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第三章-4

 ここはどこだろう。

 病室で目覚めた時、葉月はごく単純にそれだけを考えた。

 思考がひどく簡略化されている。連続して何かを考えるということが出来ない。

 まるで、一旦全てをゼロにした上で、今改めて脳の回路が出来上がったかのようだ。

(なんだ、難しいことを考えられるじゃないか)

 むしろ無駄に小難しいだけで、自分でも何を言っているのかわからないようなことだったが。

 だが、一旦全てをゼロに──というのは思いのほか正しい表現だったのかもしれない。

(そうだ、私は──)

 ああ。思い出されてしまった。積み重ねた過去を全てゼロにしてしまうような、酷い記憶が。

 こんなこと、思い出したくなかったのに。なのに思い出すまではそれがどんなに嫌なことだったかわからないなんて。なんて不便な頭なんだろう。

(英一)

 私は彼に、全てを知られてしまった。いや、違う。そう仕向けたのは私自身だ。私は彼に、そこにいてほしいがために全てを知らせてしまった。

 葉月の心はその罪深さに震える。魂の怯えだった。赤子のように身を屈めても、守ってくれる揺り篭は存在せず、ただ実体のない涙を流すことしか出来ない。

 それに何より、英一が自分の境遇に絶望してしまったら──

 その時、彼がどうなってしまうのかを想像するだけで、目の前が真っ暗になるような気分に陥る。周囲でナース達が騒ぎ始めているようだが、呼びかけに応えを返すことすら出来なかった。彼女たちに対して申し訳ないと思う気持ちがあることも知覚出来るが、そんな自分も含めてどこか別の世界での出来事のように感じられてしまう。

 と。

 突然彼女の思考に割り込む声があった。舌足らずの、幼い少女の声。

 それは──

 ──れん?

 ──うん。わたし。

 葉月はそこで初めて、天井に向いたきりだった視線を動かした。

 どうしてか、頭は殆ど動かせない。そういえば腕も動かせる感じがしない。口や鼻にチューブは通されていないようだけれど──点滴のキャスターがやけにたくさん並んでいることに気付き、ようやく自分の体が相当危険な状態にあったことを自覚する。

 けれど、そんなことよりも葉月の意識はれんを見つけることにあった。どうしてか今ならすぐに少女の居場所がわかるような確信があって、それが先日たくさん血を飲ませた結果『リンク』が張られたままの状態にあるためだと気付く。

(というか、普段かられんが実体化していたのも……)

 それについても、少女が英一の血を飲んでいたというより、英一の中に流れる葉月の血を飲んでいたせいなのだ。してみればれんと葉月の『リンク』も、気付かぬうちに何度も張られていたのだろう。そのことに思い至れなかったのは──少女との距離感を掴みあぐねていたせいだろうか。

 ともあれ、今は少女を探すことが先決である。れんの姿は──

(いた)

 なんのことはない、れんは病室の入り口付近に立っていた。実体化はしていないのだろう、誰にも目を向けられることなく人形のように佇み、葉月を見ている。

 ──どうした?

 ──ようす、みにきたの。

 ──そうか。ありが、

 ──こいがたきの。

 ──え。

 有難う、と告げる前に意表を突かれ、葉月は狼狽えた。

 ──何を言って──

 ──ちがうの?

 ──いや、違うというか違わないというか、その。

 ──ちがわないの?

 ──……違わない。

 ──じゃあ、どうしてそんなに、おびえているの?

 ──え。

 葉月は再び、戸惑った。

 れんの言葉は時折脈絡を外れて、突拍子もなく感じられる。それは少女の未成熟さゆえ、ではあるのだろう。

 だが、だからこそ余計な筋道を作らず、一直線に矢を放ってくる。葉月にはそうも感じられてしまい──ありのままの心を言い当てられたようで、狼狽してしまうのだ。

 ──それは、私が……怖いから。

 ──えいいちが、べつのものになるのが、こわいの?

 ──ああ……そうだと、思う。

 ──でもわたしは、こわくない。

 ──そうなのか?

 ──だってわたしも、えいいちのそばにいるために、べつのものに、なろうとしてるから。

 ──それは、どういう──

 葉月の問いかけは、最後まで形にならなかった。

 視界の隅に映るれんの姿が、次の瞬間、ふ、と掻き消えたからだ。

 だが消える寸前、少女に重なり合うようにして、小さな狐の姿が映っていたことにも葉月は気付いた。

 その意味──れんの意図に気付き、葉月はしばし言葉を失う。

 そうだ、れんは人になろうとしている。変化によって人となった姿を見せることは出来るが、それ以上に、あの子は本当の意味で人になろうとしているんだ。

 それは少女が言ったとおり、英一のそばにいるため。そして言わなかったけれど、多分、葉月のそばにいるためにも、だった。

(れんは、凄いな)

 心からそう思った。

(だが私は、やっぱり、まだ怖いよ)

 葉月はそうして、幼子のように怯え続ける。英一のそばにいたい、いなければならない、いてはいけない、そのどれもが本心で、本当のことだったから、一つに定められず──ぐちゃぐちゃになる。

 心が壊れてしまいそうだった。むしろ、とうに壊れているはずの心がこれほど痛むのだったら、心ごとなくなってしまえと思った──それなのに。

 それなのに、次の瞬間、病室の前の廊下を誰かが物凄い勢いで駆けてくる足音が響いたと思ったら。

「葉月!」

 と、彼が──英一が息を切らせながら、額に汗を浮かばせながら、ナース達をかき分けるようにして、葉月の前に姿を現したのだった。


 ◇

 

「葉月、大丈夫か!」

 英一の顔が間近にあった。彼はベッドに横たわる葉月の両肩を掴もうとして、ナースに制止されて慌てて距離を取る。

 葉月にはそれが不思議だった。どうしてそんなに心配してくれているのだろう? 彼は今も、衝立の隙間からちらちらとこちらの様子を窺っている。少女は呆然とそれを見返すのみだ。

 部屋にばたばたと医師達が入ってきた。英一は隅に追いやられ、葉月の容態のチェックが開始される。ペンライトを向けられ、脈拍を測られるさなか、葉月はずっと上の空だった。医師の質問にも小さく頷きを返す程度で、視線はずっと英一に向けられていた。

 やがてチェックに一旦の結論が出ると、医師達は足早に病室から退出していった。ナース達は二言三言何事かを話し合ってから、子犬のように体を小さくしていた英一の肩を一人ずつぽんと手で叩き、順番に出て行く。

「えっと……」

 後には英一と葉月だけが残された。だが、二人とも言葉が出ない。英一は座っていた丸椅子を股下で持ちながらちょこちょこと移動し、葉月のベッド脇にその身を落ち着かせた。

 それでも──無言。

 英一は何やら言葉に迷っているようだ。一方の葉月は、実のところそういうわけではない。話しづらいとか気まずいとか以前に、終始少女は、ただただ不思議だったのである。

 なんだかそわそわしている感じではある。話の切り出し方を考えているのは誰の目でも明らかだろう。でもそんなことよりも、彼が自分を見る目が、以前とちっとも変わっていないように見えるのは何故なんだろうか──。

「──あのさ」

 そこでようやく、英一が口を開いた。

「葉月って、俺の心を読んだことないよな」

 唐突な確認。

 それともそれは──詰問だったのだろうか? でも英一からは問いただすような空気は感じられない。

 それに、どうであれ自分の答えは決まっていた。

「──ああ。一度もない」

 そう。どれほど血による『リンク』が強固であろうと、葉月は絶対にそれだけはしてこなかった。そこには、個人を尊重した、という理由もある。けれど何よりも、少女がそうしなかった理由は、

(──怖かったから)

 英一の本心を知るのが怖い。嫌われていたら、憎まれていたら。その時は事情を知らないのだから彼がそう思うはずはないのだとわかっていても、想像しただけで身も凍えるような恐怖に襲われる。

 だから、出来るはずもなかったのだ。

 だって、もし嫌われていると知ってしまったら、彼女の世界はそこで終わるのだから。

「だよな。うん、そうだと思ってた」

 少女の内心は知らず、英一は一人でうんうんと頷いていた。

 それから「でさ」と続ける。

「『あの時』、俺、葉月の心を知っちゃったんだよな」

 それは言うまでもなく、葉月が気を失う直前の時。あの時葉月は、裡に宿したありとあらゆる感情を英一に流し込んだ。たがも外れていたはずだ。自分ですら把握しきれていないようなものまで、彼には知られてしまったかもしれない。

 それを思うと、恥ずかしいという気持ちが沸き起こる。けれど少女には、やっぱり、彼にどう思われてしまったのかを恐れる思いの方が強かった。

 それから英一は、また「でさ」と言葉を継ぐ。

「これって不公平だと思ったんだ」

「?」

 どういうことだろう、と葉月は目で問いかけた。

「俺だけが葉月の心を知ってしまっている。これだけ長い間『リンク』し続けてきてるってのにな。それが、なんか落ち着かなくてさ。だから」

 英一は言った。

 

「だから、今から俺の心を読んでくれ」


「──それは」

 だめだ、と葉月は、力の入らない首を必死に横に振ろうとした。

 激しい動揺が胸を突き上げていた。

(だって、だってそれは、とても怖い)

 ずっとずっと恐れてきたのだ。物心ついた頃からずっと。他に比べられるものなどないと言えるほどに。

「葉月」

 でも英一は、そんな少女に言うのだ。

「これはずるいやり方なのかもしれない。でも、俺達の間には色んなことがありすぎた。まだまだ気持ちの整理がついてないことも多いし、まして上手く言葉に出来る自信なんてない。だから、思ったんだ。丸ごと全部を見てもらおうって」

「だが……でも」

「葉月」

「……うう」

「信じてくれ」

 英一は葉月の手を握った。その目が、大丈夫だ、と語りかけてくる。どうしてそんなに迷いがない目が出来るのだろう。醜い感情も、嫌な感情も、全てを知られてしまうかもしれないのに。

 でも。

(ああ、そうなんだ)

 少女は気付いた。彼は自分の嫌な面を葉月に知られることを恐れていない。それは、たとえ知られてしまっても、少女が自分を思ってくれると信じているからだ。

 だったら、自分は。

 そんな英一を、信じる。

 ずっと恐れていた。でもそれは、彼を信じていなかったということ。馬鹿だった。あの幼い子狐の少女よりも、自分はずっと未熟だった。

 彼を信じることの出来ない自分に、意味なんて、ない。

 葉月は英一の手を強く握った。

 英一の目が再び、大丈夫だ、と語りかけてくる。葉月はそれに、かすかに微笑みを浮かべてみせる。

 二人は同時に目を閉じた。

 途端、葉月は自分の中に流れ込んでくるものを知覚した。

 それは彼女にとっては、宝石よりも夢よりも命よりも大切なもの。

 英一の、心。

 それは熱の奔流だった。圧倒的な勢いと、圧倒的な熱。だというのに、身を委ねたくなる心地よさを伴った大きな流れ。

 その時々に現れる彼の感情の欠片が、葉月の胸を打つ。どうしようもないほどに。これさえあれば、何一つ他のものなどいらないと思えるほどに。

 そして──

 

 ◇


「あー、えらい目に遭った……」

 病院のエントランスで、英一は大きく肩で息をついた。

 あの後、二人同時に目を開けて、うまくいったかなと英一が思ったのも束の間、葉月が堪えきれずに泣き出してしまったのだ。

 普段の様子からは考えられないような勢いでわんわんと子供のように泣く葉月に英一が狼狽えていると、外で見張っていたらしきナースの女性陣が乱入してきて彼を袋叩きに。「絶対安静の病人を大泣きさせるとは何事だ」という彼女らの言い分は正しく、咄嗟に言い返せなかったのも悪い方向に向かった。

 加えて、首と腕が動かせない葉月が泣き顔を見られたくないと思ったらしく、「こっちを」「見ないで」「くれ」としゃっくりの合間に途切れ途切れに口にしたことで、女性陣の更なる誤解を受けてしまい、そのまま病室からの退去命令が下る。

 勢いづいたナース達は彼を「女の敵」と弾劾しながらエントランスまで叩き出したわけだが、葉月と直接『リンク』していた彼は、誰よりも、彼女が嬉しさのあまり大泣きしたことを知っていたから、あまり反省しようという気になれない。

 そんな彼の様子に最後に一人残ったナースが背中を思い切り叩いて、「頑張んなさい、女の敵さん」と励ましているのか罵倒しているのかわからないことを言って病院の中に戻っていったのだが、記憶によるとあのナースは諒子の友人だったはずだ。さもありなん、と一人しかつめらしく頷く英一であったが、今後の彼のこの病院での立場は「女の敵」で既に固定されている。

 さておき。

 息を整えた英一は、病院より続く坂道を見下ろした。

 この病院は高台にある。通院者からの評判は悪いが、ここは四方の見晴らしがよい。3つの塔もそれぞれを視界に収めることが出来る。

 デネブ。アルタイル。ベガ。ここから眺める塔は美しく、静かに佇んでいるように見える。だが塔の中には今も彼の母やシアの両親が幽閉されたままだし、展開されているバリアの外で星幽体が飛び交う状況に変わりはない。バリアを越えた星幽体の被害も依然として続いている。

 玲二の推測を信じるならば、こうした状況はアルファが作り出したものだ。一方で、彼の人類に対する苛烈な扱いに難色を示す、ベータという存在もいる。だが、だからといってベータが穏健派というわけではない。先日の一連の出来事でポラリスが蒙った被害を鑑みれば、彼女に過度の期待を寄せるべきではなかった。今回、英一は結果的に彼女の計画に乗った形となったが、その先にある救済は、人類が望むものとは異なる可能性が高い。

 だから、結局は人類がなんとかしていくしかないのだ。規格外の存在同士の思惑の狭間で、その間隙を縫って成長していく。打開していく。呆れるほどに困難な道だ。だがそうした現実をクリアしない限り、塔の解放はありえない。そして、玲二もシアもそれぞれのやり方で目的に向けて進んでいくだろうが、英一にはそれを他人任せにするつもりなど毛頭なかった。

 一週間にも満たない間で、ポラリスには様々なことが起きた。それは、停滞を望んだ都市がとうとうその歪な揺り篭から叩き出されたことの証左なのかもしれない。

 ポラリスは否応なしに動き始めた。この流れを止めることは誰にも出来はしない。

 だから──英一は足を踏み出す。走り始める。ポラリスの転がる速度より、もっと速く、速く、先を目指して。

 恐れる気持ちはなかった。追いつかれる気もしなかった。誰よりも、何よりも先に。自分で、自分の道を歩いていく。

 英一は坂道を駆け下りながら、思い切りジャンプした。

 そうして空に、手を伸ばす。

 昼間の今は何も見えない。だがこの空には本当の北極星ポラリスがある。

 そして彼の手は、いつか必ず、その星を掴む。

 3つの星座の助けを借りることなく、自分自身の手で。


【了】

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