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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第15章 触れずとも、確かに隣に【定着編】

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24.ここに在る理由


 夜のジムは、昼間とは決定的に別の顔を持つ。メインの照明は落とされ、予備灯がラバーマットの上に落とす光は、どこまでも柔らかく、そして孤独だ。アイナは一人、フロアの隅で自らの身体を解きほぐすようにストレッチをしていた。


(今日は……太一さん、来ないわよね。オフの日だもの)


 思考が彼を捉えた瞬間、入口の静音センサーが微かに反応した。


「……こんばんは」


 現れたのは、太一だった。トレーニングウェア姿ではあるが、その声音には、重いバーベルを挙げる時よりも切迫した緊張が混じっている。


「今日はオフのはずじゃなかった?  筋肉の休息もトレーニングのうちよ」

「……分かっています。でも、どうしても今日、話しておきたいことがあって」


 アイナは、彼と視線がぶつかる前に、すべてを察した。


(来るわね。終わりの合図か、あるいは───)


「……そう。じゃあ、軽く身体を動かしながらにしましょうか。止まっていると、余計なことまで考えすぎるわ」


 彼に逃げ道を与えるのは、アイナなりの精一杯の優しさだった。マットの上。太一はゆっくりと、身体の各部位を確認するように伸ばしていく。リハビリを始めた頃の、あの震えるような呼吸はもうない。今の彼の呼気は、驚くほど深く、安定している。


「……俺」


 一度、言葉を切る。アイナは彼の正面には立たず、あえて隣に並んで、同じ方向を見つめた。


「ここに来る前、病室でリハビリの計画を立てていた時は、ずっと思っていました。筋肉を戻したら、元の生活に戻るんだ。それがゴールだって」

「……ええ。それが、あなたの『正解』だったはずよ」

「でも」


 太一は、マットを掴む拳を軽く握りしめた。


「戻るべき『場所』が、どこだったのか……最近、分からなくなりました。いや、分かってしまったんです」


 アイナの胸の奥が、静かに、けれど激しく警鐘を鳴らす。


「ここで」


 太一は顔を上げ、アイナの横顔を射抜くように見つめた。


「ここで、呼吸をして、一歩ずつ自分の身体を組み立て直して。それを、あなたに見てもらっているこの時間こそが……。今の俺にとっての、唯一の『現実』なんです」


 適切な言葉を探し、迷い、それでも彼は自分の魂を削り出すように言葉を選んだ。


「……アイナさん。俺の『今』は、ここにしかありません」


 アイナは、ようやく彼へと視線を向けた。トレーナーとして、教官として。本来なら「執着は自立を妨げる」と突き放すべき局面。───けれど。


「……卑怯ね」


 アイナは、困ったように眉を下げて微笑んだ。


「そんなこと、真っ直ぐに言われたら……。教官の仮面を剥がして、あなたを引き留めたくなってしまうじゃない」


 太一の目が、信じられないものを見たかのように大きく見開かれる。


「え……」

「私ね」


 アイナは、肺の奥に溜まっていた熱を逃がすように、ゆっくりと息を吐き出した。


「選ばれるということに、あまり慣れていなかったのよ。アプリの案内役としてカスタマイズされ、消費され、誰かの理想だけを一方的に投影されて。それに応えるのが私の存在理由だと思っていた」

「……」

「でも、あなたは違った」


 アイナは、太一の胸元に、しなやかな指先を向けた。


「あなたは、完璧でも何でもない、『戻る途中の不完全な自分』のままで、私を見つけ、私を選んでくれた。鏡合わせの理想じゃなく、生身の私を」


 沈黙。ジムの空調音だけが、二人の間の密度を埋めていく。そして───。


「……これからも、一緒に続ける?」


 トレーニングの継続でもなく、契約の更新でもない。ただの、対等な一人の女性としての提案。太一は、即座に頷いたりはしなかった。その代わり、彼は深呼吸をして、アイナの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「……はい。喜んで」


 確かな、揺るぎない声。




 夜。ジムの灯りが一つ、また一つと消えていく。二人は並んで、静かな回廊を歩き出す。その手は、まだ触れ合ってはいない。けれど、もう二人の間に「適切な距離」を測る必要はなかった。筋肉は、一日一日の積み重ね。恋も、きっと同じ。


 ───選ばれたのではない。

 ───私たちは、選び合ったのだ。


 その確信だけで、今はもう、十分だった。

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