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さよならは言わない ―あなたはいつも、すぐそこにいる― 人はどこから来てどこへ行くのか。なぜ、生まれ変わるのか。  作者: かーすけ


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4/11

最後の電話

声がなくても、伝わるものがある。

愛した人の気配は音の中に宿り、夜明けまで、そっと傍に在り続ける。

【一】


 七月の深夜、中村遥はスマホの画面を見つめていた。

 眠れなかった。

 明日は父の一周忌だった。

 大阪市内のマンション、六畳の寝室。

 エアコンの低い音だけが部屋に満ちていた。

 遥は布団の中で膝を抱えて、暗い天井を見ていた。

 眠ろうとするたびに、あの朝のことを思い出した。


 一年前の七月、遥は夜勤明けだった。

 病院から帰って、シャワーを浴びて、泥のように眠った。

 目が覚めたのは夕方だった。

 スマホを見ると、着信が三件あった。

 母から二件。

 そして——父から一件。

 父の着信は、午前十一時だった。

 遥が眠っていた時間だった。

 折り返そうとしたとき、母から電話が来た。

「お父さんが」と母は言った。

 声が震えていた。

「朝から様子がおかしくて、救急車を呼んだんだけど、もう——」

 父は午後二時に逝った。脳梗塞だった。

 遥が病院に着いたとき、父はもう冷たくなっていた。


 あの着信のことを、遥は一年間考え続けた。

 父は何を言おうとしていたのか。

 体の異変を感じて、娘に電話をかけたのか。

 それとも全然別の、たわいもない用事だったのか。

 もしあのとき電話に出ていたら、何かが変わっていたのか。

 答えは出なかった。出るはずもなかった。

 でも遥はスマホの着信履歴を、一度も消せなかった。

 父の番号はとっくに解約されているのに、その履歴だけは残したままにしていた。

「父」という文字と、「07/14 11:03」という数字を、消すことができなかった。


 看護師として、遥は死を日常的に見ていた。

 患者の最期に立ち会うことも、珍しくなかった。

 だから死というものを、人よりは受け入れていると思っていた。

 でも自分の父の死は、違った。

 職業としての死と、自分の死は、まったく別のものだった。

 それを遥は、この一年間で思い知った。


 時計が零時を過ぎた。

 日付が変わって、七月十四日になった。

 一周忌の当日。

 遥はスマホを手に取った。

 着信履歴を開いた。「父 07/14 11:03」の文字を見た。

 一年間、何百回と見た文字だった。

 そのとき、スマホが震えた。


【二】


 着信だった。

 深夜零時を過ぎたばかりの時間に。

 遥は画面を見た。

 固まった。

 表示されている番号を、遥は知っていた。

 一年間、着信履歴の中で見続けてきた番号だった。

 解約されているはずの、父の携帯電話の番号が、画面に表示されていた。

 心臓が、大きく打った。

 手が震えた。

 夢か、と思った。

 眠れなかったのに、いつの間にか眠っていて、夢を見ているのか。

 でも違った。

 エアコンの風が肌に触れていた。

 スマホの画面の光が目に刺さっていた。

 これは現実だった。


 着信は鳴り続けていた。

 遥は、出た。

 スマホを耳に当てた。

「——」

 声はなかった。

 でも、何かが聞こえた。


 最初は、ほとんど聞き取れなかった。

 遠い、かすかな音だった。

 ノイズのような、でもノイズとは違う、何か温かみのある音が、遠くから届いていた。

 遥はスマホを強く耳に押しつけた。息を止めて、聞いた。

 聞こえた。

 何かを炒める音だった。

 フライパンの上で、油が跳ねる音。

 菜箸でかき混ぜる音。

 火の強さを調整するときの、ガスコンロのつまみを回す音。

 遥の胸が、締め付けられた。

 父の台所の音だった。


 父は料理が好きだった。

 休日の朝、決まって台所に立った。

 母が寝ていても、父は早起きして、一人で朝ごはんを作った。

 卵焼きと、味噌汁と、ごはん。

 たまに気が向くと、炒め物を作った。

 菜箸でかき混ぜながら、鼻歌を歌っていた。

 その音が、今、スマホの向こうから聞こえていた。


【三】


 遥は布団の上に座り直した。

 スマホを両手で持って、耳に当てたまま、じっと聞いた。

 炒め物の音が続いていた。

 油の跳ねる音、菜箸の音、時々ガスの音。

 それから——テレビの音が聞こえてきた。

 父がよく見ていた、夜のニュースの音だった。

 アナウンサーの声が、遠くでかすかに流れていた。

 内容は聞き取れない。

 でもその音の質が、遥には懐かしかった。

 実家のリビングで、テレビがついていた夜の音。


 遥は目を閉じた。

 実家の台所が、浮かんだ。

 白いタイルの台所。

 窓の外に小さな庭があって、父が丹精した紫陽花が植えてあった。

 父はエプロンをつけて台所に立つのを嫌がって、いつも普段着のまま料理した。

 だからシャツに油が跳ねて、母によく叱られていた。

 叱られながら、父は笑っていた。

「ええやないか、洗えば落ちる」

 そう言いながら、皿を並べた。

 その声が、今は聞こえない。

 でも音が、あの台所の音が、スマホの向こうから届いていた。


 遥の目から、涙が出た。

 一年間、泣けなかった。

 父が逝った日も、葬儀の日も、四十九日も、遥は泣かなかった。

 泣き方がわからなかった。

 悲しいはずなのに、体の芯が冷えたままで、涙が出なかった。

 看護師として、感情を制御する習慣が染みついていたのかもしれない。

 それとも——電話に出られなかったという事実が、遥の感情を凍らせていたのかもしれなかった。

 泣く資格がない、とどこかで思っていた。

 最後の電話に出なかった自分が、泣いてはいけないと。

 でも今、台所の音を聞きながら、遥の涙は止まらなかった。

 ごめん、と思った。

 出られなくて、ごめん。

 最後に声を聞けなくて、ごめん。

 もっと早く帰ればよかった。

 もっとたくさん電話すればよかった。

 父の料理を、もう一度食べたかった。

 大したものじゃなくていい。あの卵焼きを、もう一度——。

 炒め物の音が、少し大きくなった気がした。

 まるで聞こえているよ、と言うように。


 どのくらい経ったか、わからなかった。

 テレビの音が、変わった。

 ニュースが終わって、別の番組になったようだった。

 父が好きだったバラエティ番組の、笑い声のような音が、遠くでかすかに聞こえた。

 父はよく一人で笑っていた。

 テレビを見ながら、声を出して笑っていた。

 母が「そんなに面白い?」と言って、父が「面白いで、これ」と返した。

 そういう夜が、遥の育った家には、たくさんあった。

 遥はスマホを耳に当てたまま、それを聞いていた。

 泣きながら、でも不思議と、温かかった。

 父は今もあの台所にいる。

 あの家の夜の中にいる。

 遥が電話に出られなかったあの朝のことを、怒っていない。

 責めていない。ただ、いつもと同じように、台所に立って、テレビを見て、笑っている。

 そんな気がした。

 証明はできない。

 でも確かに、そう感じた。


【四】


 夜が、少しずつ明けていった。

 窓の外が、暗い藍色から、薄い灰色に変わっていった。

 スマホの向こうの音が、少しずつ遠くなっていった。

 炒め物の音も、テレビの音も、父がいた夜の台所の音も、潮が引くように静かに遠ざかっていった。

 遥はそれを、引き止めなかった。

 引き止めることはできないとわかっていたし、引き止めてはいけないとも思った。


 音が完全に消えると、スマホから微かなノイズだけが聞こえた。

 それもやがて、止まった。

 通話が、切れた。

 遥はスマホを下ろした。

 画面を見た。通話時間が表示されていた。

 三時間四十二分。

 夜明けまで、父はそこにいた。


 遥はしばらく、スマホを手に持ったまま座っていた。

 涙は止まっていた。

 頬が乾いて、少しだけひりひりした。

 窓の外が、白んでいた。

 七月の夜明けは早い。

 空の端に、うすいオレンジ色が滲み始めていた。


 遥は着信履歴を開いた。

 一番上に、今夜の着信があった。「父 07/14 00:07」。

 その下に、一年前の着信があった。「父 07/14 11:03」。

 同じ日付の、父からの着信が、二つ並んでいた。

 遥は画面を見つめた。

 それから、ゆっくりと息を吸った。


 朝の七時、遥は母に電話をかけた。

「遥? どうしたん、こんな朝早く」

 母の声は、少し心配そうだった。

「なんでもない」と遥は言った。

「会いたくなって。今日、行っていい?」

 母が黙った。一秒か二秒、黙った。

「——来なさい」

 それだけだった。

 でもその声の中に、一年分のものが全部入っていた。


 実家へ向かう電車の中で、遥は窓の外を見ていた。

 七月の朝の光が、街を照らしていた。

 父の台所が、浮かんだ。

 白いタイル、紫陽花の庭、普段着のまま菜箸を持つ父の後ろ姿。

 今日、一周忌が終わったら、母と二人で父の料理の話をしようと思った。

 父が作ったあの卵焼きの味を、二人で話そうと思った。

 父のことを、声に出して話せる気がした。

 初めて、そう思えた。

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