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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
霧の季節になる前に
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ただいまの物語

 一〇月一〇日。正午少し前。

 定期考査期間となり、午前中で下校できる、そんな時期。

 とある高校の制服を着た少女が、同じ制服を着た生徒たちとは逆の方向へと歩いていた。




 少女が着ている制服を指定制服に持つ、とある高校。生徒は全員が下校し、教職員は採点などで職員室にこもるため、定期考査の時期には、昼であっても校舎に人がほとんどいなくなる。少女はそんな校舎にひとり、足を踏み入れた。

 ふらりと遭遇する教職員たちに咎められることなく、少女は校舎を気の向くままに歩いてまわった。各学年の教室。特に二年生の教室を時間をかけて眺めた。特別教室や階段もすべて巡り、立ち入ることのできない屋上へと続く階段も最上段まで昇りきった。

 少女はそこに腰掛けた。そこは少し高かった。見たことのない景色になった。

 しばらくぼうっと座り続けた。そして、少女はゆっくりと立ち上がると、そこを発つことに決めた。

 少女はある時期、そのとある高校の転校生だった。転校を繰り返すうちに、いつの間にか転校生であることに慣れてしまっていた。慣れてしまってはいけないものが分からなくなっていた。そのようなものがあるのかさえも分からなくなっていた。

 今の少女は――――




 少女は高校を去ると、どこかへ向かって歩き始めた。

 少女はこの町へ帰ってきたのだった。そう、かつて、少女はこの町で暮らし、高校に通っていた。そう遠い過去の話ではない。むしろとても最近の、もっと細かく言えば、一ヶ月前の話だ。

 町を離れてから、少女は遠く離れた場所で、帰るためのあらゆる方策を試し尽くした。帰るためには、いくつもの問題を自分で片付け、そのうえで少女の祖母を説き伏せなければならなかった。説き伏せはしなくとも、説得はしなければならなかった。

 少女が町に帰ることには、とても多くの問題があった。ただ、少女は優秀だった。完璧に近い人間だった。問題はどれも少女にとって解決できる、あるいは将来の解決を保証できるものだった。

 それでも、少女は時間をかけなければならなかった。ただひたすらに、量が多すぎたのだった。

 少女は頑張った。頑張って、頑張って、頑張った。どんなに頑張っても、少女は身体も心も挫きはしなかった。挫けないほどの強さを、少女は持っていた。その強さは、少女が帰りたいと願う町で、苦しみながら得たものだった。

 “遠く離れた場所”とて、悪い場所ではなかった。少女の祖母はとても優しい人で、土壌と生物は豊かで、時間はゆるやかに流れていた。

 それでも“帰りたい”と少女が願った理由は、その町で交わした、ひとつの約束の言葉を忘れずに持ち続けていたからだった。




 少女は小さな公園に寄り道をした。ただの寄り道ではなかった。少女にとっては、ちゃんとした目的地のひとつだった。

 誰もいなかった。ベンチがあった。少女は座った。

 夏はようやく諦めをつけ、秋が足早にやってきている。雑草の色がうっすら茶けている。よく風が吹くようになった。まだ肌寒さはそれほど強くない。少女の記憶とは、様々な物事が異なっていた。

 単純な話、季節が移り変わっていたのだ。

 空を見上げる。高い、たかい空。少女の記憶にある頃の晴れた空と比べれば、雲は少し増えているが、どれも薄く、はるか高くにあった。空までもが異なる顔を見せている。そんな季節の景色だ。

 見慣れていたはずの景色。見たことがあるはずの景色。ほんの少しの時間を経ただけで、薄らいでしまった記憶。

 だが、少女は知っていた。

 “記憶は消えない”のだと。

 真昼にこの公園に来たことはなかったかもしれない。あってもそれはきっと遠い記憶だろうと少女は考えた。いま、新しくなったのだから、それでいいと思った。

 少女の記憶はいくつも小さく欠けている。消えないはずの記憶。思い出せないだけ。思い出さないのとは、言葉以上に違っている。もし誰かにその記憶を教えられても、それが元あったように戻ってくれない。欠けに潜む虚無に、そのまま落ちてゆくだけ。

 取り戻したいとは思っている。ただ、今すぐにというのは少し違うとも思っている。それは、単に不可能に思えるからというわけではなく、ひとりで取り戻そうとすることの愚かさと虚しさ、誰かと取り戻そうとすることの強さと支えを知っているからだ。

 少女は立ち上がった。目的地はこの公園だけではなかった。




 この町には、少女が暮らした家がある。だが、そこは目的地ではなかった。その家の前を通りはしたが、ほんの少し立ち止まって眺めただけで、またすぐに歩き始めた。

 目的地は、その家から歩いて三分ほどの場所にあった。

 一軒の家。そこも、少女にとっては記憶に結びついた場所だ。それも、近く、鮮やかで、大切な記憶として。

 門扉の前で、ほのかにひんやりとした空気を大きく吸い、ゆっくりと吐いた。全身が爽やかだった。そして、心までも。

 門柱のインターホンを押す。家の中から外まで響き抜ける呼出音と――――足音。

 慌ただしい足音はやがて止み、門扉の向こうで玄関の扉が開かれた。少女は、その扉に手をかけている相手に向かって、はっきりとこう言った。


「ただいま」


 少女の帰りを、誰もが待っていた。

 少女の名前は――――洲本霧香といった。

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