第四十九話 『風』
空中を舞うエルフたちの姿を暇つぶしがてら眺めていた。ヒュドラ討伐に成功した影響かみんなどこか誇らしげな微笑みを湛えている。
無表情でも妖精と称されるほど整った顔立ちの美男美女の集団が笑顔を浮かべているのだ。その破壊力は凄まじい。ここまでくると嫉妬する気持ちも起こらない。まあ、混ざりたいという気持ちすら起こらないんだけどな……
「隣に座ってもいいかしら?」
「……ああ、構わないぞ」
「ジン、あなたやけにテンションが低いわね。もっと素直に喜びなさい」
「これでもちゃんと喜んではいるんだがな」
今、生きているという事実は嬉しい。だが、あそこまでの喜びを分かち合える気がしない。そう思いヒュドラの解体作業を続けているエルフたちを見る。
この気持ちを例えるとすれば、そうだな。ゲームをしているとしよう。四人で協力するゲームだ。ボス戦に備えて毎日みんなで頑張ってレベルを上げて、新しい装備も用意したのにボス戦はすぐに終わってしまうんだ。
ほとんど俺以外の三人で倒してしまって『頑張ったな』『やっと倒せたな』と自分たちの成果を褒め称えている。するとどうだ? 除け者になった気分だろ?
それが俺の気分だ。それが今の俺の気分だ。現実から逃避するかのように解体される様を眺めることしかできない。というかエルフの魔法って本当に便利だな、どういう理屈で飛んでいるんだろう……
身体ごと風を巻き上げるような感じだろうか? それとも足の裏から?
いや、さすがに足の裏から風を出して飛ぶなんて格好悪いよな。
目を奪われるほど美しい彼ら、彼女らがそんなに滑稽な絵面で空を飛んでいるなんて思いたくない。
「なあ、リーネ? ヒュドラの泥に沈んでる部分はどうやって処理するんだ?」
交代の時間になったのか、大きな樹の根に座ってタオルで汗を拭いているリーネに素朴な疑問を投げ掛ける。
「うん? ああ、それはもう根気強く頑張るしかないわよ」
「根性論!? ここまで綿密な計画を立てておいて、結局最後はそれかよ!」
傷が再生してしまうのならヒュドラの泥に埋まっている部分はどう処理するのかと興味を持った俺はリーネに質問しに来たのだが、返ってきた非論理的な回答に思わずツッコんでしまった。
というか生き物の解体作業ってもっと効率的なんじゃないのか? 漫画で読んだときはそんな感じだったけど――いや、ヒュドラを解体したなんて前例があるわけがないか……
「仕方がないでしょ。エルフたちが言うには魔法は身体を血のように巡っている魔力がもととなっていて、その魔力は大気中の魔素を吸収した心臓が生み出しているらしいの。だから、今、ヒュドラの心臓を刳り貫いてるのよ。慎重に解体しないとまた再生する恐れがあるとかでね。もちろん鱗や牙は正当な報酬として貰うけどね」
「……そうか、よく分からないが。リーネが上機嫌ならそれで良かったよ」
「ええ!」
リーネは年相応で可愛らしい笑みを浮かべていたが、ヒュドラの価値をいまいち理解できていない俺は困ったように頷くしかできなかった。後でこっそりとアリアさんから聞いておこう。
「あ、そういえば。アリアさんには伝えたのか? ヒュドラ討伐は無事に成功したってさ。ここのところずっと落ち着きがないっていうか、気が気じゃなさそうだっただろ? この報告を聞けばアリアさんも安心するんじゃないか?」
「アリアに? たぶんエルフの誰かが伝えてくれたと思うけど……」
「そうか、それはよかった」
「……ジン、あなたってアリアの名前が話に出てきた時だけは露骨にテンションが高くなるわよね。まあ、別にいいけどさ。……あ、そうだ。後でレインにも感謝を伝えておきなさいよ。仲間であっても助けられたら『ありがとう』、迷惑かけたら『ごめんなさい』ってちゃんと口にして伝えないと」
「それはそうだな。後でレインちゃんにも伝えておくよ」
ヒュドラから食い殺される寸前で助けてくれたのはユキには本当に感謝している。そして、その身体の持ち主であるレインちゃんにも同じぐらい感謝を示さないと筋が通らない。というか俺っていつも助けられてばかりだな……
「そうだ、というかお前は大丈夫だったのかよ。怪我とかしなかったのか」
「……それが一言目に言える男だったらモテてたんでしょうね」
「……余計なお世話だ」
リーネとそんな話をしていると黒い腕が肩を叩いてきた。俺の肩からバシバシとかなり力強い音が鳴った。
「無事だったようだな、ジン」
「痛ッいな! シュテン、お前、力加減がバカになってるぞ!」
「ああ、悪いな」
どこかスッキリとした顔をしたシュテンが合流してきた。右肩に真っ赤な手形がついた。まるで紅葉が肩に乗っているかのようだ。冗談じゃなくて骨が外れるかと思ったぞ。シュテンへの文句をグッと堪えて俺はシュテンの背後に目を向ける。
「ロバーツさんもお疲れ様です」
眼帯の位置を鬱陶しそうに調整しているロバーツさんに俺はそう話し掛ける。
「ハハハ、疲れたというにはまだまだ動き足りないがな。それにジンの坊主も頑張っていたじゃないか? よく通るいい声だったぞ!」
「……それは、嫌味ですか?」
「うん? なにがだ?」
「無駄だぞ、ジン。こいつの頭じゃそんなことすら考えることはできねぇよ」
シュテンがロバーツさんの頭を指で叩くとコンコンと木魚のような軽い音が響いた。あっけらかんとした顔を見ていると本当のようだ。ただ俺が彼の言葉を悲観的に捉えすぎていたみたいだ。
というか何だよ。『よく通るいい声だった』って、人によっては普通に皮肉と受け取られてもしかたがないだろ? いや、これはもう八つ当たりだな……
「それで、リーネさんよ。当然だけどオレたちにも分け前はあるんだろうな?」
「やめてよ。さん付けなんて気持ちが悪い。安心しなさい、私はそこまでケチな女じゃないわ! 頑張ってくれたんだからその分の報酬はきちんと出すわよ! あ、でも、ユニコーンの角は分けてあげないわよ!」
「えー。いいじゃねぇかよ、ケチだな」
「いやよ。それとこれとは話が別でしょう!」
胸を張ってぷんすかと効果音が出そうな怒り方をしている彼女の、いや、彼女たちの邪魔にならないように俺はそっと移動する。昔馴染みがいるなら、気を遣ってその場から離れた方がいい。俺がグループの輪に入ることで、そいつらは余計な気を回して会話がしずらくなるだろうからな。
可笑しいな。なんだかとても惨めな気持ちになってきたぞ?
べちゃべちゃと靴裏に泥が張り付かせながら歩き始めた。目的地なんてものはない。だけどこれ以上惨めな気持ちになる前にこの場を離れよう。
どこに……そうだ、エルフの里に戻るのもいいかもしれない。アリアさんに直接、俺の口からみんなは無事だと伝えよう。よしこれで理由ができた。じゃあさっそく向かうとするか!
ここまで一人で来れたんだし、帰りも迷わないはずだ。
そう自分を鼓舞して足を前に動かす寸前――いや、さすがに誰かに行き先ぐらい伝えた方がいいよな。もう子供じゃないんだ。勝手に一人で行動して迷惑をかけるなんてありえない。
僅かに残されていた理性が俺の身勝手な行動を咎めて来る。そうだ、いくらここに居ずらいとはいえ個人的な気持ちを優先して動くなんてテストなら減点対象だ。
それで、誰に伝えよう。リーネとシュテンは話し込んでいるし、レインちゃんはユキから戻っていない。ヒビキに頼もうかと思ったが、あいつはかなり適当な部分があるのでこういう報連相にはあまり絡んでほしくない。頼りたくもない。
ヤバい、俺と同じ船に乗っている仲間たちが全滅した。後はカツキぐらいか。
『他の船の人間に頼っても大丈夫なのか?』という考えが頭をよぎる。俺は盗み見るように肩を治療中のカツキに視線を向けた。いや、俺は何を考えているんだ。頼み事だって、相手は怪我人なんだぞ…?
「おーい、ジン。何でそんなところにいるんだよ」
なぜかこちらの視線に気付いたカツキが先んじて声を掛けてきた。なんであの一瞬ちらりとだけ見た俺の視線に気付いたんだ?
「いや、一足先に戻ろうかと。ほら、アリアさんたちの様子も気になるし……」
「はー? なにそれ、わけわかんないし」
意外なことにカツキの治療を行っていたのはアセビのようだ。彼女は初対面の時に受けた印象とは違って、几帳面で世話焼きな一面があると短い付き合いでも分かった。だけどそれに加えて戦闘面だけじゃなく、怪我の処置なども器用にこなせる類の人物だったようだ。ギャップがすごい。
「……まあ、いいんじゃないか? ついでに手持ち無沙汰にしている奴らをまとめてエルフの里まで帰らせようればいい。頼めるか?」
「ちょっと、うちを差し置いて勝手に話を進めないでよ」
「ヒュドラの鱗も牙も、運ばないといけないが半分残せばなんとかなるだろ。いつもはオレがやっている仕事だがジンに任せてもいいか?」
「…ああ!」
「いい返事だ。それでまずはオレたちが砦に運び込んだ武器を回収して、まだ使えるやつを見定めないと。あ、泥沼は深いから迂回していかないと…それと」
「あんたは黙って治療を受けろし」
アセビがギュッと包帯を力強く巻くとカツキの顔が苦悶の色に染まった。
「……大丈夫なのか? それ?」
「これぐらいただの掠り傷だし、ほら、あんたもアイツを連れてとっとと行くし! ここにいられると邪魔だし!」
しっしと蚊でも払うかのように手を振られた。いや、そんなことよりもカツキの顔が痛みで真っ青になってるけど本当に大丈夫なのか? というかアイツってアセビは誰のことを言っているんだ?
そう思って辺りをキョロキョロしていると霊樹の後ろからヘルガが現れた。
「ヘルガかよ、何か要があるのか?」
「え、ええ。そうよ。アンタに言っておきたいことがあってね。あ、でも別に道すがらでいいから」
「そうか。なら、移動しながら話そうぜ」
ヘルガがいつもと比べて緊張しているように見えるが気のせいだろ。初対面であれだけ上から目線で話し掛けてきた彼女が俺相手に緊張するなんてありえない。
俺たちがゆっくりと歩を進めるたびに泥が靴裏に張り付いてぐちょぐちょと気持ち悪い音を立てる。ヒュドラ討伐のためにこの泥沼が必要だったとはいえ、さすがに気分が悪くなるな。あっちから黄泉の国へと持ってこれたのは学生服と靴ぐらいだ。俺の貴重な私物が泥で汚れるのはさすがに嫌だ。
「えっと、何の準備がいるんだ? 荷物と怪我人を運ぶわけだから、荷車がいるよな? あ、あとカツキが迂回しろって言ってたけどそんなにあの泥沼は深いのか? なあ、ヘルガはどう思う?」
たぶんカツキは俺の気持ちを汲んでくれたから仕事を任せてくれたんだ。期待に応えるために頑張らないといけない。優しいヤツらだと思う。
「……」
「うん、どうしたんだ?」
話を振ってもうんともすんとも言わない。それどこらかヘルガはなぜか俺の何歩か後ろで立ち止まっていた。
「………」
「………本当にどうした? なにか――」
「ワタシね、一つ決めたことがあるの! それをアンタには、アンタにだけは先に伝えておきたいって思ったの」
「……お、おう。なんだ?」
ヘルガは緊張した面持ちで俺にそう告げた。『告白か?』なんて茶化せる雰囲気じゃなくい。親に重大な決断を伝えるような張り詰めた雰囲気がある。
「…………」
「…………」
彼女はフルフルと唇を振るわせている。口を開こうとしては、閉じる。開こうとしては、閉じる。それを繰り返している。いや、気持ちは分かるができることなら胃が悪くなる前に言葉にしてほしい。というか泥沼の横で何をしてるんだ?
あの夜のことを思い出して気まずくなり視線を泥沼の方向へと逸らす。あの時のテンションのままだったらジッと彼女のことを見ることができただろう。しかし、今の素面に戻った俺にはダメだ。吐いたセリフを思い出すと鍵を閉めた部屋のベッドの上でのたうち回りたくなる。
この泥沼はヒュドラの全身を呑み込むために広がっている。俺の体重だけでも靴が徐々に沈んでいくほど地面が緩くなっている。水の精や土の精の影響で泥沼が出きていると言っていたが俺には全く分からない。
理科の授業で習った液状化現象が脳裏によぎったが、こんな大規模な泥沼をいつでも魔法で生み出せるなんてエルフの魔法って万能だな……
「うん?」
気まずさから目を逸らしていると泥沼の奥の方からプクプクと大きな気泡が発生していることに気が付いた。
「ッ、うわぁ!!!」
「逃げろ!!! ヒュドラだ!!」
ヘルガと俺は驚いた猫のように身体を飛び跳ねさせて、野太い悲鳴が聞こえた方向を見た。すると斬り落とされたはずのヒュドラが暴れていた。泥にまみれた首を勢い良く振り回して、空を飛べない哀れな人間たちを捕食している。
嫌な予感がする。泥にまみれて暴れ回る二対のヒュドラの頭を見ていると背筋が凍りつかせるような嫌な予感が全身を巡る。俺の記憶ではヒュドラの斬り落とされた頭は三つだったはずなんだ。三頭の巨大な蛇の化け物だったはずなんだ。
ゆっくりと頭を目の前にある泥沼に向ける。未だに気泡が発生している泥沼に視線が集中させられる。その次の瞬間――泥沼がまるで俺を喰うために大きな口を開いたかのごとく盛り上がった。
ヒュドラだ。首を胴体から斬り落とされて、頭だけになったはずのヒュドラが泥を巻き込んで俺に襲い掛かってきた。
思考が止まる。
眼前に迫る恐ろしい光景に思考のすべてが停止する。
この足元から脳天に突き抜けるような強烈な”痺れ”を俺は一度だけ味わったことがある。これは死を予見する”痺れ”だ。
トラックで撥ねられる直前にも同じような”痺れ”を感じた。まるで全身に本物の電気を流されたかのように身体がいうことを聞かない。恐怖で脳からの電気信号が掻き消されているかのようにピクリとも動かせなくなる。
グリフォンの巣やヒュドラと初めて対面した時に身体が感じたのは”熱”だった。心臓が痛いほど胸を打ってくる感覚や神経が研ぎ澄まされて身体の内側で絶え間なく流れているはずの血の巡りすら理解できる万能感があった。あれは生に執着する生き物として当たり前に備わった本能だ。だけど、これは違うと断言できる。
諦めだ。この”痺れ”は生への執着ではなく、生への諦めから生み出されている。
それを肯定するかのように俺の身体は脳からの命令を拒絶している。『あ、死んだんだ』と俺はあっさりと受け入れてしまっている。死にたくないのに死を受け入れているという矛盾が俺の身体を硬直させる。
俺とヒュドラとの距離が縮まる。
ただでさえ近かった俺との距離がさらに縮まる。
ヒュドラの口内がよく見えた。スーパーに売られている安い鶏肉のような色だった。ヒュドラの顎が外れたかのように大きな口が俺を喰い殺すためだけに開かれている。鋭く、巨大な牙が輝いた。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
あ、でも死ぬんだ……
トラックに轢かれて死んだときは何て思ってたっけ? こっちで色んな人たちに出会って良い方向に自分が変わり始めたと気付いた。幸運だった。俺はこっちで人に恵まれた。アセビ、カツキ、ロバーツさんは短い付き合いだけど仲良くなれた。それにエルフと話せたことも奇跡のような体験だった。
レインちゃん、ユキ、シュテン、アリアさん、ヒビキ、それにリーネ。俺に海賊になるきっかけをくれた人物たちは悲しんでくれるだろうか?
あれ、ここで終わるんだ。俺はまだ――
「ジン!!!」
鈴を転がすような声が聞こえた。ヘルガの柄にもなく泣きそうな声だった。
思えば彼女とはもっと短い付き合いだ。この里に来てからずっと彼女のことばかり考えていたのに時間にすると三日も話していない。奇妙な関係だった。ああ、でも、やっと、生まれてから初めて理解者に出会えたと思ったのに……
顔を彼女の方へと向ける。遺言でも託したかったが時間がない。もう何もできないんだと悟った俺はせめて恐怖と痛みを紛らわせるために静かに深く目を閉じた。
俺の瞳に映った最後の光景は必死になって俺へと手を伸ばしてくれたヘルガの姿だった。だから、せめて彼女のトラウマにならないように悲鳴だけは上げない。歯を食いしばって声を漏らさない。
俺が彼女のためにと歯から音が出るほど強く顎を噛み合わせた瞬間――そよ風が吹いたことを頬で感じた。いや、そよ風なんて生易しいものじゃない。突風だ。
急に激しく吹き起った嵐のような風が俺の身体を吹き飛ばした。突風のおかげで俺の身体は空を舞うように巻き上げられたのだった。




