第一章-2
翌朝病院を辞した英一は、葉月を伴って学校に向かった。
この時代には、高校というものは存在しない。かつての中学にあたるまでを基礎教育と位置づけ、高校入学の年齢になった者は将来の職を見越した専門学校へ通うよう義務付けられている。
そのため、既に職を得ている英一の場合は本来学校へ通う意味はない。だが制度上の例外は認められないというお役所仕事の弊害で、適当な学校へ籍を置く破目になっている。もっとも彼は、それを良い口実に気分転換のために登校したりもしているわけだが。
とはいえ、ここ数日の出来事を思えば暢気に学校へ行く余裕などあるはずもない。つまり、それでも彼──と葉月──が本日登校したのは、別の用事があったからに他ならなかった。
校舎に入るなり、彼らは教室棟とは離れた特別棟へと向かった。そして一番大きな部屋の入り口に立ち、扉に手をかける。横にスライドさせた途端、鼻孔に入り込む濃密な紙の匂い。図書室特有の静けさが、彼らを出迎えた。
「さて、いるかな」
きょろきょろと辺りを見回す。受付カウンターに座っていないようだから探し回らないといけないな、と考えてから、今は他に誰もいないことを思い出して目的の人物の名を呼んだ。
「ありさ、いるかー?」
反応はすぐにあった。ただし声ではないが。
呼んだ途端、奥の本棚付近で物音が聞こえた。何かが、おそらく多数の本が崩れる音。
また積み上げてたのかと頭を振った英一は、迷いなく音のした方へ向かい、案の定発見した本の山を片付け始める。
やがて山の中から、女生徒の頭が出てきた。自前のミニ机に突っ伏して、目を回しているようだ。積み上げていた本の山が倒壊し、埋もれたのだろう。
「ありさ、無事か?」
「……多分、大丈夫です」
意識を取り戻した女生徒が、英一の声に応えるように頭を持ち上げ、顔を覗かせた。ドーナツ状に積まれた本の中から生首だけが出ている奇妙な光景である。
加えて、辺りに火の玉がおどろおどろしく飛び交っていても違和感がないほどに、彼女の醸し出す雰囲気は暗かった。別に落ち込んでいるわけではなく、彼女は平素からそうなのだ。ただ歩いているだけで──そも、図書室に篭りきりのためその姿を見かけることすら稀有なのだが──生徒達の活気溢れる夏の廊下を黄泉への坂道へ変貌させてしまう、そんな空気を周囲に放射し続けているのだった。落ち着いて、面と向かうと脳内に自然流れ出す怪談話のBGMを消し去ってから冷静にその造作のみを見れば、その白皙の面差しは彫刻めいた美しさを備えているのだが、悲しいかな普段の行状と滲み出る陰鬱なオーラにより男達からの支持は決して高くない。むしろ図書室よりひとたび出でれば、やれ不幸が降りかかるぞと恐れ戦かれる始末である。
さておき、英一たちはそんな彼女に用があった。これでも友人なのである。図書室の主であり、学内一の変人である彼女──小鳥遊ありさとは。
◇
油断できる状況でないことは重々理解していた。
だが、英一たちに出来ることは限られている。昨日の女の追跡は諒子に任せているし、星幽体の相手をしている場合でもない。そんな中で思いついたのは、昏倒する際に見た不思議な映像のことだ。
英一はあれを、女が自分に見せたものだと考えていた。だからその映像の中には、何か女の正体を知る手がかりがあるのではないだろうか、と。
だが政府のデータベースを照会しようにも、あの漠然とした映像では検索するとっかかりが見出せない。一応諒子に見たものの一部始終を説明して手伝ってもらってはいるものの、望み薄であることは現在連絡がないことからもわかる。
だが英一たちには頼りになる伝手があった。それがありさの存在だ。授業中にも関わらず図書室に篭っているこの少女は、その行状のままに本の虫である。西暦二○○○年の再現とはいえ、限られたコロニースペースの有効活用のため、既に電子化されている書籍を紙媒体に写し込む計画については異論も多かった。だが学会で有数の発言力を持つありさの祖父が、そうした反対意見を押さえ込み、強引に成し遂げたらしい。そして、ありさはその祖父の後継者と目されている存在だった。学生の身分にして世の評価を得た論文は数知れず、研究者達と人脈も豊富で、学校側も授業を特に受けさせようとはせずサボタージュを黙認している始末である。
ちなみにありさには兄がおり、こちらは打って変わって機械の鬼である。英一の手錠は彼がしつらえたものだった。
「それで、どのような用向きですか?」
先ほどまでの出来事を忘れたかのように、平然とした様子でありさが問うてきた。英一と葉月は顔を見合わせ、肩を竦める。途端、ありさの白すぎる肌にさっと朱が差した。
「……私の振る舞いにおっしゃりたいことがあるのは承知しています。ですが今は別の用向きがあって来たのでしょう。授業中にここを訪れたことからして火急の話ではないのですか。そちらを優先した方が良いように思えますが」
それに、と一瞬口ごもってから、ありさは言い添える。
「私とて人並みの羞恥心というものはあるのです。あまり先のことには触れないでほしく思います」
そう言われてしまっては、英一たちにも重ねる言葉がない。こほんと咳払いしてから、彼は本題に移ることにした。
「じゃあ、まずはこれから話す内容を先入観を交えず聞いてほしい。詳しいことは後で。といっても、俺も殆ど何もわかってないんだが」
英一はそうして出来るだけ詳しく、自身が見た映像について説明した。荒野に立つ一人の女。遥か地平線に蠢く黒い影。手にしたカード。期待と諦念の入り混じった、どこか惹き付けられる荘重な声。
一通り話し終えてから、英一はありさの反応を窺った。それだけで彼女は察しよく口を開く。
「……夢診断のようなものでしょうか。たとえばその女性が何者なのかを判断するには情報が不足していますが、一つだけヒントのようなものはありました。女性の持っていたカードは22枚だとおっしゃいましたよね?」
「ああ」
女は10枚ずつ区切ってカードを宙に投げ放っていた。10枚投げて、間を置いてまた10枚。その時点で手には2枚のカードだけが残されていた。つまり、合計では22枚。
「22という数は特殊です。2と11という数の組み合わせにしか分割出来ず、簡単に言うと柔軟性がない。汎用性がない。ゆえに、22枚のカードというものは知る限り1つの名称のものしか記録に残されていません」
「それは?」
「タロットです。遥か昔の占術具。1枚1枚に意味を宿し力があるとされたそのカードは、ただ占うだけでなく魔術の拠り代ともなったとか。つまりその女性は、夢の中で何らかの占術ないし魔術を行使していた可能性があります」
◇
英一たちはその後、ありさの助けを借りて図書館で調べ物を続けた。とはいえ成果は芳しくない。タロット、というものは概ね理解した。夢の中の女はもしかしたら占術師か魔術師と呼ばれる存在だったのかもしれない。たとえば昨日の女はその子孫か何かで、英一を昏倒させたのも祖先より受け継いだ魔術の一つだったのかもしれない。
だが、所詮書物では限界があった。対抗手段とされているものを幾つか拾い集めてはみたが、それだけ。道具もないし、魔術自体が夢物語のようなものなのだから効果の程とて実証すべくもない。
「私が手助け出来るのは、おそらくここまでです。書物はそれ自体はただの紙。何の力も持ち得ません。ですが一冊の本たる私としては、その僅かな知識から英一君たちが新たな価値を生み出すことを期待しています」
ありさは最後にそう言って、再び読書の海に沈んでいった。身体壊す前に帰れよと言い置いたが、あの様子では明日まで図書室から出てこないかもしれない。一応、メカ狂いの彼女の兄が、生活に必要なツールを図書室の隅々に配置しているから当面は大丈夫なはずだが。
「さて、帰るか」
気楽な調子でそう言ったものの、英一の気分は重い。このところ、嫌な事件が重なりすぎていた。星幽体の被害は絶えることなく、英一達のような対策部隊は駒が足りていない。諒子は軽い調子で言っていたが、寺啄基地の壊滅がポラリスに与えるダメージは計り知れないし、更にはそれを仕出かした女が自分を狙っているという。こうなると、墓地で見かけた遺産争いまで、あれで一件落着とは言えないのではないかとあらぬ心配をしてしまう。
(疲れてるな、俺)
だがそれも仕方ないのだと思う。
今にして思えば、墓地の前であの女から手を向けられた時──あの絡みつく蛇のような指先を間近にした時、自分が異常なほど狼狽したのは、同時にある予感を抱いたからのような気がするのだ。
それは、暗がりで底のない深淵を覗き込むかのような虚無感。今自分の暮らす世界がどれほど脆いものかを見せ付けられたような、そんな焦燥感。
(そうだ。あれは──)
あの時自分が味わったのは、紛れもなく──絶望だった。そして未だにその残滓が胸の中に澱となって沈んでいる。これでは疲れないほうがおかしいのだ。
「……英一。大丈夫か?」
葉月が心配そうにこちらを覗き込んできた。最近はこういう顔ばかりさせている気がして、英一はひどく申し訳なく思う。本来、もっと力強く真っ直ぐ前を向いているべき子なのに、不安定な自分の存在が少女にそれを許さないのだ。
(こんなんじゃまずいよな)
英一がそう思って両手で頬を張り、作り笑顔を浮かべようとした──その時。
その時、それは唐突に出現した。
目の前の空間、いつのまにか歩いてきていた、校門のちょうど中間地点に。
生徒達が別れの挨拶を交わしている、その夕闇迫る風景の真っ只中に──まるで別の映像が唐突に滑り込んできたかのように。
ほんの瞬きの間に、闇を塗り込めたような黒猫が姿を現していた。
周囲から音が消える。時の流れが緩やかになる。
学生達は誰も黒猫に気付かない。そのしなやかな体を蹴飛ばしそうなった足が──すり抜ける。
幻覚というよりも──まるで白昼夢。そう、夢の世界だ。でなければ、猫があんなに人間みたいに笑うはずがない。
にたり、と。
粘つく笑みを貼り付けた猫は、英一を一瞥すると身を翻した。その姿が校門の柱の影に隠れ──消える。だが英一達が後を追うと、再び数メートル先に現れ、また消える。
黒猫は明らかに彼らを誘導していた。どこへ、はわからない。だが誰のもとへ、はわかった。そして英一は理解していた。アリスが不思議の世界へ迷い込んだ時のように──あの猫についていけば、何かが変わってしまうのだと。後戻りが出来なくなるのだと。
けど、今更だ。
お膳立ては次々と調えられている。基地を丸ごと潰すような相手から逃げおおせることが出来るとも思わない。
(だったら──)
英一は、走り出した。