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第四十七話 『前へ!』


 恐怖は人の思考を極限まで鈍らせる。

 それを実感している。


 走る。走る。走る。

 

 仲間だったはずの者を押し退け、ヒュドラから距離を稼ぐために走る。

 足がもつれて転んだ者を踏んずけて、ヒュドラから逃げるために走る。

 悲鳴を上げた者を放置して、ヒュドラから少しでも生き残るために走る。


 そんな男たちの姿を俺はただ見ていた。


 現状で最も冷静に周りを見ているのは俺と前を走っているカツキぐらいだろう。まあ、一方は仲間を助けるために頭を働かせて、もう一方は恐怖を少しでも紛らわせるために無駄なことばかりを考えている。ここには雲泥の差がある。


 今も立ち竦んでいた俺の右手を引っ張ってくれている。こいつはいつも他人のために行動しているなぁ……


 俺も虫けらのように逃げ惑う人々の一人のはずなのに、この状況でも冷静に俯瞰して見ていた。こんなこと前にもどこかで、ああ、グリフォンの時だ。グリフォンの巣で似たような経験をした気がする。


 あの時もただ生き残るために我武者羅に走っていたはずだ。


 止まれずに全力で走っているせいか、肺に穴が開いたかと思うほど空気を受け入れてくれない。呼吸が上手くできていなくて、息が上がる。


 茶色の髪が汗で張り付いた。黒縁の眼鏡がずれた。

 身体の芯から発生した灼熱が俺に動くなと呼び掛けて来る。


 脳に粘り気のある白い靄がかかったかのような状態だ。脳が考えるという行為を投げ出していた。その筈なのに、その筈だったのに、無駄が全て削ぎ落された一本の槍のように脳が冴えていくのが分かる。


「はぁ、……ッ……」


 チラリと後ろを振り返り、どのぐらい距離が開いたのか確認する。 


 しかし、ヒュドラを見たと同時に幼稚園の頃にいた女の子が癇癪を起したときに先生に向かって玩具の人形を投げ捨てた時の光景が脳裏に浮かんだ。だって、ヒュドラの首の一本が砦の上に設置していた大砲を無情にも薙ぎ払ったのだから。


 俺の目に映ったその光景があまりにも無情で、残酷で、不人情で、人間の小さすぎる抵抗を否定する一撃に感じてしまった。


 それに距離を稼いだと言っても、あの巨体からすれば微々たるものだろう。すぐに追いつかれる。隠れたほうが、いや、蛇は臭いに敏感だと聞いたことがある。それに蛇には赤外線で者を感知できるピット器官があるはずだ。


 ヒュドラにピット器官が備わっているかなんて専門家じゃない俺には不明だが、用心するに越したことはないはずだ。


 隠れてやり過ごすなんて愚行。なめた態度だ。だから、このまま走り続けるのが最適解のはずだ。はずなんだ……


 走る。走る。走る。


 なのに、嫌な予感が消えてくれない。

 むしろ足を動かすほど死が近づいてきているような気がする。


 これでいいのか? 

 

 これで本当にいいのか?


 自問自答を繰り返す。自分が助かるために必死に頭を悩ませる。


 そもそも何でヒュドラがここに?

 リーネが、シュテンが、ヒビキが討伐すると息巻いていたじゃないか。


 それにエルフのみんなは本当に死んだのだろうか?

 強いヘルガは受け入れられたが、弱い俺は現実を受け入れることができない。


 もう一度だけ彼女の方へと視線を送る。涙を流した後はあるが、緑色の瞳はまっすぐと光り輝いている。強いな。いや、それはそうか。


 狩猟が身近ってことは裏を返せば彼女は生物の死に慣れているってことだもんな。たぶん痛みを受け入れて、早々に見切りをつけたんだ。彼女はとても強くて頭がいいから、自分が生き延びないと何も残せないと理解したんだろう。


 それがたとえ家族のようなかけがえのない存在だったとしても……


 尋ねたい。『カーリたちは死んだと思うのか?』って尋ねたい。弱い俺はとてもじゃないが信じられないからだ。だけど口に出すのは憚られる。ヘルガの涙はもう見たくない。あんな悲しそうな顔はもう二度と見たくない。


 彼女へのそんな感情だけが俺の口を固く閉ざしてくれていた。


 走る。走る。走る。


 口の中にじんわりと血の味が広がる。額から吹く出してきた玉のような汗が鼻の穴に入った。肺が壊れてしまいそうだ。足元に目を向けると土やら何やらを蹴飛ばして酷く汚れている。転んでいないことが奇跡に近い。


 だがこんなことをしている間にも、這うような死神の気配が迫ってくる。

 

 これでいいのか?


 本当にこれでいいのか?


 再び自問自答を繰り返す。死の予感を払い除ける何かを探すために……


 身体はすぐに音を上げるだろう。だって、処刑台に自ら歩いて向かっているようなものだ。真綿で首を締められて殺されるようなものだ。足取りが重くなるのも当然のことだろう。しかし、不思議なことに頭だけは冴えわたっている。


 命の危機に陥ったことで脳内から噴出されたアドレナリンが俺を可笑しく変えてしまった。五日起きたまま過ごしたときのように眼球が充血し、興奮のせいでチカチカと眩暈がする。


 それにさっきから頭の中で変な音が反響している。ピュー、ピュー、と鳴り止まない。まるで、笛の、そうだった。笛の音だ。

 

 耳を劈くような笛の音を今ならはっきりと思い出せる。まだ、遠い。距離がある。だけど、ゆっくりと確実に近づいてきている。そんなことをヘルガが言っていたじゃないか。


 生きているんじゃないのか?


 そんな憶測の域を出ない想定が頭をよぎる。甘い考えだと自分でも思う。もし私たちが突破されたら迷わずに逃げろとリーネが言っていた。なら、カツキたちを信じてこのまま走った方がいい。俺より海賊として場数を踏んできた、優秀な彼らと同じことをしているんだ。疑う必要がない。


 だから――俺はこのまま何もせずに死ぬのか?


 信じられないほど冷たい声が頭の中に響いた。直感というあやふやな何かがこの選択は間違いだと言っている。煩いほど言っている。


 カツキとヘルガは気づいてないのか?


 いや、二人はきっと俺なんかよりも頭いいんだ。たぶん可能性には気付いているはずだ。なら、なんで、二人は……ああ、そうか。頭がいいからだ。二人は最悪の事態に備えて最善の行動してるだけなんだ。自分の考えは捨てて、周りを死なせないために動いているんだ。


 でも、前線のみんなが生きてると仮定すればどうだ?

 このままいけば絶対に死ぬ。喰われて、押し潰されて、死ぬ。


 でも、自分の直感を信じるのか? 


 信じることができるのか?


 いや、無理だ。みんなを巻き込んで一世一代の賭けに出れるほど俺は自分を信用できない。俺の積み上げてきたものはすべて無駄だったんだ。


 自信がない。頭の中で思い描いている筋書きが正しく実行できる自信がない。その通りにもっていける手腕もない。助けを求めるように二人を見る。こんな状況下でも他人、家族を想いやっている二人に俺のどこが勝っている?


 このまま大人しくしていよう。ジッとしていれば誰かが助けてくれ――無理だ、死にたくない。この二人がスゴイだけで大多数の人間は俺と同じだ。死にたくないし、死んでも他人を助けようなんて思わないだろう。


 だから、俺は……そっとカツキから手を離した。


「何をしてるんだ? ジン、走るぞ!!」


 カツキが必死な形相でそう言ってくる。何事かとヘルガも立ち止まってこちらを見ている。


「………」


 二人の足手まといになるから、そんな殊勝な心構えから手を離したわけじゃない。体力は限界に近いが、捻りだせばまだまだ走れるだろう。


 だけど、俺はこのまま死にたくない。

 首を回して後ろを見ると、砦から逃げ遅れてヒュドラの周りを鼠のようにしつこく逃げ惑う人々がいる。着実に距離が縮まっていた。


 その光景を前にして心臓が高鳴った。熱が全身を駆け巡る。

 恐怖の象徴だったヒュドラの姿が、腹が減って弱った蛇に見えたからだ。


 生きるためにはどう動けばいい。

 簡単だここでヒュドラを倒すしかない。


 生きるために頭を使え!!


 顔をヒュドラから二人がいる正面に戻す。


 餓えた目で獲物を探しているだけで、知能の知の字すらヒュドラの罅割れたような瞳からは感じ取れない。アイツは計画性なんてものはなく、無暗やたらと食べているだけだ。なら、俺たちが囮になって足止めをすればここで食い止めらるんじゃないのか?


 挟み撃ちみたいな感じで……


 でも、間違っていたらどうしよう。俺のせいで取り返しのつかない事態になる。トラックに轢きかれて死んだときのことを思い出す。出血でだんだんと体温が低下していく恐怖をしっかりと覚えている。脳裏に刻まれたトラウマの一つだ。


 次に思い浮かんだのは賽の河原と、グリフォンの巣での出来事だ。血が沸騰するほど昂り、『死にたくない』『生きたい』と無様なほどに足掻いていた。


 そしてこのままじゃあ、ヒュドラに轢き殺されて終わりだ。蜘蛛の子を散らすように逃げても根本的には意味がない。だって、この戦いはエルフの里にヒュドラが着くとその時点で負けみたいなものだ。


 少なくない死者を出して、故郷すらも守れない。

 それが結末ならば悲劇以外の何物でもないだろう。


『よく来たな”海賊の娘”。我らが貴様たちを歓迎しよう』

『………助けが欲しい』


 カーリの気難しそうな顔が頭をよぎる。彼女は会議の場でしか顔を合わせていなかったが、初対面のときはすべてが冷たい女性だと感じていた。だけど、里長としての誇りがあり、厳しい言葉の裏側にいつも愛情が見え隠れしていた。


『ずいぶんと珍しい反応をするな、ニンゲン? オマエたちも見慣れているだろ?』『あれは墓標だ。共に生きてきた同胞がこの森で安らかに眠れるように、また迷わずに帰ってこれるようにとオレたちはあそこに魔光石を置いているのだ。この前もオレの友がヒュドラに二人殺された』


 ホヴズの物憂げな顔を思い出す。あの村で友達と言えるほど話をしたのは彼だけかも知れない。根は真面目なんだろうが何処か抜けている。それなのに深刻な事情を胸に秘めて、戦士としてヒュドラ討伐に参加していった。


『遅いわよ。ニンゲン!』『ちょっと、ニンゲン。なんで話すのをやめるの? 続きは?』『うるっさい!!!!』『ニンゲンとエルフのハーフなの。それがワタシの秘密』『フン、最初からそう言えばいいのよ。頑張りましょう、ジ・ン・!』


 最後にヘルガのことを見た。ヘルガは初めて会ったエルフにして、初対面の印象は気が合わなそうだなとあまり良くなかった。だって『ニンゲン』と下に見ながら呼んでくる失礼な少女に悪印象を持たないヤツはいない。


 だけど、関わっているうちに彼女の勝気な性格の中にある優しさに気付いて、それと同時に心に俺と同じ傷があることに気付かされた。


 あの夜に、月が綺麗だったあの夜に、彼女は俺の中で少し特別な存在になった。家族にも誰にも言わなかった心の膿を吐き出して同じ痛みに共感し合えた初めての相手、それが彼女だ。


 ああ、そうだったんだ。俺はたった二週間の付き合いでこいつらのことを好きになってしまったんだ。


 なら、もうやることは決まってるだろ?


 彼女たちの悲しむ顔を見たくない。故郷を失って欲しくない。できるなら笑って欲しい。そして、俺はまだ死にたくない。生きていたい。ならば、俺のその我が儘を押し通す作戦を考えてしまえばいい。


 考えろ!


 考えろ!


 考えろ!


 考えろ!


 いや、信じろ!!


 醜い嫉妬も、劣等感もいらない。やるべきことが分かっている。やらなければいけない理由もある。これ以上は何が必要なんだ? 臆病な自身に言い聞かせてやりたい、後は実行するために動くだけだと。だから、自分を信じて動き出せ。


 だって、もう賽は投げられているのだから……


「そっちじゃない!! こっち、前だ!!!! 前に走れ!!!」


 俺はカツキとヘルガとは真逆の方向に、つまり今も人間を喰い殺して、暴食の限りを尽くしているヒュドラを正面に捉えて走り出した。


 二人は唖然としたように口を開けて驚いた。というか客観的に今の俺を見たら自分でも頭がイカれている行動だと思ってしまう。


「走れ! 前へ!!」


 本能が熱く告げる。これでいいと熱く告げる。


 さっきまでは凍えるほど冷たかった。実は自分には冷たい血が流れているんじゃないのかと錯覚してしまうほど、生きた心地がしなかった。


 周りの意見なんて自分の直感よりも聞く価値がない。それでも俺が耳を傾けてしまうのは自信がないからだ。積み上げたすべてが軽く感じてしまうからだ。でも俺はいくら他人を巻き込んででも自分を信じてみたいって思ったんだ。


 だから、走る。走る。走る。

 

 背中に追いすがる死神を置いて行くほど速く足を動かす。

 他人にどう思われようと知ったことか、死の恐怖という一点ではこの場で最も知っている自信がある。そうだ自信がある。だから、俺は動けている。


 死の恐怖を心の奥底にしまい込み、ただ生きるために動けている。


 現代に生きていて本心から『死にたくない!』なんて願ったことのある人間はどれだけいるのだろう?

 

 というか死にたいなんて口にするヤツには俺が教えてやる。

 死ぬのなんてただ怖くて、苦しいだけだ。もう二度とごめんなんだ。


 だから、貪欲になる。生きるために貪欲になれ!

 

 黒き蛇が俺を見ている。死んだような眼で俺を見ている。いや、ただ馬鹿な獲物に気を取られているだけだろう。だけど、それでいい。


 俺に、少しでも俺に気を取られている間に、リーネが、ヒビキが、シュテンが、エルフの戦士がきっとお前を倒しにやってくる。リーネが言っていたぞ。魔素が濃い場所に行けば再生速度が上がるかもしれないんだろ? 


 俺を喰い殺そうとしている時点でお前は頭が良くない。最善の選択を取れていないんだよ。だから――


 死なないために、生き残るために、俺はヒュドラに向かって駆け出した。


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