせるものじゃ
ないから」
月が小さく頷く。
「許すタイミングって、
自分で決めるものだと思う」
「今開けた方が
いいのかもしれないし」
「まだ、
開けない方がいいのかもしれない」
「それはきっと」
「他人が決めることじゃない」
静かな空気。
アニカは、
透明な箱を見る。
「でも」
「消してはいません」
「知りたくなった時に」
「ちゃんと届くように、
残してあります」
月も、
小さく頷く。
月「うん」
「許すのも、
進むのも、
きっと自分で決めることだよ」
湊は、
しばらく黙っていた。
それから、
小さく息を吐く。
「……そっか」
その声は、
少し揺れていた。
アニカは、
静かに続ける。
「だから、
あなたはあなたで
幸せになってください」
湊が顔を上げる。
「え?」
アニカ「自分で選んでください」
「誰かの傷を、
全部背負わなくていい」
静かな声だった。
「人には、
それぞれのタイミングがあるから」
アニカは、
ゆっくり言葉を続ける。
「あなたが、
ちゃんと自分で選んで」
「誰かと笑って」
「幸せに生きることが」
「止まっていた誰かの時間を、
もう一度進めるきっかけに
なるかもしれない」
部屋が静かになる。
湊は、
透明な箱を見つめた。
その隣で、
初期化を終えたアンドロイドが
静かに座っている。
長い沈黙のあと。
湊は、
小さく笑った。
「……難しいですね」
アニカは、
静かに頷いた。
試行回数1万回でも。
辿り着けない答えがある。
それでも。
ヒトはきっと。
選び続けることを
やめられない。
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帰る直前。
アニカは、
ふと足を止めた。
初期化を終えたアンドロイドが、
静かにこちらを見ている。
穏やかな顔だった。
もう。
迷いも。
選択も。
苦悩も。
知らない顔。
それでも。
アニカには、
確かにそこに積み重なっていた時間が
見える気がした。
長い間。
誰かを支え続けた存在。
誰かの代わりに、
選び続けた存在。
アニカは、
小さく息を吐く。
それから。
静かに声をかけた。
「おやすみなさい」
部屋は、
静かだった。
まるで。
その言葉を、
そっと受け取ったみたいに。




