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第3話 若返りと、妹の質問攻め

 蔵から母屋に戻り、玄関の姿見を通り過ぎようとして——止まった。


 見知らぬ少年が映っていた。


 黒髪。癖のない、真っ直ぐな黒。切れ長の目が、こちらをまっすぐ見ている。輪郭はシャープで、余分な肉がどこにもない。どう見ても十代の前半だ。慌てて自分の手を見た。細い。白い。三十五年間見てきた手ではない。


 ただ——目だけが、妙に落ち着いていた。


 十七歳の外見には似合わない、何かを見透かすような静けさが目の奥にある。三十五年分の疲れと、今夜の経験が、そこにだけ残っているようだった。


 俺だった。


「はぁ~」


 続いて問題が発生。台所の明かりが白々と漏れている。


 嫌な予感がした。

 引き戸を開けると、柚葉がいた。

 二十五歳の妹は、エプロンをつけたままテーブルに座って、スマホを見ていた。早朝の台所に、コーヒーの匂いが漂っている。俺が蔵に向かったのは夜明け前だ。まさか柚葉が来ているとは思っていなかった。

 顔を上げた柚葉が、俺を見た。

 三秒、固まった。


「……だれ」低く、警戒に満ちた声。


 無理もない。実家の台所に、見知らぬ十七歳の少年が立っているのだ。通報されないだけマシかもしれない。


「俺だよ。凪。……信じられないのは分かる。だが、まずは座ってくれ。色々あって、順番に説明する」


 柚葉がスマホを置いた。立ち上がった。俺に近づいた。顔を覗き込んだ。近い。研究者の目だ。感情より先に観察が動く、柚葉の癖。


「……お兄ちゃん?」

「そう、本人。生まれつきの肩の傷、確認してくれたら分かる」


 柚葉が俺の左肩に触れた。傷の位置を確かめて、強張っていた顔がほんの少しだけ緩んだ。


「……本物だ」

「だから言ったじゃないか」

「だって顔が全然違うんだもん!」


 その叫びは、ごもっともだと思う。俺自身、鏡を見るたびに「誰だこいつ」と思っているんだから。


「まあ、コーヒーもらいながら話す。俺も三十分前まで何が起きたか分かってなかったから、一緒に整理させてくれ」


 柚葉がイゾルデを見た。肩の上の黒猫が「なぁ~」と鳴いた。


「……なんでそこに猫がいるの」

「それも含めて、今から話す」


 柚葉は俺の顔を、右から、左から、下から、もう一度まじまじと見た。信じたいけれど確認せずにはいられない、という顔だ。こういうとき、柚葉は昔から変わらない。


「コーヒー、淹れ直す」

「助かる」


 柚葉がマグカップを二つ出した。豆を挽き始めながら、「猫は?」と聞いた。


「この子はいらない」

「なぁ~」とイゾルデが鳴いた。テーブルの端に陣取って、柚葉をじっと見ている。異議申立て中らしかった。


  *


 一時間かけて、俺は全部話した。

 蔵に現れたダンジョン、一層の探索、ボス部屋、オーガ、ヴァルナの空間、スサノオの話、封の解放、魔神への進化、若返り。ヴァルナに謝られたこと、イゾルデが「ごめんにゃ」と言ったこと。全部、順番に。


 柚葉は途中で一度も口を挟まなかった。メモを取りながら、黙って聞いていた。研究者の習性だ。まず全部聞いて、それから質問する。その姿勢が却って助かった。声に出しながら、俺自身も今夜起きたことを整理できた気がする。

 話し終えると、柚葉はメモを見直した。


「質問していい?」

「どうぞ」

「レベルはいくつ?」

「1024」


 柚葉のシャープペンが、止まった。


「……冗談だよね? お兄ちゃん、今の探索者界の常識、知ってる?」

「いや、詳しくは知らないが」

「ネオヒューマンの理論上の限界値は99。ハイパーヒューマン、つまり人類を超越した存在を仮定したシミュレーションでさえ、上限は999なの。1024なんて数字、この世界の計算式には存在しないはずなのよ」


 柚葉が震える手で、ノートに『1024』と大きく書き殴り、それを何度も丸で囲んだ。


「もしこれがバレたら、お兄ちゃんは明日にはどこかの国の研究施設に監禁される。あるいは、既存の秩序を壊す『災害』として処理されるわ」

「だから、隠す必要があるんだ。見た目も、力もな」


 俺がそう言うと、柚葉は深くため息をついた。


「次。その猫は何者?」

「イゾルデ。さっきのヴァルナさんの遣いで、普段は猫の姿をしてる。ちゃんと魔力を持ってて、信用できる相手の前では話せる」


 柚葉がイゾルデを見た。イゾルデが柚葉を見た。


「……よろしくにゃ」とイゾルデが言った。


 柚葉が固まった。

 三秒後、「かわいい」と言った。

 笑いをこらえるのに、少し苦労した。どんな状況でも、かわいいものにはかわいいと言える。それが柚葉の、変わらない良いところだ。


「そこかよ」

「だって喋った。かわいい」

「なぁ~」とイゾルデが鳴いた。満更でもないらしく、尻尾がゆっくり揺れた。現金なやつだ。


 柚葉がメモに何かを書いた。「イゾルデちゃん(神獣?)」と書いてあるのが見えた。「神獣」に大きなクエスチョンマークが三つついていた。分類できないものは保留にしておく、という柚葉の研究者としての流儀だ。


「次。若返りはどうするの」

「彰彦さんに頼みたいことがある。戸籍の話なんだけど」


 柚葉の目が細くなった。


「戸籍を十七歳に変えるってこと?」

「このままじゃまずいだろ。三十五歳の戸籍で十七歳の顔して歩いてたら、色々と面倒なことになる。あと、レベルの偽装にも協力してほしくて」

「レベルの偽装?」

「聖遺物でバレたらまずい。腕輪、研究所に在庫ある?」


 柚葉がぱっと顔を上げた。研究者のスイッチが入った目だ。


「ある。私が開発に関わったやつ。二つ付けるとレベルが百分の一になる設計にしてる」

「それ、借りられるか」

「貸すんじゃなくてあげる。お兄ちゃんに使ってもらう方が、データも取れるし」


 相変わらず、隙あれば研究材料にしようとする。まあ、助かるからいいけど。


「じゃあ彰彦さん、呼んでいい?」とすでにスマホを取り出しながら柚葉が言った。

「朝の六時だぞ」

「早起きだから大丈夫」


 止める間もなかった。柚葉の判断は大抵正しいので、任せることにした。


  *


 三十分後、一条彰彦が神楽家に来た。

 スーツではなく落ち着いたカジュアルな格好だったが、早朝に呼び出されたのに顔色一つ変えていない。急いで来たはずなのに息も乱れていない。それがかえって、この男の底の深さを感じさせた。

 台所に入ってきた彰彦は、俺を見て一瞬だけ目を細めた。驚きを抑えている顔だ。しかし次の瞬間には、普段通りの穏やかな表情に戻っていた。


「神楽さん……ですね」

「はい。早朝にすみません」

「いえ」と彰彦は言って椅子に座った。柚葉がコーヒーを出した。息の合った動作だ。「柚葉さんからある程度は聞いています。直接聞かせてもらえますか」


 俺はもう一度、かいつまんで説明した。彰彦は柚葉と同じように途中で口を挟まなかった。違うのは、メモを取らなかったことだ。全部、頭に入れている。この男が単なる御曹司じゃないのは、その一点だけで分かる。


「戸籍の件」と彰彦は言った。「年齢を三十五歳から十七歳に変更する、ということでよろしいですか」

「お願いできますか。かなり無茶な頼みだとは分かってるんですが」

「できます」と彰彦は即答した。迷いが一切なかった。「一条家のルートで処理します。表向きは戸籍の記載ミスの訂正という形になります。三日ほどいただければ」

「……助かります。本当に」


 頭を下げると、彰彦が少し手を振った。大げさにするな、という意味だろう。

 もちろん、実際には戸籍の年齢を書き換えるだけで終わりのはずがない。公的に存在するあらゆる記録を改竄する必要があるのに――この男は底が知れない。


「腕輪については柚葉さんから聞きました」と彰彦は続けた。「他に必要なことはありますか」

「今のところはこれで十分です」と俺は言った。「ただ、いずれまたお願いすることが出てくると思います」

「困ったことがあれば、いつでも」


 その言葉が社交辞令でないことは、早朝に三十分で来たという事実が証明していた。この男は、言ったことをやる人間だ。俺はそういう人間を、本能的に信用する。


  *


 彰彦が帰った後、柚葉が改めて俺の顔を見た。


「やっぱり慣れないわー」

「俺もだよ。鏡を見るたびに別人かと思う。しかも十代の顔って、なんか落ち着かない」

「十七歳じゃん、どう見ても」

「戸籍上もそうなる。まあ、中身は三十五だけど」

「学校どうするの」

「行かない。探索者になるつもりだ。今更勉強する気にもなれないからな」

「十七歳の探索者だね」

「見た目だけな。中身は三十五だから、小僧扱いされたら普通に腹立つと思う。全力で」


 柚葉がため息をついた。心配が八割と呆れが二割混じった、長年付き合ってきた俺には配分まで分かるため息だ。


「危なくない?」

「正直、まだ実感がないんだけど——数字だけ見れば、たぶん大丈夫だと思う」

「たぶん、ってとこが心配なんだけど」

「徐々に慣れていくから、そこは信用してくれ」

「心配と信用は別の話だよ」と柚葉は言って、マグカップを両手で包んだ。少し間を置いてから、「でも」と続けた。「お兄ちゃんが変わったのは分かる。外見だけじゃなくて、なんか、雰囲気が」

「変わったかな」

「うん」と柚葉は言った。「前は、もっと……くたびれてた。今は違う。なんか、本来のお兄ちゃんに戻った感じ」


 その言葉が、じわりと胸の奥に落ちた。

 くたびれていた、というのは正確な表現だと思う。田所に詰められていた三年間で、笑い方を忘れかけていた。今夜、ダンジョンの中で「あははっ」と笑い声が漏れた瞬間を、俺はたぶんしばらく忘れない。あれが、本来の俺だったのかもしれない。


「悪い変わり方じゃないといいけどな」

「絶対悪くない」と柚葉は即答した。間を置かなかった。「絶対に」


 断言してくれる妹を持てて、良かったと思った。


「何かあったらすぐ言って」と柚葉は続けた。「私にできることは何でもする」

「腕輪、頼む」

「それは言われなくても持ってくるよ」と柚葉は苦笑した。


 イゾルデが柚葉の方へ歩いた。柚葉の手の甲に、頭を擦りつけた。


「なぁ~」


 柚葉の顔が、ほぐれた。こういうとき、イゾルデは空気を読む。


「この子、賢いね」

「色々と、な」


  *


 その日の昼過ぎ、研究所から帰ってきた柚葉が、小さな箱を手に台所に現れた。


「持ってきたよ」


 箱を開けると、腕輪が二つ入っていた。シンプルなデザインだった。幅一センチほどの黒い金属のバンドに、細かい紋様が刻まれている。見た目は普通のブレスレットに近い。これがレベルを百分の一にする聖遺物だとは、見た目からはまるで分からない。


「つけてみて」


 左手首に一つ目をはめた瞬間、体の内側で何かが絞られるような感触があった。さらに右手首に二つ目をはめると、鉛が体に流し込まれたような重さが全身を包んだ。


「……重い。さっきまでと感覚がまるで違う」

「正常な反応。レベルが1024から約十になってる計算だから」と柚葉は言って、すでにメモを取り出していた。研究者のスイッチが入っている。「外したら?」


 右手首の一つを外した瞬間、体がすっと軽くなった。


「切り替え、早いな」

「戦闘中に瞬時に外せるように設計したの」と柚葉は得意げに言った。研究の話になると目が輝く。こいつの本当に楽しそうな顔は、こういうときだ。「ちなみにこの腕輪、探索者の間でじわじわ話題になってるんだよね」

「何で」

「低レベル帯のトレーニングに使えるって分かってきて。レベルを意図的に下げることで、低レベルのダンジョンでも経験値が入りやすくなるから需要があるみたい」

「俺には逆の用途だけどな」

「そう、レベルを隠すために使う。でも——」と柚葉が少し表情を曇らせた。「これをつけてると、絶対勘繰られるよ」

「何を」

「強いのは腕輪のおかげだって。プライドの高い探索者には特にね。面倒なことになるかもよ」

「なったらなったで対処するよ」と俺は笑った。

「それがお兄ちゃんの一番心配なところなんだけどなあ」


 柚葉のため息を聞きながら、俺は腕輪を二つとも付け直した。鉛のような重さが体に戻る。

 これが当面の日常になる。レベル1024の魔神が、レベル10の6級探索者として生きる。

 我ながら、妙な話だと思った。でも、数か月前までブラック企業で終電まで働いていた俺が言えることでもない。妙な話には、少し慣れてきた。


  *


 夜、布団に入る前に、柚葉が俺の部屋のドアをノックした。


「なに」

「一個だけ聞いていい?」

「どうぞ」

「怖くなかった?」と柚葉は言った。「ダンジョンで、ひどい怪我して、意識なくなって」


 怖かった、と即答しそうになって、少し止まった。柚葉は心配して聞いている。正直に答えることと、余計に心配させることのバランスを、俺はいつも上手く取れない。


「怖かったよ。オーガに殴られた瞬間は、本気で死ぬかと思った。正直に言う」

「そうだよね」

「でも——あの経験がなかったら今の俺もなかったわけで。そう考えると、後悔はないんだよな」


 柚葉がドア枠に寄りかかって、少し考えるような間を置いた。


「お兄ちゃんが言うなら、信じる」

「ありがとう」

「でも次からは、危ないことする前に一言言って」

「善処する」

「善処じゃなくて、約束して」


 俺は少し間を置いた。善処と約束は違う。柚葉はその違いをちゃんと分かって、あえて言い直させようとしている。昔から、こういうところが抜け目ない。


「分かった、約束する」


 柚葉が小さくうなずいた。それだけで満足したらしく、これ以上は何も言わなかった。


「おやすみ、お兄ちゃん」

「おやすみ」


 ドアが閉まった。

 しばらく天井を見ていた。

 田所に責任を押しつけられて追い出されたあの日から、数か月が経つ。何もかも終わったと思ったあの日から。でも、終わっていなかった。むしろ——何かが、始まっていた。

 肩のイゾルデが、「なぁ~」と小さく鳴いた。


「いい妹だろ」

「なぁ~」


 今度は、さっきより少し大きく。


 俺は蔵の方向を見た。扉の向こうに、ヴァルナが待っている。腕輪の重さが、手首に馴染み始めていた。


 まだ、始まったばかりだ。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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