第4話:ただのファイアボールだよ。
北の沼地は、腐った水と血の匂いがした。
水面からそびえ立つ五つの首。その足元の岩場に、《銀狼の牙》は追い詰められていた。
バズは脇腹を裂かれて倒れ、ディランは欠けた剣を構えたまま膝をついている。その前で、マルコが叫んだ。
「フレイムランス!」
炎の槍が首の一つを吹き飛ばす。だが、切り口が泡立ち、二つの首になって生えてきた。
「そんな……撃てば撃つほど増える……!」
六つになった首が、一斉に口を開ける。
「――ファイアボール」
ファイアボール
岩場の前に、炎の壁がせり上がった。叩きつけられた毒液が、じゅうっと音を立てて蒸発する。
ディランが、弾かれたように顔を上げた。
「エイト……? なんで、お前が」
「救援依頼だ。カノン、バズを頼む」
「はい!」
バズの傷は深い。血が止まらなければ、癒やしが追いつかない。
「痛むぞ。歯を食いしばれ」
ファイアボール
「ぎっ……あああっ!」
焦げる匂いと一緒に、傷口が封じられる。俺にできるのはここまでだ。火は焼くことはできても、治すことはできない。
すかさずカノンの癒やしの光が、爛れた肌を包み込んだ。
俺はヒュドラに向き直る。
切ったら増える。なら、増える前に切り口を焼いてしまえばいい。俺のいた国では、大昔からそう語られている。
ただし――六つ同時に。一つでも残せば、そこからまた増える。
必要なのは、長い命令だ。
炎の壁に十二、止血に七。残りのMPは31。そのうち二十――ふりがなの欄に書ける、上限いっぱいの文字数を、この一発に注ぎ込む。
「……俺たちの前で、何をする気だ。ファイアボールしか使えねえくせに」
背後でディランが呻くように言った。
「ああ。ファイアボールだよ」
俺は右手を、まっすぐヒュドラへ向けた。
「――ファイアボール」
ファイアボール
二十文字。残りのMPは、11。
ふりがなの欄いっぱい――二十文字の命令には、反動が来る。
視界が白く飛んだ。体中の血を抜かれたように、膝から力が消える。
その代わりに――手のひらから、太陽が生まれた。
火の玉は六つに裂け、それぞれが白熱の刃となって首の付け根へ走る。切り落とし、そのまま断面を焼いて封じる。
六つの首が、同時に沼へ落ちた。
もう、何も生えてこなかった。
ヒュドラは首で生きる魔物だ。再生できない首をすべて失えば、胴体も長くはもたない。
巨体がゆっくりと傾き、泥水を跳ね上げて沈んでいく。
静寂の中で、マルコの乾いた声が聞こえた。
「……今の、ファイアボールだよな。僕も同じ呪文を知っている。一言一句、同じだった」
その声は、震えていた。
「なのに……なんで、あんなことが起きるんだ」
俺は答えず、よろけた。カノンが駆け寄って、肩を支えてくれる。
ディランは――欠けた剣を握りしめたまま、一言も発しなかった。
◇
翌日のギルドは、救援の話でもちきりだった。
報告を終えて受付を離れた俺たちの前に、包帯だらけのディランが立ちはだかった。
「……エイト。戻ってこい」
酒場のざわめきが、すっと引いた。四日前と同じ顔ぶれが、今度は息を潜めてこちらを見ている。
「取り分は倍にしてやる。装備も返す。カノンも一緒に――」
「断る」
「……なんだと?」
「回復役の代わりはいくらでもいるんだろ? 火魔法使いも、もういるじゃないか」
俺は、ディランの後ろで俯くマルコに目をやった。
ディランの顔が、赤くなり、それから青くなった。
「……一つだけ、よろしいですか」
カノンが一歩前に出た。その声は、酒場の奥までよく通った。
「《銀狼の牙》は三年間、冬の野営で一人も凍傷者を出しませんでした。それは、エイトさんの火が私たちを温めていたからです」
ざわ、と周りが揺れる。
「夜襲を一度も受けなかったのも、野営地に獣が入ってこなかったのも、ランタンの先でいつも魔物を先に見つけられたのも。全部、エイトさんのファイアボールです」
「そ、そんな話、信じられるか! ファイアボールはファイアボールだろうが!」
「――本当だよ」
口を挟んだのは、マルコだった。
「僕が点けた焚き火じゃ、誰も温まらなかった。狼も防げなかった。……昨日、あの人は僕と同じ呪文で、ヒュドラの首を六つ同時に落とした。王都の学院の誰にも、あんな真似はできない」
酒場が、完全に静まり返った。
その沈黙を破ったのは、奥から出てきたギルドマスターだった。
「《銀狼の牙》。度重なる依頼失敗、加えて救援を要する事態を招いた。本日付けでDランクへの降格とする」
「なっ……!」
「まだある」
ギルドマスターは、一枚の書類をテーブルに置いた。
「ギルドの報酬記録を確認した。この一年、エイトの取り分だけが、他の三人の半分になっている。追放の際に没収した魔法鞄も、購入資金はエイトの取り分から出ていた」
ディランの顔から、血の気が引いた。
「差額の全額と、魔法鞄の返還を命じる。期限は十日だ。払えなければ、パーティー資格を停止する」
「それから、エイトとカノン。オーガ討伐、およびヒュドラ討伐と救援の功績を認め、二名をBランクへ昇格とする」
一拍置いて、酒場が歓声に沸いた。
四日前に俺を笑っていた連中が、今はジョッキを掲げている。その変わり身の早さには苦笑しか出ない。
立ち去ろうとした俺の背中に、しぼり出すような声が届いた。
「……何なんだ。何なんだよ、お前のファイアボールは」
俺は振り返らずに答えた。
「ただのファイアボールだよ。――ふりがなが違うだけの、な」
◇
ギルドを出ようとした、そのときだった。
重い扉が、外から勢いよく開いた。
立っていたのは、紅い鎧を着込んだ長身の女騎士だった。肩には、女の細腕では持ち上がりそうもない戦槌を担いでいる。
彼女は酒場をぐるりと見回して――俺を指差した。
「あんたが、ヒュドラをファイアボール一発で落としたっていう魔法使い?」
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
エイトとカノンの物語は、ここで一区切りです。
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