25.残した世界、選んだ世界
戻る選択肢が、最初からなかったわけじゃない。あの眩い光に包まれた夜、アイナのジムの硬い床で目を覚ました瞬間、俺は直感的に理解していた。これは一方通行の旅ではない。願えば、強く望めば、あの「元の日常」へと繋がる糸を、まだ手繰り寄せられたのかもしれない。けれど俺は、その糸を自分から手放した。
(……未練が、ないと言えば嘘になる)
静まり返った夜のジム、一人でストレッチをしながら、ふと意識の端に浮かぶ顔がある。
入院中、あんなにぶっきらぼうに俺を突き放しながら、最後には必ず好物の差し入れを置いていった父。
体調の変化を過剰なほどに心配し、毎日欠かさず祈るようなメッセージを送り続けてくれた母。
そして、「兄貴ならすぐ戻れるよ」と、根拠のない、けれど無邪気で残酷なまでの信頼を向けてくれた弟。
彼らは今、俺のいない世界で、どんな朝を迎え、どんな夜を過ごしているだろうか。俺が消えたあとのあの部屋は、あのベッドは、どうなっているだろう。
(ちゃんと……笑って、生きててくれるかな)
そう考えると、胸の奥が締め付けられるように熱くなる。取り返しのつかないことをしたという罪悪感が、冷たい澱のように肺の底に溜まっていく。家族を捨てた、馴染んだ世界を捨てた───その事実は、一生消えることのない痣のように俺の中に残り続けるだろう。
けれど、それでも。
それでも、俺は後悔していない。俺は、画面の中の記号としての彼女を好きになったんじゃない。ピクセルで構成された理想の偶像を追ってきたわけでもない。この世界の冷たい空気を吸い、重力を受け、汗を流し、誰よりも自分に厳しくあろうとする一人の女性。
実際に会って、その体温を知り、その厳格さの裏側にある不器用な情熱に触れてしまった。あの凛とした姿勢。嘘をつけない、真っ直ぐすぎる視線。他人に安易に合わせるのではなく、相手の本当の自立を願うからこそ、あえて厳しい言葉を選ぶ、あの静かな優しさ。
(ああ、そうか……。俺は、この人の『在り方』に、魂ごと救われたんだ)
家族への愛とはまた別の、自分の人生を賭けてでも守り抜きたいと願う、唯一無二の光。その光がこの世界にあるのなら、ここがどこであっても、俺はここを自分の居場所と呼ぶだろう。
会わせてくれた奇跡に、今はただ感謝している。これは現実からの逃避じゃない。過去の自分を否定することでもない。一人の男として、一人のトレーナーとして、どこで誰と生きていくのかを、自分自身の意志で決めた。それは、人生で初めて、俺が自分の足で踏み出した「選択」だった。
体は、完全に戻った。失われていた筋肉も、途絶えていた呼吸の連動も、研ぎ澄まされていた感覚も。かつてトレーナーとして、誰かの背中を押していた頃の「俺」に。
「新人として、もう一度、一からこの場所で始めたい。……あなたと一緒に」
そうアイナに告げたとき、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、いつものように───いや、いつもより少しだけ、春の陽だまりのような柔らかな微笑みを浮かべた。
「……いいと思うわ。あなたの新しい筋肉も、その覚悟も、私が保証してあげる」
その一言があれば、他には何もいらなかった。
夜。ジムの片隅で、落とされた照明の影が二人の輪郭を深く切り取る。
「……アイナ」
呼ぶと、彼女は作業の手を止めてゆっくりと振り返る。俺は、震える鼓動を抑えながら、一歩だけ彼女に近づいた。けれど、まだ触れない。安易に指先を重ねるには、この世界の重力はまだ少し重すぎて、俺たちの絆はまだ少しだけ新しすぎる。
「時間を……くれないか。あなたが俺を信頼してくれたように、俺も、あなたにふさわしい男になれるまで」
アイナの瞳が、僅かに揺れる。そこには戸惑いと、それ以上の深い情愛が、隠しきれずに溢れていた。それだけで、俺の心臓は壊れそうなほど高鳴る。
答えは、まだいらない。
約束も、今は必要ない。
これは、終わりの言葉ではなく、本当の始まりの言葉だ。
選んだ世界で。選んだ人と。積み重ねる筋肉のように、一日ずつ、丁寧に、確実に向き合っていく。そうして、俺の新しい日常は、静かに、けれど確かな安定を持って、彼女と共に続いていく。




