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「……ねえ、八木。これ、読んだ?」
放課後の教室。
誰もいなくなった空間で、隣の席の女子生徒——白雪詩織が、文庫本を1冊差し出してきた。
黒髪のボブカット、静かな目元、必要最低限のことしか喋らない「クラスの透明人間」。
普段の俺——八木和真とも、挨拶程度の会話しかしたことがない。
彼女が差し出してきたのは、あるライトノベルだった。
タイトルは『余命半年の俺が、死にたがりの少女を救うまで』。
(……待て。なんでそれ?)
俺は心臓が跳ね上がるのを抑えながら、平静を装って答えた。
「ああ、それ……最近ネットで話題のやつだよね。読んではいないけど」
「……そう。すごく、いいよ」
白雪は本をぎゅっと胸に抱きしめた。
その瞳は、普段の無表情からは想像もつかないほど熱を帯びている。
「主人公の言葉がね、すごく温かいの。著者の『YAGI』先生は、きっと人の痛みがわかる、繊細で素敵な人に違いないわ」
……死にそうだ。
照れくささと冷や汗で、脳汁が変な出方をしている。
何を隠そう、その『YAGI』というのは俺のペンネームだ。
半年前、軽い気持ちで投稿サイトに載せた小説がバズり、先月書籍化されたばかりだった。
まさかクラスのぼっち女子が、俺の「ガチ勢」だったとは。
「へ、へえ……そうなんだ。白雪さん、その作家さんのファンなの?」
「ファンなんて生ぬるいものじゃないわ」
白雪はまっすぐに俺を見つめ、淡々とした声で恐ろしいことを言い放った。
「私、YAGI先生になら人生を狂わされてもいいと思ってる。もし目の前に現れたら、その場で求婚するわ」
「きゅ、求婚!?」
「ええ。重い? でも本気よ。毎日サイン本を拝んでから寝ているくらいだもの」
重い。あまりにも重い。
だが、作家としてこれほど冥利に尽きるお言葉があるだろうか。
俺は心の中でガッツポーズをしつつ、「正体は絶対に隠し通そう」と固く誓った。
——そう、あの事故が起きるまでは。
「……あ」
カバンから教科書を取り出そうとした瞬間、ポロリと落ちたものがあった。
来月発売される第2巻の、『著者校正用の校正紙(未発表の原稿)』。
編集部から送られてきて、確認のために持ち歩いていた代物だ。
紙切れはひらひらと舞い、吸い寄せられるように白雪の足元へ落ちた。
「あ、ごめん、白雪それ——」
「……え?」
白雪が拾い上げる。
そこには、印刷された文章と、赤ペンでびっしり書かれた修正指示。
そして何より、ヘッダーにデカデカと印字された文字。
【『余命半年の俺が2』校正原稿/著者:YAGI(八木和真)様】
「………………」
沈黙が教室を支配した。
白雪の動きが完全に止まった。
彼女の視線が、校正紙と、俺の顔を、何度も往復する。
「八木……くん……?」
「ち、違うんだ白雪! これはだな、その、友達に頼まれて印刷したというか——」
「……YAGI先生?」
「違……っ!」
「八木和真……YAGI……」
白雪の瞳から、すーっと光が消えていった。
そして次の瞬間、彼女の顔が一瞬で耳まで真っ赤になった。
「あ」
「あああああーーーーーッッッ!!!???」
本日二人目の大絶叫が放課後の校舎に響き渡った。
白雪は校正紙を抱えたまま、バタバタと後ずさりして壁に激突した。
さっきまでのクールな透明感はどこへやら、呼吸を荒くしてパニックを起こしている。
「嘘……嘘でしょ!? 八木くんが……YAGI先生!? え、じゃあ私、さっき『人生狂わされてもいい』とか『求婚する』とか『サイン本拝んでる』とか……全部……ご本人の前で……!?」
「白雪、落ち着いて! 誰にも言わないから!」
「無理無理無理無理死ぬ死ぬ死ぬ!! 恥ずかしすぎて命が保たない!!」
白雪はその場に崩れ落ち、頭を抱えてゴロゴロと床を転がり始めた。
普段の彼女からは1ミリも想像できない、完全な狂乱状態である。
「白雪、床汚いから立って!」
「立ちたくない! このまま床に沈んで化石になりたい!!」
「そんな特技ないでしょ! ほら、手開いて!」
俺が手を差し出すと、白雪は涙目で俺を見上げてきた。
その顔は真っ赤で、唇はぷるぷると震えている。
「……ほんとに、八木くんがYAGI先生なの……?」
「……うん。黙っててごめん」
白雪は俺の手をギュッと握り締め、立ち上がった。
そして、俯いたまま蚊の泣くような声で呟いた。
「……撤回、しないから」
「え?」
「さっき言ったこと……『求婚する』とか『好き』とか……撤回、しない」
白雪はゆっくり顔を上げると、真っ赤な顔で、でもまっすぐな瞳で俺を見つめた。
「だって……ずっと憧れてた大好きな人が、隣の席の八木くんだったなんて……そんなの、余計に好きになるに決まってるじゃない……バカ……」
「……っ///」
今度は俺の顔が熱くなる番だった。
「……というわけで、八木くん」
白雪は急にキリッとした表情に戻り(顔は赤いままだが)、俺の手を両手で包み込んだ。
「今日から私は、あなたの『専属アシスタント兼、一番近くにいるガチ恋勢』になります。原稿の感想も、甘やかしも、全部第一優先で受け取ってください」
「いや、感想は嬉しいけど甘やかしって——」
「問答無用です。……まずは、今日の執筆のお供に、私の手作りクッキーを食べていただきます」
そう言ってカバンから出されたのは、明らかに『YAGI先生に渡す用』として準備されていたであろう、可愛らしくラッピングされたクッキーだった。
クールなぼっち女子の、重すぎるくらいの愛と推し活。
どうやら俺の執筆活動(と高校生活)は、彼女の熱烈なアプローチによって大はしゃぎな毎日になりそうだ。




