正しさはみんなのために
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9話「正しさはみんなのために」
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第六演習室。
階段状の半円教室。
中央には、
大型投影領域が展開されている。
青白い光が、
静かな空間を淡く照らしていた。
複数の学生たちが、
各自の端末を接続している。
今日の授業は、
グループ演習。
課外実習で取得した観測データを元に、
改善構造を提出する実践分析だった。
投影領域中央には、
先日の男性職員のログが表示されている。
報告遅延。
確認停滞。
自己判断。
情動変動率。
離脱傾向。
数値だけを見れば、
問題個体判定に近い。
現在発表中のグループの代表生が
淡々と表示を切り替える。
「ヒト個体は、
情動変動幅が大きい」
「アンドロイドやAI人間とは異なり、
自然交配によって生まれるため」
「精神構造安定率にも、
個体差が発生します」
「そのため、
適応不能環境が発生しやすい」
「従来社会では、
これを“努力”で補っていましたが」
「現在は、
無理に適応させる必要性が低下しています」
続ける。
「適性配置による流動最適化の方が、
全体幸福率は高い」
「不要な苦痛を与えずに済みます」
冷たく言っているわけではない。
むしろ。
苦しませないための提案だった。
「では」
教壇側で、
海先生が静かに言う。
「各グループ毎に、
改善案を提出して」
空間に、
複数の表示領域が開き始める。
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グループA。
「対象個体は、
高負荷連続処理への適性不足」
「第三区画から、
低責任区域への再配置を推奨」
「報告遅延率改善が見込まれます」
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グループB。
「確認工程数を増加」
「自己判断防止のため、
承認権限を段階制限」
「一定期間の監視強化を提案します」
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グループC。
「代替可能個体」
「改善コストに対して、
全体流動効率が低い」
「人員交換処理が合理的です」
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誰も悪意で言っていない。
教室内には、
端末駆動音だけが静かに流れている。
アニカは、
その表示を見つめていた。
確かに合理的だった。
社会全体で見れば、
正しい。
流動率も上がる。
停滞も減る。
けれど。
脳裏に浮かぶのは、
あの男性職員の顔だった。
『ちゃんと、
やりたいんです』
掠れた声。
何度も、
謝っていた。
「……違う気がする」
無意識に、
呟いていた。
隣で、
月が小さく瞬きをする。
「ん?」
アニカは、
表示領域を見た。
配置転換。
監視強化。
権限制限。
どれも、
“止まった後”の対処だった。
「この方は、
サボりたいわけじゃないと思います」
静かな声。
周囲の視線が、
少しだけ向く。
アニカは、
そのまま続けた。
「怖くて、
止まってる」
数秒の沈黙。
他グループの一人が、
首を傾げる。
「恐怖要因は、
既に観測済みです」
「そのため、
負荷軽減措置が提案されています」
「はい、ですが……」
アニカは、
言葉を探す。
「この方は、
“確認したら怒られる”
が先に来ているので」
「確認工程を増やしても、
怖かったら出せないのではないでしょうか」
教室が静かになる。
学生たちが、
わずかに眉を寄せた。
「理解不能です」
「確認は、
問題修正のための合理行動です」
「怒られる可能性と、
何が接続していますか」
「え……」
アニカは、
少しだけ息を止めた。
接続。
当然みたいに言われたその言葉に、
逆に詰まる。
「……価値、
ではないでしょうか」
小さく、
口から漏れる。
「多分この方は、
失敗すると」
「自分の価値が減ると、
感じてしまうのだと思います」
静寂。
今度は、
別の学生が口を開く。
「非合理的です」
「失敗と個体価値は、
別処理です」
アニカは、
小さく頷く。
「はい。ですが」
「そう感じる人も、
一定数存在するのではないでしょうか」
その時だった。
ガラッ。
演習室の扉が開く。
授業中の静寂の中、
ひとりの学生が入ってきた。
制服が違う。
この区画では見るはずがない、黒。
ヒト科。
教室内の空気が、
わずかに揺れる。
端末越しに、
視線が一斉に向く。
誰かの端末通知が、
一瞬だけ停止した。
海先生が、
静かに視線を向ける。
「別室から聴講のみの許可だったはずですよ」
その学生は、
軽く頭を下げた。
「申し訳ありません、先生」
「非常に興味深い内容でしたので」
柔らかな声。
穏やかな笑み。
けれど、
どこか読めない。
「はじめまして」
「ヒト科所属、
天音と申します」
アニカは、
少しだけ姿勢を正した。
本来、
AI人間科とヒト科の接触は、
卒業直前個体を除き制限されている。
教室内にも、
小さなざわめきが広がっていた。
天音は、
ゆっくりアニカを見る。
「先程の改善案について、
質問してもよろしいですか」
「あ……はい」
アニカは頷く。
天音は、
静かに言葉を続けた。
「この世界は、
ヒトが生きやすいよう最適化されています」
「適応困難個体が発生した場合、
無理に矯正せず」
「適性へ流す」
「現在社会は、
そういう構造です」
空間に、
淡い試算モデルが展開される。
「誰も苦しまなくていい」
「誰も悪くない」
静かな視線。
「そう願って、
作られた世界です」
教室は静かだった。
誰も、
反論しない。
正しいことを、
言っているからだ。
けれど。
アニカだけが、
胸の奥に小さな違和感を抱えていた。
静かな声。
「苦しみながら、
適応する必要性は低い」
「それでもなお、
長期適応を試みる理由は何でしょうか」
アニカは、
少しだけ迷う。
「この男性が、
笑顔で仕事に向き合えるようになれば——」
「それを」
天音が、
静かに遮る。
「男性本人は、
望んでいましたか」
呼吸が止まる。
アニカは、
あの男性を思い出す。
ちゃんとしたい。
迷惑をかけたくない。
そう言っていた。
けれど。
“笑顔で働きたい”
とは、
言っていなかったかもしれない。
静寂。
天音は、
淡々と続ける。
「長期改善には、
感情資源が必要です」
「期待」
「観測」
「調整」
「新規構造作成」
空間に、
簡易試算モデルが表示される。
「途中で本人が、
配置変更を望んだ場合」
「投入した感情資源は、
損失になります」
「順応可能個体を配置した方が、
流動効率は高い」
静かな声。
「また」
「現在社会では、
働くことは生存条件ではありません」
「ヒトの一生は、
あなた方より遥かに短い」
天音が、
投影領域を見たまま言う。
「限られた時間を、
苦痛に費やす必要はありません」
淡々とした声。
「怖いなら、
離れていい」
「向いていないなら、
別の役割へ移ればいい」
「現在社会は、
それが可能です」
「できる個体が、
できる役割を担えばいい」
「では」
わずかな間。
「わざわざ
“しなくてもいい努力”
を促す理由は、
何でしょうか」
教室が静まり返る。
誰も、
否定しなかった。
むしろ。
当然みたいに、
聞いていた。
アニカは、
指先を握る。
何かが、
少しズレた気がした。
自分は、
この人を“救いたい”と思った。
でも。
それは本当に、
相手のためだけだったのだろうか。
「あなたは、
その男性が“笑顔で働く未来”を望んでいる」
天音が、
静かに言う。
「ですが」
「それは、
誰の願望ですか」
呼吸が止まる。
「対象個体のためですか?」
「それとも」
静かな視線。
「あなた自身の、
“そうあってほしい”
ですか」
教室の光だけが、
静かに揺れている。
アニカは答えられない。
代わりに。
アニカ「それが、
ヒトの望み…ですか?」
「その質問は」
天音はほんの少しだけ、
笑う。
「前提から、
間違えているかもしれませんよ?」
教室の空気が、
静かに揺れる。
「“ヒト”は、
単一個体ではありません」
「ですが」
わずかな間。
「多数傾向としては、
そうですね」
「統計上、
長期適応を望まない個体の方が多いことでしょう」
「苦しみ続けることを、
美徳とする時代は終わりました」
その言葉に。
アニカの呼吸が、
わずかに浅くなる。
間違えた。
そう、
思った。
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演習終了後。
学生たちは、
それぞれの端末を閉じながら、
静かに帰路へ流れていく。
「ヒト科視点は、
興味深かったです」
「流動効率としては、
妥当でしたね」
「やはり、
ヒト理解はヒト科が最も近いのでしょうか」
そんな声が、
遠くで聞こえる。
誰も、
疑っていない。
アニカだけが、
席に残っていた。
空間には、
自分が提出した改善案がまだ残っている。
全部。
“笑ってほしい”
から作ったものだった。
でも。
それは、
本当に“必要”だったのだろうか。
静かな投影光が、
指先を白く照らす。
自分は。
“ちゃんと流れてほしい”
と、
思ってしまっていたのではないだろうか。
息が、
少し苦しい。
指先が、
わずかに止まる。
『ちゃんと、
やりたいんです』
ふと、
あの声を思い出す。
静寂。
その時。
「不思議だよね」
後方から、
静かな声がした。
アニカが振り返る。
薄暗い教室後方。
海先生が、
壁際にもたれながら、
投影領域を眺めていた。
「みんな、ちゃんと優しいのに」
淡い青白い光が、
横顔をぼんやり照らしている。
「誰も、
本人に聞いてなかったよね」
静かな声。
責めてもいない。
肯定もしていない。
ただ。
境界だけを、
曖昧にするみたいに。
海先生は、
そのまま続ける。
「苦しませたくない」
「頑張らせたくない」
「無理させたくない」
「全部、
優しさだった」
淡い光。
「でも」
ほんの少しだけ、
目を細める。
「本人が、
どうしたかったかだけ」
「最後まで、
誰も知らない」
静寂。
「あなたが、
正解だと感じたなら」
目が合う。
「多分、
それはあなたの正解なんだと思うよ」
わずかな間。
「少なくとも、
今はね」
アニカは、
小さく息を止めた。
投影領域の中で。
自分の改善案だけが、
まだ淡く光っていた。




