第26話(前編) 田所慎二、再び
如月から連絡が来たのは、喫茶店で話してから四日後だった。
「田所の動きを押さえました。同席していただけますか」
場所は新宿のオフィスビルの一室だった。如月の部下が借り上げた仮の事務スペースだという。俺が着くと、如月ともう一人の男が待っていた。
「こちらは部下の木村です」如月の隣で、三十代前半、眼鏡をかけた細身の男が会釈した。
「状況を教えてください」
「田所は今週、探索者協会のデータベースから抽出した個人情報のリストを、村神の側近に渡しました」如月がタブレットを見せた。「取引の現場を映像で確認しています。リストには探索者の氏名・住所・レベル・家族構成が含まれています。百三十七名分」
百三十七名。
「その中に、俺の情報は入っていますか」
「確認中です。ただ、神楽凪という名前で登録されている探索者情報が抽出されている可能性は高い。一条グループとの関係から、マークされている可能性があります」
《確認します》とエルが言った。少し間があった。《データの痕跡を追いました。神楽凪の名前は対象リストに含まれています。ただし、住所は旧住所——町田の実家のままです。六本木への転居はまだシステムに反映されていません》
旧住所で助かった。
「田所に会わせてください」
如月が俺を見た。
「……会って、どうするつもりですか」
「話すだけです。怒鳴ったり、手を出したりはしません」
如月は少し間を置いた。
「木村、呼んでこい」
*
五分後、田所慎二が部屋に入ってきた。
三十五歳の俺より七つ上。四十二歳。スーツを着ているが、首元が緩んでいる。頬が以前より少し削げていた。目が泳いでいる。
田所は俺を見た。
一瞬、何かを考えるような顔をした。それから「誰だ、この人は」という顔になった。
分からないらしい。
当然だ。俺は今、腕輪を両方つけて、仮面もつけていない。十七歳の顔をした若い男が座っているだけだ。三十五歳だったころの俺の顔は、田所の記憶にあっても、今の顔とは結びつかない。
「座ってください」
田所が椅子を引いて腰を下ろした。対面に俺がいる。田所の目が俺に向いて、それから如月に向いた。
「こちらの方は」
「関係者です」如月はそれ以上説明しなかった。
如月が田所の前にタブレットを置いた。取引の映像だ。田所が村神の側近に封筒を渡している場面。
「これは何ですか」
田所が映像を見た。顔色が変わった。しかし次の瞬間、表情を戻した。
「さあ、何のことですか」田所は落ち着いた声を作ろうとしていたが、語尾が少し上ずっていた。「私はただ、知人に書類を渡しただけで」
「書類の中身に百三十七名の探索者の個人情報が入っていましたが」
「知りません。中身まで確認していない」
俺は黙って田所を見ていた。
田所の目が、また俺に向いた。若い男が黙って自分を見ている状況が、居心地悪そうだった。
「……あなたは誰ですか」田所が眉を寄せた。「なんで黙って見てるんですか。関係ないでしょう」
「関係あります」
「どんな関係が」
「百三十七名のリストの中に、俺の名前が入っていました。神楽凪という名前で」
田所が少し固まった。
神楽凪、という名前を処理しようとして——出てくるのに時間がかかったらしい。数秒後、田所の顔に、じわりと何かが浮かんだ。
「神楽……凪? お前、神楽か?」
「はい」
田所の目が、俺の顔を上から下まで見た。
「全然違うじゃないか。別人みたいだぞ」
「色々ありました」
「……若返ったのか?」田所が少し笑った。状況を忘れたような、馬鹿にした笑い方だった。「なんだ、覚醒したのか。お前みたいなやつでも覚醒するんだな」
俺は何も言わなかった。
言いたいことが浮かばなかったのではない。浮かびすぎて、口に出す前に整理する必要があった。そして整理した結果、口に出す価値のある言葉は一つもなかった。
「そんな顔して睨むなよ。昔のことはもう終わった話だろ。示談も済んでる。それより——」田所が声を低くした。「お前、一条グループと組んでるんだろ。俺はそっちに売るようなことはしてないから、安心しろ。ただの副業だ。村神さんに頼まれて、ちょっと手伝ってるだけで」
「副業」と俺は繰り返した。
「悪いか」田所が肩をすくめた。「お前だって今ごろうまくやってるんだろ。俺だって生きてかなきゃいけない。それだけだ」
俺は田所を見た。田所が、目を逸らした。
怒鳴りたい気持ちは、なかった。
三年間、毎朝悪夢を見ていた。田所の声が夢に出てきた。その感覚は今でも消えていない。ただ——目の前にいる田所は、思っていたより小さかった。
小さくて、みすぼらしくて、まだ同じことをやっている。
握りしめていたわけでもない手のひらに、自分の指の感触があった。怒りでもない、憐れみでもない、何か別の感情が、薄く広がっていく。
「田所さん。一つだけ聞かせてください」
「何だ」
「俺のことを覚えていますか。三年間、同じチームで働いていた。毎日怒鳴られた。プロジェクトの失敗を俺のせいにされた。それで不当解雇された。覚えていますか」
田所が少し黙った。
「……覚えてるよ。昔の話だろ」
「昔の話ですね。では、その昔の話のせいで、俺が何か月、毎朝悪夢で目を覚ましていたか、知っていますか」
田所が口を開いた。何か言おうとして——止まった。
「知らないですよね。知ろうとしたこともないですよね。あなたにとっては副業で、俺の名前がたまたまリストに入っていただけで、それだけのことですよね」
「……そんな大げさな」
「大げさじゃないです。ただ、それを今更あなたに分かってほしいとも思っていません」
田所が俺を見た。何かを言いたそうだったが、言葉が出てこない顔だった。
「如月さん」俺は如月に視線を向けた。「後は任せます。俺から言うことは以上です」
如月が頷いた。
「田所さん」如月は新しい書類をテーブルに置いた。「不正アクセスの詳細について、確認させてください。協力していただけない場合は、このまま捜査に移行します」
田所の顔から、さっきまでの余裕が消えていた。
俺は立ち上がって、部屋を出た。
*
廊下に出ると、イゾルデが「よかったにゃ?」と聞いた。
俺は少し考えた。
「よかった。怒鳴らなくてよかった」
「なぁ~」
《田所さんの顔に、最後に少し何かが出ていました》とエルが言った。《動揺、ではなく——何か別のものです。言語化は難しいですが》
「……今は、いいです」
今は、本当にそれでいい。
田所のことを、これ以上考えるのをやめようと思った。三年間を取り戻すことはできない。悪夢が今夜出てくるかどうかも分からない。ただ——もう、あの顔に振り回されなくていい。それだけで十分だった。
窓の外に、昼の新宿が広がっていた。
雑踏の中を、たくさんの人間が歩いていた。
俺はスマホを取り出して、次の配信の構成を考え始めた。やることは、まだある。
《一点ご報告があります》とエルが言った。《先週から続いている荒らしコメントですが、本日また増加しています。特に「魔神様は偽物」「CGだ」という方向の書き込みが、同一のIPアドレス群から投稿されています。組織的なものと断定していいと思われます》
「無視でいいか」
《今のところは問題ありません。ただし、視聴者の間で「最近コメント欄の雰囲気が変わった」という声が出始めています。JIN_KIRISHIMAが今週もアーカイブに高評価をつけており、そちらが抑止力になっている形です》
「霧島さんが抑止力か」
俺は少し笑って、スマホをしまった。
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