26.冗談という刃
明佳が倒れたと連絡を受けたとき、最初に浮かんだのは、心配ではなかった。ただただ「え、なんで?」、だった。
疲れているのは知っていた。眠れていないのも、身体が悲鳴を上げているのも知っていた。それでもどこかで、(大丈夫だろう)と決めつけていた。病室で横たわる明佳は、静かだった。あんなに、よく笑う人だったのに。
「……無理しすぎだろ」
そう言った自分の声が、ひどく他人事だったのを覚えている。
目を覚ました彼女が、俺を見て、首を傾げた。
「……どちらさまですか? 私の親族の方ですか?」
あの一瞬、胸の奥が真空になった。忘れられていた。俺との時間。付き合った日々。プロポーズ。新婚の狭いキッチンで、ふたりで焦がした卵焼き。全部。なのに俺は、真っ先に思った。(なんでだよ)って、悲しみより先に、被害者意識が立った。
付き合い始めた頃の明佳は、今より少し尖っていて、負けず嫌いで、俺の冗談にも負けじと返してきた。
───「また甘いもの食べてる」
───「太るぞ?」
───「お前、ストイック足りなくない?」
笑い合っていた、そのつもりだった。結婚しても、子供が生まれても、その関係は変わらないと信じて疑わなかった。でも、本当は違っていたんだ。
退院して、記憶を失ったまま戻ってきた彼女に、俺はまた「いつもの冗談」を投げつけた。マットの上で必死に呼吸を整える彼女の背中に、冷や水を浴びせるように。
「そんな怪しいアプリ使ったってさ、どうせ───痩せるわけないだろ」
空気を軽くするつもりだった。いつものように「ひどいな」と笑って流してくれると思っていた。だが、その瞬間の沈黙が、俺の心臓を凍りつかせた。ゆっくりと振り返った明佳の瞳に、かつての怯えはなかった。そこにあったのは、射抜くような冷徹な光。
「……あなたこそ。そのだらしないお腹、何とかしたらどうですか?」
頭を殴られたような衝撃だった。顔が一気に熱くなり、喉の奥が引き攣る。反論しようとして、「冗談だろ、昔みたいに……」と口走った俺に、彼女は淡々と言った。
「笑えない冗談は、イジメや嫌がらせです。……言って、すっきりしましたか?」
何も言い返せなかった。
翌日、気まずさに耐えかねて、また「余裕ないなぁ、笑って流せよ」なんて口にした俺を、彼女はさらに深い絶望の底へ突き落とした。
「冗談は、相手が笑って初めて冗談です。……私が黙っていたから、大丈夫だと思いましたか?」
同じ言葉。「イジメや嫌がらせ」。二度繰り返されたその刃は、俺のプライドを、無自覚な加害性を、完膚なきまでに切り裂いた。
彼女が倒れたのは、体力だけの問題じゃなかった。俺が、彼女を“評価”し続けていたからだ。妻として、母として、女として。横に立つ相手じゃなく、採点する側に立っていた。母になった彼女の変化を、俺は「女としての怠慢」という圧にすり替えた。
───「早くジム戻れよ」
───「このままだと、まずくない?」
───「母親って大変アピール?」
冗談のつもりで、俺は彼女を削り続けていた。彼女が記憶を消してまで逃げたかったのは、この家そのものではなく、俺が振り回していた言葉の刃だったんだ。
記憶を失った明佳は、俺を知らなかった。でも、その空白の数日間で、俺は初めて気づいた。
俺は彼女を愛していたんじゃない。「俺の隣で、俺の望む通りに笑っている明佳」を愛していただけだったんだと。
母になって、形が変わって、笑い方が少し疲れて。それでも俺を見てくれていた彼女を、俺は一度もちゃんと見ていなかった。
あの頃の俺は、強さを履き違えていた。追い込むことが愛情。正論は善意。冗談は優しさ。
違った。本当の強さは、相手の変化を受け入れ、その痛みを分かち合うことだった。
今、明佳は笑う。無理をしないペースで。俺に依存せず、俺に媚びず。あの頃より、ずっと強くて、凛としている。
そして俺は、やっと彼女の横に立てている気がする。冗談という名の刃を、もう二度と振り回さない。正しさで、大切な人を削らない。
母になった明佳を、無理に「女」として戻そうとするんじゃない。今の彼女を、その変化も、その意志も、丸ごと愛し抜く。それが、自分自身の手で大切なものを壊しかけた俺にできる、唯一の償いだ。




