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幕間 田所への復讐

 一条彰彦が田所慎二という人物の調査を始めたのは、神楽凪と協力関係を結んだ直後だった。


 理由は単純だ。柚葉から聞いていた。凪が毎朝悪夢で目を覚ますことを。田所の声が夢に出てくることを。三年間、理不尽に摩耗させられた末に不当解雇されたことを。


 彰彦は感情で動く人間ではない。しかし、柚葉の婚約者として、そして凪と協力関係を結んだ者として——田所慎二という人物を放置することは、彰彦の中の何かに引っかかった。


 引っかかりは、動く理由として十分だった。


  *


 調査に一週間かかった。


 田所慎二。四十二歳。システム開発会社の課長。部下への恒常的なパワーハラスメントが複数の退職者から証言されていた。経費の私的流用も、帳簿を精査すると痕跡が残っていた。さらに——神楽凪の不当解雇に使われた「プロジェクトの失敗の責任」は、実態として田所自身の判断ミスを部下に転嫁したものだったことが、当時のメール記録から確認できた。


 証拠は揃っていた。


 問題は、どう使うかだ。


 彰彦は三つの手を同時に打つことにした。


 一つ目は法的手続き。凪の代理として弁護士を立て、不当解雇の撤回と損害賠償を請求する。証拠は十分にある。田所の会社は、裁判になれば負ける。


 二つ目は取引先への情報共有。田所の会社が取引している数社に、経費流用の事実を匿名で伝える。一条グループの名前は使わない。ただ、情報の信憑性を高める形で渡す。


 三つ目は田所自身への直接の圧力。弁護士を通じて、示談の条件を提示する。条件は一つ——凪への謝罪と、不当解雇の公式な撤回。金銭的な補償はそれに付随する。


 三つを同時に動かすことで、田所に逃げ道をなくす。


 彰彦はそれを「制裁」とは呼ばなかった。「整理」と呼んだ。凪の過去に残った不当な傷を、適切に処理する作業だ。


  *


 最初に動いたのは弁護士だった。


 通知が田所の元に届いた翌日、田所の会社の法務担当から彰彦の弁護士に連絡が来た。「穏便に済ませたい」という意向だった。


 穏便に、か。と彰彦は思った。


 凪が田所のもとで過ごした三年間が、穏便なものだったとは思えない。しかし彰彦は感情を顔に出さなかった。「では条件をお伝えします」と弁護士に告げた。


 取引先への情報共有は、法的手続きの通知から三日後に行った。


 一条グループが直接動いたわけではない。ただ、情報が「適切なルートで」届くよう、彰彦は手配した。田所の会社の株主でもある企業の担当者が、その情報を受け取った。


 一週間後、田所の会社の社長から弁護士に連絡が来た。「全面的に対応する」という内容だった。


  *


 示談の成立まで、さらに二週間かかった。


 田所は最後まで抵抗した。


 弁護士から「経費流用の証拠がある」と伝えられた段階では、まだ虚勢を張っていた。「証拠などない」「言いがかりだ」という言葉が弁護士経由で届いた。


 彰彦は静かに、その言葉を聞いた。


 翌日、田所の会社の主要取引先の一社から、突然の契約見直し打診が入った。理由は「コンプライアンス上の懸念」だった。田所本人には何の連絡もなかった。ただ、会社の上層部が急に動き始めた。


 彰彦は何もしていない。情報が「適切なルートで」動いただけだ。


 二日後、田所の態度が変わった。会社側も、これ以上の長期化は利益にならないと判断した。


 最終的な条件は、凪への書面による謝罪、不当解雇の公式撤回、そして慰謝料の支払いだった。田所が個人として支払える額ではなかったが、会社が連帯して対応することになった。


 彰彦はその書類を受け取ったとき、一人で確認した。


 謝罪の文面は、弁護士が形式を整えたものだ。田所の本心がそこにあるとは思わない。ただ——公式の記録として、田所が凪に対して不当なことをしたという事実が、文書として残った。


 それで十分だ、と彰彦は判断した。


 凪に見せるべきかどうか、少し考えた。


 見せない方がいい、という結論に至った。凪はもう前を向いている。過去の書類を改めて突きつけることは、傷を掘り返す作業になりかねない。


 彰彦は書類を閉じながら、ふと思った。


 田所慎二という人間は、自分が何をしたか、本当に分かっているだろうか。文書として残った事実は、田所の「本心」ではない。ただ、世界には本心より記録の方が重い場合がある。凪が受けた不当な扱いが、公的な記録として存在する。それは消えない。


 それで十分だ、と改めて判断した。


 ただ、一言だけ伝えることにした。


  *


 その夜、彰彦は柚葉に電話をかけた。


「田所さんの件、片付きました」


 少しの沈黙があった。


「……そう」と柚葉は言った。声が、少し揺れていた。「ありがとう、彰彦さん」


「柚葉が頼んだわけじゃないですよ」


「でも、動いてくれたのは彰彦さんだから」と柚葉は言った。「お兄ちゃんには、言う?」


「言います。ただ、詳しくは話さないつもりです」


「うん」と柚葉は言った。「それがいいと思う」


 電話を切ってから、彰彦はしばらく窓の外を見た。


 夜の東京が広がっている。一条グループのビルの最上階から見ると、街の灯りが整然と並んでいる。


 田所慎二という人物の処遇は、これで終わりだ。彰彦の中では、もう関心の外になった。次に考えるべきことは、大公の動きだ。如月透との情報共有。アリスのヴァルナへの再会。凪が五十層の向こうに踏み込むタイミング。


 やることは多い。


 ただ——柚葉の「ありがとう」が、今夜の仕事の報酬として、十分すぎるものだと思った。


 彰彦は書類をファイルに閉じて、次の資料を開いた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

この話で「第二章 黒猫、動き出す」終わり、新章に突入します。

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