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暗く深い霧の中で



 眼前につきつけられた事実に、フィアナは躊躇した。

 兎を射るときも、鳥を射るときも、ためらってはいけない。狙いを定めたらすぐに撃つ。

 そうしなければ、獲物に逃げられる。中途半端な傷を負わせてしまえば、苦しみが長引く。


 どのみち、射られた獣は生きていられない。


 ユリシアスと共に兎を射った時、そう教わったというのに。

 たとえそれが母兎でも子兎でも、食べるために射る。糧を得るために情は必要ない。


 あぁ、でも、イルサナは人間だ。

 腹にカトルの子がいる。カトルの子を、殺めていいのか。腹の子には罪などないのに。


「……っ」


 イルサナは笑みを浮かべると、細身の剣をひろいあげて、フィアナの肩を突き刺した。

 まるで蜂の針が刺さるように、ずぶりと皮膚に埋まった剣が引き抜かれる。

 焼け付くような痛みに襲われて、フィアナは短剣を取り落としそうになる。

 温かい液体が肩から流れ落ちるのを感じた。


「あはは……優しいのね、虫唾が走る! 何にもできない、役立たず! レイヴスの力を使わなくても、私がお前を……!」


 痛みには、慣れている。

 この程度、なんでもない。カトルはイルサナによって、残酷な手段を使って貶められた。

 カトルの心の痛みに比べれば──。


 肩から、鮮血が流れて服を汚した。 

 フィアナは短剣を握り直す。腕は動く。ただ痛いだけだ。痛みは我慢できる。


 人を殺す罪を、子を殺す罪を抱える。その覚悟を決めてここにきたはず。

 己の命を賭けてでもカトルを救いたいという言葉に、嘘はない。


「な、なんで、平気な顔をしているの、あなた、おかしいんじゃない!? あぁ、そうか、頭が悪いのよね。だから鈍感なのね。痛みもわからない、人を殺すことも、子供を殺すこともどうとも思っていないのね!」

「聖レストラール様、私の罪をお許しください」


 切っ先は震えない。

 ──哀れな、イルサナ。

 うまれながらにして全てがあった。

 だから、道を踏み外した。何でも手に入ったから、人の感情さえ自分の思い通りになると信じてしまったのだろう。


 感情は、思うようにならない。自分自身の感情でさえ、自分で制御することは難しいのに。


「フィアナ!」


 ユリシアスの剣がカトルの背後で酩酊しぐらついている黒い大蛇を切り裂いた。

 彼は血を流すフィアナに気づいて目を見開く。

 大蛇を切り裂いて返す刃が、イルサナに振り下ろされる。

 フィアナの短剣がイルサナの心臓に埋まる。同時に、ユリシアスの剣がイルサナの首を跳ね飛ばした。


 断末魔の叫び声をあげることもなく、イルサナは命を落とした。

 イルサナにのしかかるようにしていたフィアナの体から、力が抜ける。

 血の流れる肩をおさえて、はあはあと息を吐きながら、床に座り込んだ。


「フィアナ、大丈夫か!?」


 ユリシアスがフィアナを助け起こす。労るように、守るように、逞しい腕が震えるフィアナを抱きしめた。

 

「大丈夫です。カトル様は……カトル様は、ご無事ですか……?」


 邪神を操る愛し子は死んだ。

 もう、カトルは呪いには支配されていないはずだ。

 カトルの体から這いずり出てきた大蛇も、ユリシアスが討った。


 イルサナの絶命と同時に、大蛇の姿は消えている。

 床には、フィアナのスカーフが巻かれたカトルの剣が落ちている。


 カトルは呆然と、立ち尽くしていた。彼に怪我はないようだった。ただ静かに、光を失った翡翠色の瞳がユリシアスとフィアナに向けられている。


 ──これで、終わったのか。


「……イルサナを、殺したな」


 カトルは落ちているスカーフの巻かれた剣を拾いあげる。

 そして鞘から剣を抜いた。低くしゃがれた声が響く。


 カトルの首から細く黒い蛇が何本も巻き付くように、肌の上を伸びていく。

 首から頬に、顔に。黒い紋様が浮きあがる。

 それは、ハギリの胸にあった紋様に似ていた。


 カトルは額に手をあてる。くつくつと肩を震わせて笑う。背を逸らし、金の髪をかきむしり。そして、指の間からじろりとユリシアスを睨み付けた。


「イルサナなど、どうでもいい。ユリシアス、裏切ったな。フィアを、奪った。俺から、フィアを……」

「カトル様……フィアナ様はあなたを救いに来ました。フィアナ様の心は、あなたの元に」

「嘘をつけ。俺は何度も、見た。お前がフィアナを抱く姿を。俺は、何度も……何度も、憎い女に愛を囁き、抱いた。フィアはもう、俺の元には戻らない」


 フィアナは、首を振る。血に塗れた手を、カトルに伸ばす。

 カトルは、フィアナがここにいることさえ認識できていないようだった。

 

 どこか、別の世界を見ている。

 まるでとこしえの果実を食べて、酩酊を続けているかのように。


 ここではないどこか。暗く深く寂しい世界を、一人で彷徨っているかのようだった。


「カトル様、私はここにいます。カトル様……っ」


 フィアナの声も、届いていない。

 カトルはただユリシアスを、憎しみに暗く燃える瞳で睨み続けている。


「死ね、ユリシアス。裏切り者め。お前だけは、俺がこの手で殺す。フィアは俺のもの。お前には渡さない」

「カトル様……あなは今だ、邪神の支配下にあるようだ。邪神はあなたに苦痛を与えるのみならず、あなたを器として、あなたを支配した。今の私にはそれがわかる」


 ユリシアスはフィアナから離れて立ちあがる。剣を構えて、カトルと向かい合った。


「私には、氷の民の巫女の血が流れている。石の魚の声が聞える。あなたの中にいる黒き蛇を滅ぼさなければ、多くの犠牲が出る。私は、あなたを殺さなければいけない」

「俺は、俺だ。支配などされていない。もう、どうでもいいんだ、なにもかも。フィアさえいれば、それでよかった。だがそのフィアさえ、お前に奪われた。ユリシアス、死ね!」


 カトルは本気だ。

 そして、ユリシアスもまた──主を殺めることを、決意していた。


 刃が幾度か交わる。

 カトルの体がぐらついた。未だ、カトルは酩酊の中にある。

 そして、カトルはやつれていた。

 心労と不摂生が、カトルの活力に満ちていた逞しい体から、戦う力を奪っていた。


 カトルの剣が弾き飛ばされる。ユリシアスの剣がカトルの心臓を捕らえる。


 切っ先が、カトルを貫こうとしている。


「やめて、駄目……カトル様……!」


 フィアナは床を蹴った。転がるように駆けて、カトルの体に抱きつく。


 ──背に、焼け付くような痛みを感じた。



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