第五十七話 『闇市』
桜一刀流の道場を訪れてからしばらく経ったある日のこと、俺はレインちゃんから「一緒にお買い物に行きませんか?」と誘われてウキウキとした心境のまま約束の時間まで時間を潰していた。
何でもまあ、現世から来た人間にはいつか絶対に必要になる場所を案内したいと言われたのだが……
「レインちゃん、約束の時間になったけど大丈夫? 入ってもいいかい? レインちゃん? ……入るよ? 本当に入るよ?」
いつまで経ってもレインちゃんが来ない。忘れているのかなとレインちゃんの部屋のドアを数回ノックし、呼びかけをしたが反応がなかったので俺はレインちゃんの部屋に入るためにドアを開けた。
この行為には下心など微塵もなく、純粋に彼女を心配にをしているからだ。ただ女の子と部屋に入るのは現世の記憶をいくら辿っても小学生の頃以来なので多少は緊張してしまうのはしかたがないだろう。
「……失礼します。レインちゃん? いないの?」
何故か小声になってしまったが気にしない。俺はコソコソと泥棒のように足音を殺して室内に侵入する。いや、傍から見たら完全に不審者だよなこれ……
「そんなことより、どこ行ったんだろ」
真面目なレインちゃんが人との約束を一方的に放り出すなんて考え難い。
だけど、レインちゃんの自室はシーンとしていて人の気配が一切ない。ならば一体彼女はどこに消えてしまったのだろうか?
レインちゃんの部屋は構造としては俺の部屋と全く同じだ。だけど、違いとしてこっちに来てまだ間もない俺とは違い彼女の部屋には生活感が溢れ出している。指が少しでも触れてしまえば崩れそうなほど不安定に積み上げられた本の樹や整理が行き届いているおしゃれな小物が彼女のパーソナルスペースを無遠慮に盗み見ている俺にいけない背徳感を覚えさせてくる。
カーテンが閉じられていて薄暗い。それが却って妄想を掻き立てて……
いや、ちょっと冷静になろう。これ以上室内にいるのは彼女に悪いと思うので部屋の外で待とう。そう思って俺は彼女の部屋から出ようとドアノブに手を掛けたその直前――ふと机の上から落っこちてしまったかのような一冊の本が目に入った。
彼女の読んでいる途中の積み本ではないようだ。
自分の好奇心に負けてしまい俺は落ちているそれを拾い上げた。結構重いな。もしこれがレインちゃんの日記帳だったら誰にも見られたくないだろうという理性が働き、中身を読むのは止めておいた。
代わりに全本位を回転させるみたいに落ちていた本をまじまじと見る。手で直接触れた感じ装丁は丈夫そうだ。アンティークな背表紙には何も書かれていない。
何も情報がないな。ここまで情報がないと逆に気になってきだぞ。一頁、一頁だけなら見返しだし大丈夫だろう。そう言い訳をして俺が表紙の部分を浮かしたその瞬間、硬い音がした。
――パタンと本の間に挟まっていた何かが床に落ちた。
「何だこれ? 写真?」
床に落ちた写真をしゃがみ込んで、手に取って拾った。白黒で写真が外側からゆっくりと黄ばみ、褪せてしまった写真のようだ。
「……かなり昔の撮られたお見合いに使う写真ってところか?」
豪華な椅子に座らされた綺麗な女性と、その傍らに冴えない男性立っているありきたりな構図の写真だ。特に面白味はない。
「え、これは……どういうことだ」
その面白味のないはずの写真に俺は驚いてしまっていた。男の方には何も問題はない。冴えないと表現したが男は猫背で丸眼鏡、癖毛をまとめることに慣れていないのだと一目でわかる髪型だ。女性の視線など意識したことがないと告げているかのような雰囲気だが、よく見ると顔は整っている。イメージで言うと昔の学者や数学の先生といった風貌だ。
問題なのは女性の方だ。綺麗な人だった。和服で豪華な椅子に座っているせいか体形は分かりずらいが背丈は小さく、痩せていると思う。黒髪を綺麗に整えて、可憐な櫛で飾り付けている。
顔をパーツごとにみると可愛らしい美人だと感じるが、釣り目気味な瞳のせいかどこか冷ややかな印象を受けた。写真の中に閉じ込められて止まっているはずの女性の所作からは『この人は上品だったんだろうな』と伝わってきた。
「レインちゃん?」
そうだ、写真の中にいるこの女性は俺の知っているレインちゃんとそっくりなのだ。鏡映しだ。瓜二つと言ってもいい。血を分けた兄弟である俺と兄貴もさすがにここまで似ていない。いや、もしこの女性がレインちゃんだったとしたら横に立っている男性は誰なんだろう?
「ここに居たんですか、お兄さん」
「ッ!」
そんなことを考えていると後ろから本物のレインちゃんから声を掛けられた。俺はビックリして写真を本に挟んで机の上に戻した。
「すいません。アリアさんと話し込んでいるうちに約束した時間を過ぎてしまいました。本当にすいません」
「いや、俺も勝手に部屋に入ってごめんね」
「いえ、全然気にしていませんよ。私が完璧に悪いので、探しに来てくれたお兄さんを責める人はいませんよ! それに私には見られて困る物もありませんし」
レインちゃんの部屋で深々と交互に頭を下げているという不思議な光景が出来上がった。いや、何をしているんだ俺たちは……
というか見られて困る物がないってことはあの写真のことを聞いてもいいのか?
「………そうなんだ」
「………はい、そうです」
やっぱりレインちゃんと二人きりになるとまだ気まずいな。リーネたちの中で現世から来たという共通点があるから話題には困らないはずなんだけどな……
彼女から新入りである俺に対して警戒心のようなものを感じる。授業で無理やりペアを組まされた男女みたいなこの空気間をどうにかしないといけないとは思っているんだけどなかなか機会に恵まれない。いや、その機会を作るためにわざわざレインちゃんの方から誘ってくれたんじゃないのか?
なら、彼女より年上である俺が勇気を出さないでどうするんだ!
「よし、なら行こうか!」
「え、あ、はい。そうですね」
失敗した。頑張って出した勇気が空回ってしまった。彼女を余計に恐がらせてしまった気がする。気を遣わせて申し訳ない。
俺は今の一瞬の内に味わった後悔をなんとか噛み殺して、レインちゃんの部屋を出た。そしてそのまま二人で屋敷を出た。彼女とは屋敷を出るまでの間ずっと覚束ない会話を続けていた。時間が戻るならやり直したい……
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
俺はレインちゃんに連れられて芒ノ大路まで来ていた。リーネの屋敷から近いこともあって街並みはあんまり変わらないが人々の表情にはどこか活気があった。
「……こっち側は初めて来たかも」
「そうなんですか。なら私も頑張ってお兄さんを案内しないといけませんね」
しばらく二人っきりで歩いていたからか会話がスムーズになった気がする。いや、初対面の頃に戻っただけだな。というか俺はいつからレインちゃんとこんな感じになっているんだっけ?
まあ、いいか。今はレインちゃんとの時間を精一杯楽しむことにしよう。
「芒ノ大路だっけ? ここには何か特色はあるの?」
「特色ですか?」
「あー、ほら、藤ノ大路だったら女性に人気な商品がいっぱいあったし、柳ノ大路は鍛冶師が夢見るだっけな。そんな感じのさ」
「………お兄さんはこの街の秘密を知っていますか?」
「え、何だ? あ、いや、違った。秘密かー」
レインちゃんからの突然の質問に面をくらったがすぐに持ち直すことができた。最近リーネやヘルガと関わることが多かったからか高圧的というか、普段通りな感じで返事をしてしまった。素のままだと怖がらせてしまうと思ったから気持ち優し目に接しようとしているのに簡単に仮面が剝がれてしまう。
このままじゃダメだよな……
「いや、ごめんけど教えてくれない?」
「そうですね。答えは街の通りの順番が花札の植物に対応しているんですよ。一月が松、二月が梅、三月が桜みたいに禊木町は左側から松ノ大路、梅ノ大路、桜ノ大路となっているんです。こんな風になっているのは当時通りの名前を決めた人の中に賭け事が好きな人がいたからだそうです」
「そうなんだ。知らなかった」
反応が薄いのはレインちゃんの話に興味がないわけではない。単純に俺が花札のことを全くと言っていいほど知らないからだ。
「……あれ、それで芒ノ大路の特色は?」
「………ないんです」
「え?」
「ないんですよ。芒ノ大路にはなにも!」
「ええ!?」
レインちゃんの勢いに驚いてしまった。いや、それよりもなんで芒ノ大路には何も色がないんだ? そして何で何もないと分かっている場所にレインちゃんは俺を連れて来たんだ?
そんな疑問が顔に出ていたようで彼女は小さく咳ばらいをすると話を続けた。
「芒ノ大路はこの街の中央なんです。ここから禊木町は広がっていったと過言ではないんです。だから一番シンプルになってしまったんですよ」
「……割を食ったってころ?」
「はっきり言えばそうですね。それでも私が頑張って芒ノ大路を表現するとしたら”活気溢れる”ですかね。”活気溢れる”芒ノ大路……なかなかいいセンスだと思いませんか、お兄さん?」
「うん、そうだね。いいセンスだと思うよ」
「いや、もっと捻りを加えた方がいいんですかね。そうなると心が通じるとか、すくすく育ったとかの方がいいんじゃ――」
「あ、あの、レインちゃん?」
「あ、すいません」
レインちゃんは俺の声に反応すると恥ずかしそうに顔を赤くして俯いてしまった。目を輝かせて俺に同意を求めて来た彼女の姿はいつもよりも年相応に見える。
普段は大人しい彼女のままか、ピクリとも表情を変えない”ユキ”の状態だから余計にだ。人の知らなかった一面を見てしまうとやはりどうしても驚いてしまうな。
「そうだ! 聞いてなかったんだけど俺たちってどこに向かっているの? 現世から来た人には必須の場所だって聞いたけど……」
「ああ、言っていませんでしたね。これから向かうのは闇市です!」
「へぇ、ヤミイチか。ヤミイチ…………闇市!!?」
彼女の可愛らしい声からは想像できない物騒な単語が聞こえてきて声を上げてしまった。闇市って聞くと違法だというイメージが拭えないのだが、彼女が案内してくれるってことは違うのだろう。違うはずだ。きっと、たぶん……
「いや、大丈夫ですよ。危険性はまったくないです。かくいう私も初めて聞いた時にはお兄さんと同じような反応をしましたが」
「そうだよね。良かった」
俺はレインちゃんの笑顔にほっと胸をなでおろす。最近俺の周りにいるヤツらのヤバさに気付き始めたせいで彼女のことも疑ってしまった。
「というか何で闇市なんて危険な香りがするネーミングにしてるの? もっと他に親しみやすい名前があったでしょ? 闇って文字が付いてる時点で印象が良くなるわけないだろ」
「今から行く店はギルドからの営業許可書を取得してないんですよ。だから闇市って呼ばれているんです」
「本当にただの闇市じゃないか? 危険はないよね、それって? 大丈夫なんだよね?」
営業許可がないのに店舗を出すって罰則がないのか? というか闇市で商品を入手できても闇取引ってことになるんじゃないのか?
「本当に危険はありません。ただ店主が少しだけ特殊な立場の女性ですから黙認されているんですよ」
不安そうな顔をした俺を諭すような口調でレインちゃんは言葉を続ける。
「……特殊って?」
「それは、直接聞いた方が早いですね。もうお店は目の前ですので」
「え!」
そう言い切った彼女は人気がない道へと消えて行ってしまった。俺はポツリと人通りが多い芒ノ大路に取り残されてしまった。レインちゃんの姿が消えた太陽の光が当たらない道は俺の目には奈落のように思えたが、勇気を出して彼女の後に続くことにした。
彼女の姿を探すように奥の方へと歩いていくと影に隠れるような黒いテントが張られていた。それも一つだけじゃない。この細い通りだけはテントが群集のように肩を寄せ合っていた。雰囲気的にはお天道様からも見つからない秘密の隠れ家みたいだ。
「お、そこにいるのはレインじゃないか? 久しぶりだね」
「はい、お久しぶりです」
彼女の横に追いつきテントの前に並べられた商品を覗き込もうとすると同時に老婆の声が聞こえて来た。掠れた声に反応した彼女は声の主に丁寧にお辞儀をした。
「ケッケッケ、また何か必要になったのかい? もし必要なら現世の物でも揃えてやるよ。もちろん高いがね!」
「いえ、今日は私ではなく――」
「あ!? なら、後ろのアンタかい! まだ小娘のアンタが男連れでうちに来るとはいい度胸だよ。うん? アンタ何処かで見たことあるような面だねぇ……」
「いや、知らないです。人違いかと」
「………そうかい。まあ、なんでもいいよ」
目の前に座る老女はどうでもよさげにそう呟いた。
老女はレインちゃんの部屋で見た写真のように褪せて黄ばんだ白い和服を着ている。指先まで皺が刻まれた彼女の枝みたいに細い手からは自分は長い年月を生きているという卑しい自尊心のようなものが滲み出ている。
小柄な体躯の老女が銭かごをガチャガチャと揺らす姿は悪徳という言葉を表現する例文のようにオレには見えた。
「よく来たね、お客さん。この奪衣婆の闇市に」
最低限の社交辞令として彼女は言ったのだろう。目が合った一瞬のうちに彼女の心の奥底まで理解することができた気がする。
皺くちゃに歪んだその瞳に映る俺たちのことは鴨が葱を背負って来たようにでも見えているようで、『目の前にいる金蔓どもから、今日も搾り取ってやるよ』とギラギラとした熱意を感じる。
まあ何はともあれ、奪衣婆と名乗った老女は下卑た笑みを浮かべて俺たちのことを歓迎してくれた。




