第5話 アームズラボと、黒猫ちゃんねる誕生
俺は南大沢支部の入口で少し立ち止まった。
特別区の朝は独特の空気が漂っていた。装備屋、回復薬の専門店、クランの事務所——ダンジョン関連の施設と普通の商店が混在していて、歩いているのも一般市民と探索者が半々くらいだ。ダンジョンが出現してから十年。人間というのは、どんな環境にも慣れるものらしい。
「まず計画書を出してから、装備を揃えに行く」
「なぁ~」とイゾルデが鳴いた。
「いくら認識阻害魔法を使っているとはいえ、大きい声は出さないでくれよ」
「分かってるにゃ」
*
支部のロビーは、本部より活気があった。
探索者が次々と出入りして、受付窓口には常に数人が並んでいる。壁には南大沢ダンジョンの階層マップが貼り出されていて、最新の探索情報が書き込まれていた。現在の最深到達記録は二十九層。その下には赤字で「未踏域」と記されている。
俺は計画書の用紙を取って、記入台に向かった。
氏名、免許番号、潜入予定階層、帰還予定時刻、同行メンバー。同行メンバーの欄は空白にした。一人で潜る予定だ。
記入を終えて、受付窓口に並んだ。数人並んでいるだけだったのですぐに順番が来た。
「計画書です」
「はい、確認しますね」
受付の女性が計画書に目を通した。二十五歳くらいだろうか。仕事の動作が無駄なく手際がいい。それに人の目を引きつける美人さんだ。
「神楽凪さん、6級取りたてですね。初潜入ですか?」
「そうです」
「潜入予定が五層までになってますが、単独ですか」
「はい。何か問題がありますか?」
受付の女性が少し眉を上げた。心配しているのか、呆れているのか、判断が難しい表情だ。
「6級の単独潜入は規則上は問題ありませんが、初潜入で単独は推奨していません。パーティーを組まれることをお勧めしますが」
「大丈夫です。準備はしてきてますので」
「……そうですか」と女性は言って、計画書にスタンプを押した。「受理しました。お気をつけて。帰還時にも必ずこちらで報告をお願いします」
「分かりました。ありがとうございます」
窓口を離れながら、俺は受付の女性の名札を確認した。
坂崎里奈。
仕事が早くて、探索者への気配りも自然だった。次も、この人の窓口に来よう——そんなことを思った。
*
アームズラボは、支部から歩いて三分の場所にあった。
外観は古びた倉庫を改装したような建物で、看板には「ARMS LAB」とだけ書いてある。派手さはないが、探索者の間では評判の店だと、事前に調べてあった。
扉を開けると、金属と油の混じった独特の匂いがした。
店内は思ったより広い。壁一面に武器と防具が並んでいて、奥のカウンターには作業台が見える。天井から各種装備がぶら下がっていて、整理されているのかいないのか、よく分からない配置だ。
先客はいないようだ。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から声がした。
出てきたのは、五十代くらいの男だ。がっしりした体格で、作業着の袖をまくっている。短く刈った白髪と、深い皺。しかし目だけが、妙に若々しく鋭い。
「倉田さんですか」
「そうだが」と男——倉田は言って、俺を上から下まで見た。「兄ちゃん、6級か。取り立てか?」
「今日、免許取ってきました」
「ほう」と倉田は言って、少し目を細めた。「6級にしては目つきが違うな」
俺は内心で苦笑した。この人、目が利く。
「よく言われます」と俺は軽く流した。「装備を一式揃えたくて来ました。南大沢に潜る予定なので」
「予算は」
「上限は設けてないです。必要なものを必要なだけ」
倉田の眉が、少し上がった。
「6級が上限なし、か」
「腕輪型の魔道具をつけてるので、測定値より実力はあります。それに合わせた装備が欲しい」
倉田がしばらく俺を見た。判断している目だ。
「……腕輪を外してみせてくれるか」
「それはできないんですよ」と言った。「事情があって」
「事情、ね」と倉田は言って、少し間を置いた。「まあ、いい。客の事情に首を突っ込むのは俺の流儀じゃない。何が必要か、言ってみろ」
俺はあらかじめ考えてきたリストを頭の中で確認した。
「まず基本の防護装備。動きを妨げない軽量のやつが欲しい。それから武器は、近接と遠距離の両方。あとドローンと、資源を持ち帰るための収納ポーチ。深層用の中継デバイスも」
「深層用」と倉田が繰り返した。「南大沢の現最深記録は二十九層だぞ」
「知ってます」
倉田がまた俺を見た。さっきより少し長く。
「……面白い客が来た」と倉田は静かに言って、立ち上がった。「ついてこい」
*
一時間後、俺はカウンターの前に並んだ装備を眺めていた。
倉田が次々とカウンターに商品を並べながら、一つずつ説明した。
「魔鉄繊維のアーマー。軽くて魔力を吸収する。深層でも動きやすい」
「それで行きます」
「白骨石のプロテクター。ダンジョン産の素材で衝撃をほぼ無効化する。重い」
「慣れます」
「魔導ブレード。魔力を刃に乗せられる。高レベルのモンスターにも入る」と倉田は刃を軽く光に翳した。「こいつは良い仕事をするぞ」
「ドローンと通信中継と収納ポーチも欲しいんですが」
倉田がこちらを見た。
「全部か」
「全部です」
「……ずいぶん用意がいいな」と倉田は言って、奥に引っ込んだ。しばらくして、八軸ドローンと魔力波ブリッジデバイスと大容量の収納ポーチを持って戻ってきた。「全部で」と言って、金額を提示した。
俺は数字を確認して、「分かりました」と即答した。
倉田が少し黙った。
「……値切らないのか」
「適正価格でしょ、これ。むしろ良心的だと思います」
「調べてきたな」
「一応」
倉田が低く笑った。初めて表情が緩んだ瞬間だった。
「気に入った。また来い」
「お世話になります」
装備を収納ポーチにまとめながら、俺はふと聞いてみた。
「倉田さん、これまでに特級の探索者の装備も手がけたことありますか」
倉田の手が、一瞬だけ止まった。
「……なんで」
「いや、この店の腕を信用したくて。確認のためです」
「三人いる」と倉田は言った。それ以上は語らなかった。
三人。特級探索者の装備を三人分。それだけで、この店の実力と信頼の重さが分かった。
「ありがとうございます」
俺は装備を受け取り、アームズラボを後にした。
*
その日の夜、俺は自室で装備を確認しながら、ずっと考えていたことを整理していた。
問題は、稼ぎ方だ。
6級のまま南大沢の五層までで稼げる資源には、限界がある。免許のランクを上げれば潜れる階層は増えるが、レベルを測定されて正体がバレるリスクがある。
かといって、このままじゃ早期引退なんて夢のまた夢だ。
じゃあどうする。
俺は天井を見ながら、頭を回した。
免許の縛りは、南大沢のダンジョンに適用される。しかし——自宅の蔵に出現した深淵ダンジョンは、当局に届け出ていない。つまり管理下にない。あそこなら、無許可で何層でも潜れる。
そして、前人未到の階層に潜れば、誰も見たことのない資源が手に入る。協会では売れないものも出てくるだろう。そういうものを扱う、海外のオークションハウスがある。アビスゲート——本拠地はジュネーブで、匿名で取引できるプラットフォームだ。彰彦さんのルートと合わせて使えばいい。
あとは——その様子を、配信すればいい。
「イゾルデ」
「なぁ~」
「お前、配信に出る気はあるか」
イゾルデが俺の膝の上で顔を上げた。金色の目が、じっと俺を見た。
「配信にゃ?」
「ダンジョンの攻略配信だ。ただし、正体は隠す。俺は仮面をつける。お前は——獣人の姿になってもらえるか」
イゾルデが少し考えるような間を置いた。
「獣人形態で出るにゃ?」
「そう。視聴者にはコスプレだと思わせる。俺たちの素性を知られたくないからな」
「……面白そうにゃ」とイゾルデが言って、尻尾をぴんと立てた。「やるにゃ」
「即答かよ」
「ボク、目立つの好きにゃ」
そういう性格だったのか、と思いながら、俺は苦笑した。
「じゃあ、一つ確認させてくれ。獣人の姿のとき、認識阻害は——」
「解除するにゃ」とイゾルデは言った。「配信中は普通に見えるようにするにゃ。ただし、ダンジョンの中だけにゃ。外では猫に戻るにゃ」
「それで頼む」
俺はスマホを取り出して、配信アプリのアカウント作成画面を開いた。
チャンネル名は、すでに決まっていた。
黒猫ちゃんねる。
アカウントを作成して、チャンネルの説明文を入力した。『謎の魔神と獣人が、誰も見たことのない階層に挑む』。それだけでいい。
「仮面は」とイゾルデが覗き込みながら言った。
「明日、用意する。黒猫の面に赤い縁取りのやつ。服も黒基調で揃える」
「似合いそうにゃ」
「お世辞はいらない」
「お世辞じゃないにゃ」とイゾルデは言って、また尻尾をぴんと立てた。「凪、楽しそうにゃ」
俺は少し黙った。
楽しそう、か。
言われてみると、確かにそうかもしれない。ダンジョンに潜るのは面白かった。配信という形で誰かに見せることを考えると、さらにその面白さが増す気がする。田所に詰められていた三年間には、こういう感覚が完全に消えていた。
「まあな。久しぶりに、やりたいことが見つかった気がする」
「なぁ~」とイゾルデが鳴いた。
どこか、満足そうな声だった。
*
翌日、仮面と衣装を揃えた。
黒猫の意匠を模した漆黒の面。額から頬にかけて、赤い縁取りと渦巻き模様が描かれている。衣装は黒を基調とした軽装で、袖と裾に赤い縁取りが入っている。動きやすさを優先しつつ、どこか中二病的な雰囲気が漂うデザインだ。我ながら悪くない。
鏡の前で仮面をつけてみた。
十七歳の外見が完全に隠れた。年齢も素性も分からない、ただの「謎の人物」になった。
「どうにゃ」とイゾルデが聞いた。
「悪くない」
「ボクも見せるにゃ」
イゾルデが、ゆっくりと姿を変えた。
黒猫の輪郭が揺らいで、人の形へと変わっていく。気づけば、そこには一人の女性が立っていた。
長い黒髪。スラリとした長身。頭の上には、サーバルキャットのような少し大きめの猫耳が二本、まっすぐに立っている。腰の後ろから、長い黒い尻尾が伸びていた。顔立ちは整っていて、金色の瞳はそのままだ。探索者の軽装を身につけていて、全体的な印象は——かなり、目を引く。
正直に言ってセクシーなお姉さんだ——
「……思ってたより本格的だな」
「ボク、元々こっちが本来の姿にゃ」とイゾルデは言って、猫耳をぴくりと動かした。「どうにゃ」
「視聴者、絶対沸くと思う」
「にゃははっ」とイゾルデが笑った。「それは楽しみにゃ」
俺は仮面を外して、スマホを開いた。
黒猫ちゃんねる、フォロワー数ゼロ。
ここから始める。
稼いで、早期引退する。そのための第一歩だ。
「よし。明日から始めよう」
「なぁ~」
イゾルデの尻尾が、大きく一度揺れた。
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