第一章-4
僅かな静寂ののち、口を開いたのは比嘉だった。
「それをこちらが呑むと思うかね?」
「呑まないなら、昨日の基地みたいに順番に叩き潰してあげるだけよ。一人しつこいのがいたけど、その程度だったし」
映像の向こうで、軍服の男が腰を浮かせかけた。英一は後で知った話だが、彼は斎川といい、高田大尉の同期にあたる人物だった。階級も同じで大尉だ。言葉少なに抑えてはいたが、憤懣やる方ないものがあったのだろう。
だがそれを中央の比嘉が制した。
「高田大尉は英雄と呼んで何ら差し支えの無い人材だが、だからといってポラリスの戦力が彼一人だと思われては困る。幸い現在は外敵の脅威は低くてね、大多数の戦力を塔の防衛にあたらせることも出来るのだ。それに、見たところ君は一人だろう。こちら側の君は幻像か何かのようだ。つまり──」
そこで比嘉は言葉を切った。
時を同じくして、諒子が英一たちに目配せを送った。
瞬時の判断だった。
言葉の理解より先に身体が動いたように思う。
英一はその一瞬で自らの『力』を四肢に行き渡らせ、そしてピエレッタとの距離を詰めていた。
(──いける)
拳を繰り出しながら、彼は確信していた。間違いなくこの手はピエレッタを打ち据えるだろうと。
英一の力はひどく単純なものだ。異能と称してまず誰もが思いつくような力。それは、身体能力の強化だ。だが施設の中で彼のそれは極めて例外的なものだった。
発火能力。サイコメトリー。念動力。あるいは葉月のような具現化能力まで含めて、それらは全て他者に干渉する力だ。対して英一の力は自分にしか及ばない。無論、他の人間の力とて、向き先を使用者自身にすることは出来る。だが英一の場合は少し異なる。彼の力は、自身の中でしか発動しないのだ。
それは大きな欠点だった。なぜだろうと思い悩んだ時もある。だが特化されているゆえか、増幅された身体能力は強力無比と言えるものだった。たとえば念動力を自身に使うことで、擬似的に身体能力を上げることは可能だろう。だがそうした相手は英一にまったく及ばなかった。瞬きの間に、彼の拳は相手を打ちのめすことが出来たのだ。
加えて、強化した肉体は星幽体に直接打撃を与えることが出来た。これについても理由は不明だと聞いているが、有用性の高さは語るまでもない。彼は施設を『卒業』して早々、今の仕事を身に帯びた。誰の目にも明らかなほどに、彼は即座に通用する戦力となっていたのである。
そして今、その拳はピエレッタに向けられている。この世の何者がそれを避け得るだろう。到達までは100分の1秒の世界だった。女性相手ではあったが、英一にもまったく躊躇する気はない。
だが。
「──え」
彼の拳は、次の瞬間、ピエレッタの体をすり抜けていた。
文字通りの意味である。ピエレッタは元いた位置のまま、微動だにしていない。ただその体に腕が刺さり、そして背中から突き出ている。傷などどこにもなく、笑みとて微塵も崩れていない。
「……幻影か」
比嘉が低く呟いた。我が意を得たりとばかりにピエレッタが頷く。
「こっちが本体だなんて一言も言ってないもの」
「──ならば!」
斎川大尉が叫ぶとほぼ同時、会議室に銃声が響き渡った。彼が一瞬でホルダーから銃を引き抜き、室内のピエレッタ目掛けて撃ったのだ。強化された英一の感覚でも目を見張るほどの、それは恐るべき熟達された速さだった。
だがピエレッタはその弾丸すらも意に介さなかった。
「こちらが幻影だとは言ったはずよ?」
そう言って、からかうように首を揺らめかせる。何らのダメージを負った様子もない。ただ道化師の笑みだけが変わらずその顔に張り付いていた。斎川の舌打ちが大きく響く。
「どうやら、本体を見つけて拘束するのは難しそうだな」
ややあって、比嘉が息を吐き出しながら言った。現時点で、会議室と英一たちのいる丘という離れた2箇所に幻影を放っているのだ。ピエレッタの能力がどの程度かはわからないが、近くにいることは期待出来なかった。
「なら、話を戻していいかしら?」
「仕方あるまい」
「さっき、市長は戦力の大半を塔の防衛に回すと言ったけど、それは私が認めない。別にそうなったって怖くないけど、それじゃエイイチとの勝負にならないし」
「こちらがそれを受け入れると思うか?」
「受け入れるしかないのよ。貴方達は、私の言うとおりの勝負の場を用意しなければならない。それだけの強制力を私は持っている。──と口で言って通じるとは思ってないから、これからそれを理解してもらうための映像を流してあげるわ」
例によって両ピエレッタが腕を振ると、中空に浮かんでいる互いの中継映像が別のものに切り替わった。丘と会議室と、おそらくは双方で同じ映像が流れているのだろう。
航空機からの映像だろうか。画面には、大きく湾曲する地平と、次々と流れ去っていく雲が映っている。
「これは、現在のものか?」
「いいえ。5年前よ」
ピエレッタの答えに、比嘉がぴくりと眉を動かした。5年前。何かあったかと問われれば──あった。人類史にとって非常に大きな事件が。だがそれがどう関係する?
比嘉らが黙考するそのうちに、画面前方には巨大な構造物が映りこんできていた。
「コロニー・ノア……」
「ご名答」
諒子の呟きに、即座反応するピエレッタ。褒められた形となった諒子だが、まるで喜ぶ様子はない。
当然といえば当然だった。ノアの名と共に人々の頭に浮かぶのは、悪夢でしかないのだから。
原則的に星ないし星座の名をつけられるコロニーの中で、ノアだけは特別に箱舟の名を冠した。それは名の通り、人類の最後の希望として位置づけられたためだ。
最大大陸ユーラシアの中央に構築されたこのコロニーは、当時の世界最大宗派の教主を首長として戴き、人類の政治的な枢軸となっていた。コロニー間のサミットは常にこの地で開催されたし、世界連盟の本部も設置された。人口についても他とは比べるまでもなく、実に人類の残存数の50%近くがこの中に居住していた。
だが、5年前。この地を、悪夢が襲った。その規模、悲惨さに反し、残された記録は非常に少ない。ゆえにこそ人はあの出来事を悪夢と呼ぶ。悪い夢だとみなし、忘れようと努めるのだ。そのようなこと、出来るはずがないと誰もが思いながらも。
そして。
「なによ、これ……」
諒子が震えた声を出した。投影されている映像が、別の段階を迎えていたからだ。
それはたしかに、悪夢というほかなく──
画面に、幾体もの航空機が映りこんだ。おそらくは戦闘機。それらは『こちら』に向けて警告を発している。戻れ、さもなくば攻撃するとのその声は明らかな恐れを孕んでいた。だが、何を恐れるのか。この映像の主はどのような様態をしているのか。そんな疑問が浮かぶが、しかし次の瞬間、
「────」
何者かの肉声が画面上を流れた。張りのある男性の声。途端、周囲の全ての航空機が黒く塗り潰された。一見すると、映像加工の過程を見るかのようだった。とても現実とは思えない。
だが画面には泡のような黒い物体がわだかまり続けており、航空機がそこから抜け出してくる様子もない。どういうことなのかを考えるうちに、また声。
次は地表が塗り潰された。数キロの範囲に渡るだろうそれが、一瞬で色を変えた。ビルもある、民家もある、人々が息をし、歩き、笑い、祈るその地が、一瞬で。
そして、
「ひ……」
気丈な葉月すらもが、怖れに満ちた声を出した。
それは、映像の主が高度を下げたからだ。下げたことによって、その塗り潰された黒がどうなっているかを見てしまったからだった。
その場所は、単に影が落ちたわけではない。光が消えたわけではない。しかし、何もなくなってしまったのでもない。
黒の中には、人がいた。正しくは、人の形を辛うじて留めた者達が。
地上全てにヘドロがまみれたような光景だった。だが人々は声も上げない。苦悩に身を悶えさせているようには見えながら、言葉一つ聞こえない。
映像を見る全ての者は、その理由を直感的に悟っていた。それはつまり、人々がこの一瞬で、人でなくなってしまったことを意味しているのだと。何か別の物にその身を変えられてしまい、言葉すら忘れてしまったのだと。
その間も、映像の主らしき人物の声は幾度も発せられていた。そしてその一声一声の度に、信じ難いほど広い範囲の地表が黒く染められていく。軍隊など何の意味もなかった。全てが全て、なすすべもなくその声の力に屈していく。人類の半数が生活するコロニー・ノアが、無より悲惨な悪夢の中に落ちていく。
画面はとうとう一点を除いて黒一色となっていた。空にすら光が見えない。ただ中央に一つ残されていたのは、宮殿のような様相の大きな建物だった。随所に宗教的な意味を持たせているのだろう、儀礼的な曲線が目立つそれが、宇宙空間の星のように孤独に浮かんでいた。
画面はその中へと進んでいった。正面の扉を抜けて、長い廊下を滑空するように突き進み、また扉を抜けて、抜けて、おそらくは最深部らしき祭壇に辿り着く。
そこには一人の老人の姿があった。豪奢な祭服に身を包んでいる。彼は手にした杖を振り上げ、恐怖に駆られて何かを叫んでいるようだった。
だが映像が近づくにつれ、その顔は恐怖を耐えて克服しようとするものに変わっていった。それは何らかの決意をした人間の顔だった。老人は『こちら』を睨み据えると、未だ震える手で祈りを捧げるように印を切り、何事かを呟いた。
そしてその声を、
「────」
『こちら』の声が上書くように黒く塗り潰し、画面から全ての色が消えた。
◇
誰もが声を出せずにいた。
画面は既に元の中継に戻っている。だが、誰もが流れた映像の衝撃から立ち直れずにいた。
あれは何を意味するのか?
その推測は、実のところ容易だったろう。
だがその先を理解するのを心が拒んでいる。あまつさえ、あれが現実に起きたことだなどとは、到底受け入れられるものではない。
しかし最後の老人。あの顔には誰もが見覚えがあった。当然だ。おそらくは世界で最も有名だった人物なのだから。
ノアの首長、そして世界連合の盟主、アロプロギクスⅢ世。名実ともに、人類のリーダーだったといえる存在だ。
「……ノア消滅の記録は公式には殆ど残されていないとされている。そして突然の天変地異によるものだと伝え広めた。しかし、連合軍の通信ログには当日の様相がある程度記録されていた」
静かに語り始めたのは比嘉だった。平静を保とうと努めているが、眼前で組み合わされた手は震えを押さえるように硬く握られており、額に浮かんだ汗とて拭いきれていない。
「我々は幾度も繰り返し、出来得る限りの入念さでもってそれらを確認した。……その経緯を踏まえた上で言う。それらと先ほどの映像との間には、否定しきれない数多くの一致が見られた」
「……市長は、ご存知だったのですか」
諒子がそう呟いて、絶句した。隣では、斎川大尉が硬く口を引き結んでいる。比嘉以外には、彼だけがノアの最期を知っていたのだろうか。
「私を含めた各コロニーの長は、あれを見て、ノアへの渡航のみならず、上空の通過も禁じた。……まともな人間があれを見れば、正気を失いかねないからな。先ほどのは5年前の映像だが──今でも多少残っているようなのだよ」
何が、とは誰も問わなかった。あの、もはや人ではなくなった黒いものたち。アメーバのように形崩れながらも蠢いていた──
「だが、人類は誰もあれがなんだったのかを知らない。天変地異とみなさざるを得なかったのはそういう理由もある。──ピエレッタ君。君が教えてくれるということで良いのだろうか。あの映像の主は、いったいなんなのだ?」
比嘉の問いに。ピエレッタは背筋を伸ばし、そして厳かに告げた。
「──ただひとりの人間」
束の間、場がしんと静まった。誰もが予想しなかった答え──いや、本当にそうだろうか? あの映像は常にただ一つの視点からの光景を捉えていた。そして、他に味方がいた様子もない。ただ、埒外の話で想像しようとしなかっただけではないのか。
各自がそう自問するさなか、ピエレッタは滔滔と語り始めた。
「彼──私は仮にアルファと呼んでいるのだけど──は、かつてこの世界に生きた魔術師。彼は自らの魔術を駆使し、単独で星幽体となるすべを見出していた。星気体投射、という術だったと当時の文献は記している。だがそれは、『ブレイク・アウェイ』当時の人類のような消極的な理由からではない。彼の目的は『秘密の首領」と呼ばれる上位存在に拝謁すること。一説では天使だともされている彼ら首領達は、高次元に住み悪魔を使役する力を有していたという。そして見事拝謁を叶えたアルファは、自らがその一員となり、我々人類を監視する任を帯びた。
コロニー・ノアの崩壊は、つまりアルファが職務を遂行したことを意味する。当時ノアでは、人間を星幽体へと変換する技術の研究が再燃していた。けれどアルファにとって、上位存在と会うということは、自らの才と努力によって成し遂げられるべきもの。安易に誰もが星幽体となり得る技術は過ちであるとして、バベルの塔のごとく破壊した」
それが今の映像の意味よ、とピエレッタは締めくくり、円卓の正面を見遣った。
目を向けられた比嘉は黙然としていたが、やがて短く言葉を吐き出す。
「荒唐無稽な夢物語だ」
「そうね、そのとおり。でもまだよ。今の話、もっととんでもない話が潜んでいたでしょう?」
「……『ブレイク・アウェイ』のことか?」
「その通り」
ぱち、ぱちとふざけた調子で拍手しながら、ピエレッタは続けた。
「言ったとおり、アルファにとって星幽体は悪なの。便宜的に言うなら、彼が『成った』という星気体のみが認められる、という考え。であれば、かつて国一つが丸ごと星幽体となったというあの事態を放置するはずがない。当然のように罰を与えた。というより、これがアルファが最初に人類に対して行ったこと。──もうわかるでしょ? アルファは空を翔ける一千万の星幽体全ての心を破壊した。さっきの映像を見た後なら、それがアルファにとって不可能ではないことくらいは想像つくと思うけど」
「つ、つまり、それって……」
震える声で何か言いかけたのは諒子だ。だがその先が続かない。彼女の胆力をしても、話のスケールが大きすぎて躊躇してしまう。
だが、実際誰が予想しただろう。この日本の片隅のコロニーを狙うという少女の口から、人類全体を絶望の底に突き落とした歴史的大事件の真相が語られるなどということを。
そして諒子が黙り込んだため、結論を口にしたのはやはりピエレッタとなった。
「そう、つまり──『ブレイク・アウェイ』を引き起こしたのはアルファという一人の魔術師。もうそういうレベルを超えてるから元魔術師と言った方がいいかしら。そして更に言うならば、現在の停滞した世界を作り上げたのも彼の仕業と言って良いのでしょうね」
呆れた話だけどね、と軽く嘆息して、ピエレッタは腕を組む。その仕草からはあまりアルファに対して服従している様子は感じられず、彼女の立ち位置がいよいよもってわからなくさせられる。
その疑問を突いたのは、比嘉だった。
「ピエレッタ君。では、君はその仲間だということか?」
「市長はこのような戯言を信じると言うのですか?」
「いや」
そうではない、と斎川を諌めてから、彼は続けた。
「しかし、彼女がノアを破壊した何者かの映像を所持しているのは事実だ。さすがに当人ということはないだろうが」
「もちろん違うわ。私はピエレッタ、数ある小惑星のうちの1つでしかない。恒星の輝きを持つに至ったのは、判明している限りでは現時点で5人だけ。魔術結社『黄金の夜明け』の設立者の一人、ウィリアム・ウィン・ウェストコット。20世紀最大最後の魔術師、アレイスター・クロウリー。各地のテンプル騎士団と魔術戦争を繰り広げたイギリスの魔術師、ダイアン・フォーチュン。ドイツ人であること以外は全てが謎に包まれた女性、アンナ・シュプレンゲル。カバラの熟達者にして悪魔をも使役したというエジプトの伝説の魔術師、アブラメリン。彼らは上位存在と出会ってから生前の名を捨てているため、アルファがこのうちの誰なのかは知らないけれども」
「では、君は何者なのだね?」
「私はアルファとはまた別の上位存在──ベータとするわね──の協力を得た者よ」
「つまり、あの映像主と同程度の力の持ち主が君のバックにいるということか?」
「そうとも限らない。彼ら5人は、遥か高みの次元でそれぞれに大きな実力差を持っている。ただ問題となるのは、力量差よりも嗜好性。ノアを壊したアルファはひどく攻撃的なのだけど、ベータは現時点では引き続き人類を監視しようとしている」
「ではなぜ塔を狙う?」
「それは私の意志。だから一部の力を借りることしか出来ないし、気まぐれなベータのせいでいつでも使えるというわけでもない。まあ何にせよ、さっきの映像のような化け物の所業は到底不可能ね」
「つまり、あくまでベータは君の協力者であって、ポラリスに積極的に敵対しているわけではないということか」
「そうよ」
「……どのようにして君がベータの協力を取り付けたのかは、答えてくれるのかね」
「それは市長殿、御身が手ずから調べてみるが宜しいかと」
「ふむ」
「代わりに一つ教えておくけれど、彼ら5人は私にもとても扱えるような存在じゃないの。神みたいなものと思ってもらっていいわ」
「それは、君にとってだいぶ不利な情報だと思うが」
まあね、と肩を竦めてから、ピエレッタは嘯いた。
「でも、脅すばかりでは駆け引きとは言えないもの。こんな突拍子もない話、ある程度手の内を晒さないと全部が嘘扱いされてしまうでしょ? そんなの馬鹿のやることよ。──ただ」
ピエレッタは三日月の形に笑んで、
「ただ、コントロールは出来ないけれど、興味を向けさせる程度のことは出来る。アルファはノアを破壊した今、他次元の地球に喧嘩を売っている最中だけれど、その関心を僅かだけでもポラリスに向けさせればどうなるか──」
「つまりは、そういう脅しかね」
「信じる?」
「いや。だが先ほど言ったとおり、君がノアの破壊者達と何らかの繋がりがあることは認めざるを得ないのだろう」
「つまり?」
「──その勝負の詳細を述べたまえ。内容によっては従うこともあるだろう」
◇
その後の市長サイドの紛糾は、想像するに難くないだろう。強硬に不満を訴えたのは、言うまでもなく斎川だ。
だがここで意外なことにピエレッタが妥協案を出した。すなわち、
「それなら、私は二箇所を同時に攻撃することにするわ。私本人と、偽者の私で。そうね、デネブはエイイチのお母さんがいるから、他にしましょう。アルタイルとベガ。この二つを狙う。そしてエイイチとミスター・サイカワは、二つの塔に分かれて守る。だから本当の私がどちらを狙うかを、双方で読み合ってみなさい。……ああもちろん、私は本気で狙う方をあらかじめ決めておく。そこにエイイチがいることを期待するけど、ミスター・サイカワだったとしても我慢するわ。勝負は明確なルールの上でやらないとつまらないもの」
「どこにその保障がある?」
「あら、勝負にこだわらないなら、私はいくらでもポラリスを破壊する手段があるのよ」
と、このような流れで斎川も状況に従うこととなった。実質的な軍のトップの賛意を得たことになるため、後は比嘉の政敵達の存在だが──
こちらも意外なことに、比嘉の「責任は私が取る」との発言で収まってしまった。
「無論、すぐに奴らを説き伏せることは出来ん。今夜、一時的にアルタイルとベガの警備を解除する。私に出来るのはここまでだ」
「OKOK」
「あとは、君たち次第ということだが」
そう言って、比嘉が斎川大尉を、次いで英一達を見る。その冷徹な目は内心で何を思っているのか窺い知れない。妙にあっさりとピエレッタの要求を受け入れたことを鑑みれば、裏では様々な画策をしているのかもしれない。むしろその方が納得出来る。
だが、いずれにせよ英一の腹は決まっていた。ピエレッタの話を全て信じたわけではないが──それでも、彼はあの場にいた誰よりも、ピエレッタを通じてベータという埒外の存在をその身で感じているのだ。結局、彼女がどうして自分にこだわるのかは不明なままだったが、放置すればきっとポラリスは大変な事態となる。いきなり矛を突きつけられたからといって逃げ出すわけにはいかないのだ。
その様子を見てとったのだろう、ピエレッタが拍手をしながら、張りのある声で告げた。
「それでは、今夜22時。ポラリスの命運を賭けた勝負と相成ります。攻めるはこれなる道化師、ピエレッタ。守るは軍の精鋭と一介の学生。……そうね、それぞれの側近やお友達の参戦は認めてあげる。ただし大人数は趣きがないからダメよ」
「承知した」
斎川がそう言って銃を捧げ持ち、空いた手をそれに添えた。これはポラリス軍部の敬礼を意味する。英一も今更ごねるつもりはない。ピエレッタに首肯してみせながら、彼は自分の『お友達』のアテを一つ思い浮かべていた。
◇
それからの数時間は慌しく過ぎていった。比嘉も斎川も諒子も、それぞれの立場からすべきことは多い。昨日の基地襲撃の対応に追われていた矢先にこの追い討ちだ。諒子などは堂々と勤怠の不満をぶちまけていた。
一方で、英一と葉月もあちこちを奔走することとなった。『お友達』を迎えにいくために、思わぬ苦労を強いられたためだ。
「友達の友達は、友達だよな?」
「どうだろう。そのあたりはピエレッタのお目こぼしに期待するしかないな」
まだ刻限まで余裕はあったが、既に彼らは配置についていた。こちらはベガの前である。どちらを守るかについて、斎川に一任した結果だった。
ベガの近辺は、民家が多い。居住地区の一角にあるのだ。対してアルタイルは観光地区にある。これだけみれば、重要度でいえばベガの方が高いように思える。しかしアルタイルの地下には幾層もの工場地区が埋め込まれていた。
居住空間こそ西暦二○○○年を再現しているが、ポラリス全体が当時の状態というわけではない。二○○○年の時点でモデルとした都市は自給自足が成立していなかったのだから、完全に再現してはコロニーの運営は成立しないのだ。ポラリスは、工場や生産ラインをオートメイション化された地下施設に頼っている。軍隊の装備と同様、過去の再現といいつつも限界を示している部分と言える。
アルタイルが破壊されれば、この地下施設にも星幽体がなだれこむだろう。住人は殆どいないため人命被害は少ないが、その場合は誰もこの地区に立ち入れなくなる。そして自動化されているとはいえ、最低限の要員は必要だ。それを欠いた時、実質的にポラリスの生産系は停止する。それは数日のうちに、コロニーそのものの運用に致命的な打撃をもたらすこととなるだろう。
それゆえ斎川はアルタイルの防衛を主張した。ピエレッタはコロニー破壊が目的なのだから、こちらを潰すのが効率的だろう、と。
それが正しいのかは英一にはわからなかった。しかし反論するほどの意思も理由もない。
彼にしてみれば、ピエレッタが自分にこだわる理由を知りたいところではあったが、そんなものでコロニーの命運を左右させるわけにはいかないのだ。あちらで全て決着がついてくれるならと思う心が、ないと言えばやはりそれは嘘になる。
とはいえ、当然ベガに本体が来る可能性もある。彼はおそるおそる隣を見やった。
そこには、れんがいた。大きな犬らしきものの背に寝そべるようにして、心なしかくつろいでいる様子だ。
勿論、れんと共にいる以上犬の方も普通ではない。そもそも犬であるかも疑問だ。
彼──おそらくオスだと思えた──はれんの友人だった。名をハクという。斑駒と書いてハク。ゆえに名のイメージと違い、彼の毛色はマダラを描いている。
ハクの外見において最も特異なのは顔つきの部分だ。なにせ、目が4つある。険しく釣り上がった両目の上に、更に1つずつ。その全てが赤熱しているように真っ赤であり、大変に迫力がある。
加えて彼は、気難しさも尋常ではない。先ほどは友人であるれんの頼みと承諾しながらも、英一達に棲家まで直接迎えに来るよう要求された。そればかりか、現地でも色々と難問を突き付けられた。これまでれんには幾度か友人を紹介してもらったことがあるが、厄介さという意味では随一と言えるだろう。
だがそれだけに、頼もしい存在であるように思えた。ハクが息を吐き出す度に、鞭のような炎が大気を焦がしている。毛は常に逆立ち、時折ぱちぱちと帯電しているかのような光を発している。その背に幼い少女が寝転んでいるさまは奇矯ですらあったが、れん無しにハクを御することが出来るとは思えない。痛し痒し、といったところだろう。
(それにしても──)
英一は葉月を見遣った。今は彼女はここにいるが、戦闘には参加出来ない。刻限少し前に、多量のその血をハクに与える予定だからだ。星幽体相手なら問題ないが、ハクのような存在がピエレッタなどの命ある者を攻撃するには、葉月の血によって受肉させる必要があるのだ。
だが、当の彼女は英一をサポートするかのように真横に佇んでいる。口ではちゃんと退避すると言っていたが、内心では戦いに参加するつもりなのかもしれない。そうした事態はなんとしても避けなければならないが──
「どうした、英一。怖いのか?」
彼の心を知ってか知らずか、からかうように葉月が問いかけてきた。英一はむっとして訊き返す。
「葉月は怖くないのかよ」
「怖いよ」
平然とした顔で返ってきた答えは、しかしその表情とは裏腹なものだった。
「とても怖い。私には守りたいものがあるから。それを失うのは私という個の終焉と同義だから」
少女はそこで英一に向き直り、正面から彼を見つめた。
「わからないか? 私は昨日もその恐怖を味わったばかりだ。英一がいなくなれば、私の世界は終わるのだからな」
笑顔のまま、躊躇いなくそう言い切られてしまう。
(──なら、なんでそんな顔してるんだよ)
英一には葉月の態度が不思議だった。だが訊いてしまうとなぜかまた笑われそうな予感がする。
英一が口を噤んだのを見て、葉月は彼に歩み寄った。正面ではなく、彼の横で足を止める。二人は反対方向を向きながら並んで立った。
「英一は」
葉月が口を開いた。
「今の状況に居心地の悪さを感じているように見える」
「居心地?」
「ああ。なんで自分なんだろう、自分がポラリスの命運を賭けて戦うなんて嘘だろうと、今でも違和感を抱いているみたいだ」
「それは……図星だな」
星幽体と対峙する仕事に就いているとはいえ、全体でみればあくまでそれは小競り合いレベルのものでしかない。いきなりコロニーの未来を両肩に乗せられても、責任の重さを感じる以前に──困惑が先に立ってしまう。
「無理もない話だと思うがな。終始あの女のペースで、あれよあれよという間に舞台を整えられてしまったのだから。そういう意味では、英一はまさに道化師の芝居を見せられている気分になってるんだろう」
「……そう、だな」
反論しようもなかった。
「だから俺は怖いのかもしれない。事態の重さを理解できないまま、いつのまにか芝居がバッドエンドで終わってしまって──その時になってようやく、自分が見ていたのは実は芝居じゃなくて現実だったって気付く、みたいな……そんな風になるのが怖いんだ」
もしそうなったら、きっとピエレッタは、心の底から呆れ果てたとでも言うように高らかに自分を笑い捨てるだろう。それは想像出来るのに、なのに自分は──どうしてもこの戦いに現実感を抱くことが出来ない。
「英一は不器用だからな」
隣で葉月がくすりと笑うと、突然腕を絡めてきた。
「お、おい」
「向日葵、覚えているか?」
「は?」
「自転車で畑に突っ込んだだろう」
「ああ……そんなこともあったな」
忘れられるはずもない。あれは鮮烈な瞬間だった。視界を埋め尽くさんばかりのいっぱいの向日葵の黄色と、隙間から覗く空の青。虫たちの羽音と、葉月の笑い声。
その声が、今の葉月と重なる。この少女といたのだと、実感として気付かされる。
葉月はそれから、二人が共有している過去の出来事について話を続けた。
話といっても、それは一問一答の問答のようなものだった。
たとえば葉月が「子狐」「冬」などと関連する単語を口にすると、英一がそれらを組み合わせて記憶を語るのである。
この幼馴染の選ぶ単語は、意地が悪いほどに迂遠なものばかりだった。しかし英一には、それがいつ、どんな出来事に関係したものなのかがわかった。そしてこの歪な都市の、けれど確かな断片の中に自分がいたことを、はっきりと思い出すことが出来た。
──向日葵たちの圧倒的な生命力と、その隙間から見えた空の高さ。
いつかの墓参り。坂の途中で自転車のブレーキが壊れてしまい、向日葵畑に突っ込んだ。幸い怪我もなく、仰向けにひっくり返ったまま笑い始めた二人をいっぱいの向日葵が見下ろしていた。
──雪の日の夜、懐中電灯で照らした地面の痛いほどの眩しさ。
寒さ厳しい冬の日。コロニーの電力部に不具合があり、居住地の大半が停電になった。施設の裏でこっそり餌を与えていた狐の様子が気になり、夜中に二人で抜け出した。
──むせかえるほどの枯葉のにおいと、足早に行き過ぎていく風。
道を埋め尽くした葉に足をとられ、転んでしまった彼女。笑う英一に憮然とした顔を見せる。直後、一陣の風が吹いて、互いの視界を赤と黄が埋め尽くした。
それからも二人は、コロニーでの風景の欠片を語り続けた。夕立の後の虹。草の合間に覗く霜。苔むした岩。星々を抱く夜空。
英一は、葉月と寄り添いながらそれらの記憶をゆっくりと反芻する。
多くの非効率を抱えてまで、ポラリスの設計者達が作り上げた西暦二○○○年の日本。こうして思い返せば、彼らがどうしてそれほどまでにこの時代にこだわったのか、ほんの少しは英一にもわかるような気がする。
「ちゃんと覚えててくれてるんだな」
「あ、当たり前だろ」
嬉しそうに顔を綻ばした葉月に、英一はそっぽを向きながらそう返した。
「なら、大丈夫だ」
「は?」
「いざという時、ということだ。青臭い話だが──今は無理でも、追い詰められた時にはきっとこの風景の記憶が英一を後押しすると私は信じている。だから、大丈夫だ」
そう言って、葉月は笑った。英一は横目でそんな彼女を眺めてから、目を閉じる。
それから、再び瞼を開いて空を見た。
不思議と落ち着いた気分だった。
「たしかに青臭い話だがな」
「無論、英一の好みに合わせたんだ」
「それはちょっと凹むんだが」