17話
「皆さん、今日も一日お疲れ様でした」
ヨーゼフの挨拶を合図に食堂に集まった従業員が一斉に「お疲れ様でした」と頭を下げる。
目の回るような一日が終わって体はくたくたに疲れきっていたけれど、それ以上の充実感があった。それは皆も同じようで、誰もが「やりとげた」という笑顔でヨーゼフを見ている。
「親父さんがまだ帰られないので、代わりに俺から報告させていただきます。大勢のお客様と皆さんのすばらしい働きのおかげで、なんと、本日は今月でいちばんの売り上げでした。皆さん、本当にお疲れ様でした。それでは、明日もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
途端に食堂はわっとにぎやかになる。思い思いに挨拶を交わす声を聞きながら、わたしはアデーレ達と固く抱きあって互いの健闘をたたえ合った。
帰り支度をする彼女たちに別れを告げると、わたしとエリーゼは足取りも軽く厨房に向かった。休憩中に試食しようと思っていた新作のケーキをまだ味わっていなかったのだ。アルフレート達が来てからというもの喫茶室はすぐに満席になり、その後、アデーレの言葉を借りるなら「クラリッサの目が死ぬ暇もなかった」というくらいに忙しくなったのである。親切なコリンナが譲ってくれた昼食のデザートさえも、厨房の片隅で仕事の合間に頬張るのが精一杯だった。
――ああ、おいしかったなあ。
わたしはうっとりと甘い幸せなひと時を思い出す。
本日のヨーゼフ特製のデザートはシロップをたっぷりと染み込ませたスポンジに花の形のクリームがふんわり乗っていて、花びらの砂糖漬けがかわいらしく飾ってある、春を思わせるようなケーキだった。本来こんなにも心ときめくケーキはゆっくりとお気に入りのお茶を飲みながら、丁寧に一口ずつ食べるべきなのだ。それなのに、口いっぱいに頬張って、お茶で流し込むように食べるなんて、ずいぶんともったいないことをしてしまった。――もちろん、それでも十分においしかったのだけれど。
そんな状況でもエリーゼのケーキを食べる姿は優雅だった。上品さを保ちながらもすばやくフォークを口元に運ぶ姿は厨房の一角とはいえ、まるでそこにお茶会のテーブルがあるように見えて、思わず目をこすってしまったものだ。やはり、エリーゼこそ真の淑女だ。
「ねえ、クラリッサ。やっぱり、おじさまにもスチルを召し上がっていただきたいのだけれど、まだ帰って来られないのかしら。確か、今日は会計院に行かれたのよね?」
エリーゼが気づかわしげに言いながら、紅茶の棚に手を伸ばす。
「ええ。書類を出してくるだけだと言っていたのに、お父様ったらずいぶんと遅いわね。そろそろ帰ってきてもいい頃なのだけれど。ところで、エリーゼ。新作のケーキの名前はもう少し考え直したらどうかしら」
わたしは適当に焼き菓子を選んではお皿に並べていく。
「あら、どうして? スチルってとってもすばらしい名前だと思うわ。いままで聞いたことのない響きの言葉だし、きっと、お客様の興味も引くと思うの」
「でも、新作のケーキはわかりやすい、聞きなれた言葉の方がいいと思うわ」
「そう……かしら」
エリーゼの表情が曇るのを見て、「ねえ、それなら!」と慌ててわたしは言い募る。
「ケーキの試食が終わってから、もう一度、一緒に考えてみない? ほら、ケーキの印象って見るだけではなくて、実際に口にしてみないとわからないでしょう? もしかしたら、他にもっと良い名前が浮かぶかもしれないもの」
「そうね。スチルも素敵だけれど、クラリッサなら、もっと素敵な名前が思いつくかもしれないわね」
エリーゼは納得したようにうなずくと、笑顔で紅茶の缶を手にする。
「ねえ、エリーゼ。せっかくだし、お父様が帰ってくるまでケーキの試食は待ちましょうか」
「あら、クラリッサ。おなかがすいているのではないの?」
「大丈夫よ。お茶でも飲みながらおしゃべりしていたら、時間なんてすぐに経ってしまうわ」
わたしは笑顔でうなずいて見せる。お茶を飲むと言っても、もちろん、このお皿に並べた焼き菓子の一つや二つや三つくらいはつまむつもりだ。
「それなら、おしゃべりのお伴の紅茶はどれにするんだい?」
「そうね。どれがいいかしらって、アルフレート! お仕事は終わったの?」
振り返ると、襟元をくつろげたアルフレートが立っていた。
「やあ、クラリッサ。そんなに心配しなくてもきちんと仕事は終わらせてきたよ。昼間はあまり話せなかったから、お店が終わった頃にもう一度来ようと思っていたんだ」
彼はエリーゼの隣に立つと、彼女の持つ紅茶の缶を取りあげる。
「紅茶を入れるのなら、僕に任せてくれないかい、エリーゼ。今日は新作の紅茶を試しに飲んでもらおうと思って持ってきたんだ。二人とも疲れたろう? 先に食堂に行っておいで」
「まあ、でも、アルフレート様だって、疲れていらっしゃるでしょうに」
「そうよ。アルフレート。あまり無理をすると昼間みたいに死んだ魚のようになるわよ」
ここぞとばかりにわたしは強く言った。
「いいや。僕がたとえどんなに無理をしたって、きみのように愛らしい死んだ魚のようにはならないと思うな。それに、きみの笑顔を見たら元気になったから、大丈夫だよ、クラリッサ。――そうだな。もう少しだけきみの優しさに甘えることが許されるのならば、あとで、もう一度、僕にとっておきの笑顔を見せてくれたら、それでいいよ」
アルフレートはうつろな目つきをしていた昼間とは別人のような笑みを見せる。やはり、ケーキをしっかり食べたことで元気が出たのだろう。その場では食べきれなかった干し葡萄のケーキや適当に選んだ焼き菓子を無理やりお土産に持たせた甲斐もあったのかもしれない。「マルガレーテ」のケーキは偉大だ。
「ありがとう。アルフレート。それなら、わたしもあなたのお言葉に甘えることにしようかしら。お礼にエリーゼと二人であなたのことを精一杯笑って差し上げてよ」
「なんだか別の意味に聞こえるけれど、きみが笑ってくれるのなら何でもいいよ。いや、クラリッサ。今から笑う練習をしなくてもいいから。いや、だから、怖いから。笑っていると言うよりも、無理やりしゃっくりしているみたいに見えるから。いや、エリーゼも真似をしなくていいから。二人そろうと、威嚇されているみたいで怖いから!」
アルフレートに「疲弊した僕の心は闇の中でさまよい続ける蝶の羽のようにはかなくもろくなっているから!」と厨房を追い出されたわたしとエリーゼはおとなしく食堂に向かうことにした。
「まあ、コリンナ! あなたもいてくれるなんて、うれしいわ! あなたも一緒にスチルの試食をしてくれるのね!」
放心したように食堂の椅子に座りこんでいるコリンナの肩をエリーゼが両手でぽんと叩く。
「しないわ。ただ、あんまりにも忙しかったから疲れちゃって。ちょっとだけ休んでから帰ろうと思っていただけ。ああ、もう、そんな顔したって、だめよ、エリーゼ。あんたがなんと言おうと、今日は断固として食べないからね」
「コリンナ。それなら、ケーキの代わりにクッキーはどう? 疲れたときは、少しでもおなかに入れたら元気になるわよ。甘いものならなおさらだわ」
わたしは厨房から持ってきた焼き菓子の大皿をコリンナの目の前にどんと置く。
「ああ、もう、すぐに誘惑するんだから。早く帰ればよかったわ。あんたたちが一緒だと、つい食べすぎちゃうのよね」
コリンナは苦笑すると、諦めたように半分に割れたクッキーを手に取った。
「あら、少しくらい食べすぎてもいいのよ。食べた分だけ、おしゃべりすればいいんだから。だって、話せば話すほど、おなかだってすくじゃない?」
わたしもやや崩れたマドレーヌを手に取る。
「そうね。きっと、淑女のおしゃべりとおいしいお菓子は切っても切り離せない関係にあるんだわ」
エリーゼは干し葡萄を挟んだクッキーを上品に口に運んでいる。
「そういえば、レオン様も似たようなことをおっしゃていたわ。女の子はお菓子と同じだから、お菓子が大好きなんだよ、というようなことを初対面のかわいらしいお客様に馴れ馴れしく話しかけながら、たくさん焼き菓子を買って行かれたわ。もちろん、お客様が迷惑そうにされていたら止めるつもりだったけれどうれしそうにされていたから、そのまま様子を見ていたの」
「お兄様もご一緒だったの?」
「ええ。いつもならカイル様がそれとなくレオン様を遠くに追いやってくださるんだけれど、今日はエリーゼの作った焼き菓子を凝視されていたから、レオン様が何を言おうが、何も耳に入っていらっしゃらないみたいだったわ。本当は全部買ってしまいたいけれど、それは他のお客様に迷惑だから、一つだけにしておくって買っていかれたの」
「まあ、お兄様ったら。きっと私が作ったものだから、お店に出しても良いものかどうか心配なさって、見てくださっていたのね。お兄様って、本当に優しい方だわ」
「そうね。エリーゼ」
笑顔が少し引きつってしまう。エリーゼの作ったお菓子にまで執着を見せるとはどれだけストーカー眼鏡なのだろう。わたしは迷ったあげく、マドレーヌを手に取る。
「お二人とも、職場でも同じような感じなのかしら。確か、王宮勤めでいらっしゃるのよね」
「ええ。ただ、お兄様から王宮のことは口外できないと言われているから、どんなお仕事をされているかは実は私もよく知らないの」
「あのレオン様なら、どこでも楽しく働いていらっしゃるでしょうね。世の中楽しいことばかりと言わんばかりだもの」
「そうね。お兄様もレオン様とご一緒のときは、とても楽しそうですもの。レオン様のような明るくてにぎやかな方がお兄様のお友達でよかったわ」
「ねえ、そういえば、レオン様で思い出したけれど、今年も王城で春の舞踏会があるのよね。今年はレオン王子殿下の成人のお祝いも兼ねてずいぶんと盛大に行われるって聞いたわよ。あんたたちも行くんでしょう?」
マドレーヌを頬張っていたわたしは無言でうなずく。
「ドレスはもう決まったの? 当然、新調するんでしょう?」
コリンナが目を輝かせるとエリーゼは戸惑ったような顔で目を伏せる。
「クラリッサは行くみたいだけれど、私は、まだ、迷っていて」
「あら、クラリッサが行くのなら、当然、エリーゼも行くものだと思っていたわ」
「ほら、去年、舞踏会の夜にお店で開いたパーティーがとても楽しかったでしょう? 今年も皆で一緒にできたら素敵だと思ったの」
「ああ、あれは楽しかったわ。確かに、気疲れする舞踏会よりもこっちのパーティーの方がいいわよね。でも、あんたがそんなこと言い出すなんて、珍しいこともあるものね。去年はクラリッサがこっちのパーティーに出たいって言い張って、エリーゼがお店のために舞踏会に出た方がいいんじゃないかって迷っていたのに」
エリーゼは口元に手を当てて目を見開く。
「そう……だったわね」
「まあ、たまにはいいんじゃない? あんたたちがどんなに仲が良くても、いつも二人一緒でないといけないっていうわけでもないんだし」
エリーゼの顔が強張り、わたしの顔を見てはっとなる。
「まあ、クラリッサ! どうしたの、クラリッサ! まさか、マドレーヌがのどに詰まったの?」
わたしはうなずきながら、涙目で胸元を叩く。
エリーゼが慌てたように立ち上がると、背後からグラスが差しだされた。
「大丈夫だよ、エリーゼ。ここにあるから。――ほら、クラリッサ」
手にしたグラスの中身をわたしは一息に飲みほした。
「……あ、ありがとう。アルフレート」
やはり、いくらおいしいマドレーヌと言ってもあまり頬張るものではない。
「嫌な予感がしたから、念のために水も持ってきていたんだ。焼き菓子は紅茶と一緒に楽しまないと時として命の危険に関わるからね。特にクラリッサは」
「あら、わたしだって普段は気をつけているのよ。今日は偶然よ」
「さあ、エリーゼも座って。おしゃべりのお伴にきみたちにとびっきりの紅茶を入れてあげるから」
アルフレートが手早くカップを並べてくれて、ポットから熱いお茶を注いでくれる。立ち上る甘い香りに思わず目を閉じた。
「良い香り」
初めて口にする紅茶はいつだって、心が踊る。まずは香りを楽しんでから、ゆっくりとカップを口に運んだ。
「名前は『春の蝶々』だよ」
口にすると名前の通り、蝶々が飛びまわるような甘い香りがした。味は軽やかですっきりとしている。
「気に入ってくれたかい?」
「ええ。香りも大好きだし、とてもおいしいわ」
思わず微笑むと、アルフレートもうれしそうに微笑んで、わたしの隣に腰を下ろす。
「きみがそう言ってくれるのが、何よりの褒め言葉だよ。クラリッサ。二人はいかがかな?」
「さすがアルフレート様のお勧めのお茶ですね。名前もかわいらしいし、香りも口当たりも良くて、女性客に好まれると思いますわ」
「私も春らしい、軽やかな紅茶だと思います。このお茶とスチルなら、きっと、春を思わせるような、すばらしい組み合わせになると思いますわ」
「それはよかった。この『春の蝶々』は春のベルヴァルトの命運がかかっていると言っていいくらいに力を入れてきたからね。本店でもこれから主力商品の一つに加えたいし、『マルガレーテ』にも置いてもらおうと考えているんだ。あとで、モランさんとも相談するつもりなんだが、『春の蝶々』にぴったりな焼き菓子も、本店に置いて一緒に売りだすことも検討しているんだよ」
アルフレートが意見を求めるように身を乗り出すと、室内の空気が変わった。
「――『春の蝶々』に合う、焼き菓子ですね」
エリーゼは目を閉じて、紅茶をゆっくりと味わう。
「これは、春そのもののような紅茶ですもの。今ある焼き菓子でもいいと思いますが、せっかくベルヴァルトの本店に置くのなら、新作の焼き菓子も考えた方がいいかもしれませんわ」
「そうね。しかも、その新作のお菓子はベルヴァルトでしか手に入らないという、特別感を出すのはどうかしら」
わたしが両手を合わせると、コリンナが「なるほど」というようにうなずく。
「つまり、『マルガレーテ』では買えないって言うことなのね。それなら、結構日持ちがして、紅茶に合うような、食べやすい、手頃な大きさのものがいいと思うわ」
「それなら、包装もかわいらしくしたら、ちょっとしたお土産にもぴったりなんじゃない? 紅茶と合わせて販売すれば、人気も出るのではないかしら」
わたしが言い添えると、アルフレートは満足げに微笑んだ。
「やっぱり、新作を持ってきてよかった。ここに来ると疲れが吹っ飛ぶよ。こうなったら、早くモランさんに相談したいものだな。そろそろ帰って来られる頃なんだろう?」
「そうね。いくら何でも遅すぎるし、ちょっと表を見て来ようかしら」
「あら、それなら、私も――」
エリーゼと二人で立ち上がったとき、
「やあ、ただいま。遅くなってすまなかったね」
ノックと同時に勢いよく扉が開いて、お父様が笑顔で現れた。
「お帰りなさい! お父様!」
「おじさま!」
「店長!」
「モランさん!」
次々に上がる声にお父様は「そんなに歓迎してもらえるとはうれしいな」と破顔する。
「ずいぶんと会合が長引いてしまってな。店を長く開けてしまったおわびの代わりに、素敵なお客さんを連れて帰ってきたぞ。ん? どうしたんだ、ほら、遠慮してないで、入りなさい」
「はい。失礼します」
お父様に続いて現れた天使のような顔立ちの少年がはにかんだような笑顔を見せる。
「こんばんは。夜分遅くにお邪魔して申し訳ありません。お久しぶりです。皆さん」
深い青の瞳がまっすぐにわたしを認めて笑いかける。
「――マルク!」
マルク・シュレマー。「勿忘草のエチュード」における攻略対象の最後の一人。
彼の異名は「監禁天使」。
「勿忘草のエチュード」が誇る、最強のヤンデレだ。