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第四十三話 『戦士たち』


 第一作戦”泥沼”は成功に終わり、指揮を執っているカーリの判断により、第二作戦”鎌鼬(かまいたち)”へと移行した。オレがニンゲンたちから又聞きした知識が正しいなら、鎌鼬とは黄泉の国では物の怪の類として知られている。つむじ風に乗って現れて、ニンゲンの皮膚を浅く切りつけて逃げていく――そんな臆病な妖怪だ。


 これに出遭ったニンゲンは刃物で切られたような鋭い傷を受けるが、痛みもなく、傷からは血が出ない。まさにこれから行う作戦にピッタリな名だ。オレたちはこれからヒュドラの首を斬り落とし、傷口を焼き焦がすことで、再生をさせないようにするんだからな。文句はない。その意味では、確かに鎌鼬という名称は相応しい。だが、気に食わないこともある。オレたちエルフの戦士が、そんな臆病な妖怪に例えられたこともそうだけど、それ以上に、ニンゲンもどきが『鎌鼬とは随分と懐かしい渾名ですね。もうボクも忘れていましたよ』と、どこか愉快そうに言い放ったことで、オレの身体に激しい拒絶反応が起こった。いや、誤魔化すのはやめよう。


 オレが嫌だと思ったのは、臆病な妖怪に例えられたからではない。ニンゲンもどきと一緒にされること――それだけは、どうしても耐えられなかった。昔、戦士になろうと頑張っていたオレを嘲るように、ニンゲンもどきこと『音鳴り』のヒビキは「いざ、尋常に!」と槍を鋭く振り回し、シュティレ大森林の中を一晩中追いかけ回してきた。カーリに追いつくためにエルフの戦士として強がっていた()()の精神を、『泣き虫』だった頃の()()にまで戻してしまった。恥だ。カーリの前で恥をかかされた。あの屈辱が、今でも胸の奥に刺さったままだ。


 だが――今はそんなことを言っている場合ではない。なので、オレは笑顔でプライドを噛み殺し、渋々この名を受け入れた。自分でも器の小さいのは分かっている。過去にトラウマを植え付けられたからと言って、それを理由にオレたちの故郷を守ってくれている恩人たちに対して、この態度を取るのははあまりにも幼稚で無礼だ。


 だから、このヒュドラ討伐が終わったら、今までの恨みは一度水に流して向き合ってみようと思っている。エルフ戦士の矜持として。そんなことを考えながら、ホヴズはヒュドラと相対していた。罅割れた琥珀を連想させる蛇の目が、泥中からこちらを睨み上げる。その視線は重く、粘つき、獲物を舐め回すかのようだった。泥の中で身動きが取れないはずなのに、あの目だけは獰猛なままだ。ヒュドラの咆哮が泥中にくぐもり、地鳴りのような振動が足元から伝わってくる。


 九つの頭、その視線を攪乱するためにホヴズは旋風を纏って、弓を曲げる。風が身体を持ち上げ、霊樹の枝葉をざわめかせる。高速で樹々の隙間を移動し、木の葉のように優雅に舞う。だが、エルフの魔法の優雅さの裏には、ヒュドラに向けた研ぎ澄まされた殺意が潜んでいる。


 遥か昔――ドワーフ、ニンゲン、エルフの三種族が対立することとなった古の戦争。その時代、エルフを最強たらしめていたのは、風の精霊様の力だった。敵の攻撃が届くことがない宙を制し、風そのものを刃に変える。泥中で溺れているヒュドラには、手も足も出ないはずだ。八つの首と十六個の目玉だけでは、宙を踊るように移動するエルフたちを捉え続けることはできない。ほら、視線が途切れた。ヒュドラの目が、ほんの一瞬だけ別の方向を向いた。エーギル様の攻撃を避けるために。その隙間に、風が流れ込む。チャンスだ。オレは自分の身体を、風で押し出すように前へと滑る。そして――


「……風刃よ!」


 ヒュドラの頭上で、同胞たちと風の精霊様の力を合わせ、鋭い風刃を生み出した。空気が裂ける。風が唸り、刃が走った。霊樹の葉がざわりと震え、シュティレ大森林の風に緊張感が走った。そして、ヒュドラの首が激しい血飛沫を上げて、叩き斬った。切断面から噴き出した夥しい量の血が、泥の上に赤黒い花を咲かせる。その花は、すぐに泥沼に飲まれ、消えてしまった。風が吹き抜ける。ホヴズの髪が揺れ、乱れ、弓弦が微かに震えた。第二作戦”鎌鼬”はまだ始まったばかりだ。





 ※※  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※





「負傷した者を下がらせろ!! まだ余力のある者はこのまま攻撃を続けろ!!」


 ヨルズ様の激励が、シュティレ大森林を激しく震わせた。一喝。彼女の声に応えるように、同胞たちの胸に再び闘志の火が灯る。勢いを増す。風を纏った矢が空間そのものを裂き、風刃が鋭く走り、炎の精霊様の火炎が泥中を激しく照らす。炎威。陽炎。焦げた肉の臭いが漂う。ヒュドラの頭の一つがさらに燃え落ちた。数刻の間、ホヴズたち、エルフの戦士は攻撃の手を緩めなかった。その執念が実を結び、戦況は優勢を保ったまま進んでいる。ほとんど一方的と言ってもいいほどだった。ヒュドラの巨体は泥沼に沈み、身動きが取れていない――はずだった。


「はぁ、はぁ…」


 肺が焼けるように熱い。激しい猛攻を仕掛けた身体が火照っている。喉を渇き、胸が痛む。だが、まだ動ける。まだ戦える。あの後、ヒュドラの首を六回落とすことに成功した。二本だけ再生されてしまったが、それでも順調だ。第二作戦”鎌鼬”は、驚くほど順調に進行している。あと五回――あと五回繰り返すだけで、ヒュドラ討伐は成功したといっても過言ではない。この森から魔素を吸収したとしても、傷口を燃やしてしまえば関係ない。再生できないみたいだ。心臓から溢れほどの魔力があっても、頭を潰せば害がなくなる。その後は……いや、先のことを考えるのはやめておこう。こういうのをがニンゲンの言葉で、『捕らぬ狸の皮算用』と言うらしい。ヘルガから学んだニンゲンのことわざの数々は、オレたちでは思いつかないような発想ばかりで面白い。奇想天外だ。いつか本腰を入れてニンゲンの文化を学んでみるのもいいかもしれない。ホヴズがそんな未来を想像していると――


「おや、ここで気を抜くのは些か早計ではありませんか? 足元を掬われてしまいますよ?」


 背後から、あの気に障る声が聞こえた。ニンゲンもどきだ。まるで戦場の緊張を楽しんでいるかのような、軽い声色。この男は、まだ本当の意味で戦っていない。戦場の中心にいるのに、心はまだ戦場にいない。観客。オレたちエルフの必死な抵抗を鑑賞しているだけの傍観者だ。その事実を理解してからというもの、彼に対して別の感情が燃え上がっていた。仲良くしてやってもいい。やぶさかではない。だが、本気じゃないのなら、戦う気がないのなら……今はどこかに引っ込んでいて欲しい。


「うるさいぞ、ニンゲンもどき。『勝って兜の緒を締めよ』ということだな」


「はい、ボクはそっちの方がいいと思いますよ。いつも先人たちの言葉には教訓が隠れているものです。ボクもいつか残せるのでしょうか?」


「……それよりも、ニンゲンもどき。君はここで何をしている。疲れたのなら後方に下がり休めばいいだろ」


「いえ、いえ、心配いただかなくても。ボクにはまだまだ余裕がありますよ」


「なら、無駄口を叩いていないで戦うべきだよ。口を開けば体力が消耗するからね」


「おや、手厳しい。ですが、ボクもここにいる間にも自らの務めは果たしているんですよ? ほら、あれを見てください」


 余裕、その単語を口にできる者が、どれほどいるだろうか。ニンゲンもどきは、持っていた刀をヒュドラに向けた。彼のその仕草は妙に堂に入っていて、洗練されていて、戦場の混乱とは不釣り合いだった。


「二つの頭でボクの動きを見張っているでしょう? こうしている間にも囮としての役を実行しているんですよ。それにしてもヒュドラは単一個体のはずですが、舌で出す音で意思疎通を図っている。実に興味深いですね。もしボクが学者だったなら眉唾物でしょう」


「……さっきから君は、ボクを馬鹿にしているのか? 言い回しがいちいち面倒くさいよ」


 彼の声音は戦場に似つかわしくないほど落ち着いていた。まるで、目の前の怪物を観察対象としか見てないような冷淡さ。彼の言葉に、胸の奥がざわりと揺れる。怒りか、嫌悪か、それとも――不吉な予感か。


「それは、すいません。ボクのこのお喋りな性格は性分ですので不快にしたなら謝ります。……ですが、不退転の覚悟を持ってヒュドラ討伐に臨んだはずなのにここまで一方的だと何だか興醒めですね」


「……おい、口を慎め。同胞が喰い殺されたオレたちの前でよくもそんなことが言えたな。彼らは勇敢なエルフの戦士だった。彼らの死は意味のある死だ。もしそれを侮辱するなら徒では済まさないよ」


「戦士でも、侍でも死に意味はありませんよ。あるのは誉だけです。まあ、それよりもホヴズさん。何か気付いたことがありませんか?」


「…………いや、もういい。それよりも何かって? 君の態度は指摘するだけ無駄だ、ということにはもう気付いているよ?」


「ボクの勘違いでなければ、先ほどから火の精の攻撃だけはしっかりと避けてるんですよね。ボクや風刃、弓矢による損傷は再生するから気にしないようにしたのでしょうか? もし、そうなら勘所はいいようですね」


「……ああ、ボクも君と同じことを考えていたか。ヒュドラにはオレたちとは違い知性などないはずなんだがな。でも、たぶんそのことはカーリたちも気付いているよ。敢えて皆に言わないのは作戦には支障がないと判断してのことだろう。だって残っているヒュドラの頭は五本なんだしね。このまま順調にいけば……」


『数刻もすれば終わるだろう』と、ホヴズが口にしようとしたその刹那――ヒュドラの凶悪な顎の一つが、まるで甘い考えだとホヴズを嘲笑うかのように大きく開き、自らの躰へと食らいついた。噛み千切る。オレたちが火の精霊様の加護を借りて、焼いて塞いだはずの部位を。もう二度と復活するはずのない場所。そこへ、ためらいもなく、噛みついた。


「な、な、何をしているんだ、アイツは……」


 声が震えた。思考が凍りつき、言葉が喉に張り付く。理解が追いつかない。いや、理解なんてしたくなかった。最も悪質で、最も望ましくない未来。本来なら避けるべきはずの未来が、目の前で現実になった。音もなく形を成してく。

 

「……知性はなくとも知能はあるようですね」


 隣で同じ光景を見ていたはずのニンゲンもどきが、ニッコリと笑った。愉快そうに口角を端を吊り上げていた。彼の顔は、愉悦に濡れていた。異質の光。ホヴズには何が面白いのか分からない。むしろ、心が折れそうだった。だって、だって――ヒュドラの巨大な牙が、噛み千切った箇所からは、骨が痛々しく露出している。血ではない何かどろりとした粘着質な体液が漏れ出している。凄惨な傷だ。だが、まだ器官が生きているようだ。


 傷口から蠢く肉が徐々に盛り上がっていくのが見えた。筋肉繊維が編まれていく。熟練の陶芸家が急速に回転する轆轤(ろくろ)の上で、柔らかい粘土の塊を成形するみたいだった。押され、潰され、引き伸ばされて、元の状態に戻されていく。潰れたような不細工な眼球が、ぎょろりとこちらを睨みつけていた。蛇の目が、失ったはずの眼球の光に敵意の火を灯す。


 背骨と肋骨の隙間を編み込むように赤々とした筋肉の鎧が一瞬の内に形成される。その上から皮が張り、最後に黒い鱗が覆い尽くす。エルフの戦士だけでは、太刀打ちできないほど硬く、丈夫な黒い鱗が元通りになったのだから笑えない。ヒュドラの頭が、新たに二つ現れた。燃やしたはずの傷口から。もう動かないはずの場所から。二つの頭が出現したのだ。


「やってられないよ。それは、さ……」


 怒りか、絶望か。もうホヴズは自分の感情すら分かっていない。七つの頭が、じっとこちらを睨む。討伐を始めた頃よりも頭の数は少ないはずなのに、圧増した。いや、単純なことだ。頭が一本増えたからだ。燃やし塞いだ頭の一つから、二本の頭が出現した。その事実だけで、膝が折れそうになる。絶望が希望を覆い隠す。


 オレたちが焼き塞ぐことに成功した傷口は全部で四カ所。そのうちの一カ所から、二本の頭が生えた。まるで分裂したかのように、二本の頭が生えたのだ。残りは三か所。つまり、ヒュドラはさらに六本も頭が増える可能性があるのだ。合計、十三本だ。自分で自分の傷口を食らうことによって、十三本の頭が生える。想像した瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。


「絶望する必要はありませんよ。簡単なことです。つまり、ボクたちは焼いた傷口を噛まれないように立ち回らないといけなくなったというだけのことです」


「あ、ああ、そうだな」


 虚勢すら張れない。煩わしいニンゲンもどきの言葉が、聞き取れなかった。遠くで響く雑音のように聞こえる。カーリも、ヨルズ様も、『海賊の娘』リーネルも――全員の顔が一瞬、絶望に歪んでいた。絶望の色が差し込んだ。笑っているのはただ一人。『音鳴り』のヒビキだけだった。イカれている。気が狂ってしまったんだ。素直にそう思った。それしか感想が出なかった。だけど――


「まだだ!! まだ、終わっていない!!」


 絶望に立ち向かう者もいた。シュティレ大森林に、ひときわ強い声が響いた。


「オレたちで討ち取ると亡き同胞に誓ったではないか! 火の精霊様に誓ったではないか! オレたちは死してなお果敢に戦い抜くと!! エルフの戦士なら下を向くな!!」


 リサナウト。ホヴズの古くからの友人であり、誇り高くエルフの戦士の一人だ。彼の叫びは、魂そのものを震わせるようだった。この状況でも、いやこんな状況だからこそ、彼はエルフの矜持をホヴズたちに示した。何のために戦うのか、その覚悟を再び問う。もう一度立ち上がるのには、十分な効果があった。


 ――まだ立てる。


 ――まだ戦える。


 今日だけで何度目だろう。今日だけでオレの一生分の絶望を味わった気さえしてくる。絶望に打ちひしがれ、その度に誰かの強さを目の当たりにした。誰かの持つ心の強さに救われた。負けてたまるかと奮起している。強さとは、肉体でも魔法でもない。強さとは、折れない心だ。そうだった、オレはまだ勘違いをしていた。強いというのは肉体の強度が全てではない。ましてや魔法でもない。心だ。何が起こっても折れない心こそが本当の強さだった。


「オレの風刃が何としてでもヤツの首を斬り落とす!! オマエたちはそれに合わせ――」


 リサナウトの背に、妖精の羽が見えた。風の精霊様の加護が彼の身体を優しく包み込み、周囲の風を支配する。その姿は、まるで風そのものを味方につけた戦士のようだった。旋風を巻き起こし、彼は屈強な身体ごと迷いなくヒュドラに突っ込んでいく。宙でエルフの戦士に指示を飛ばしながら、ヒュドラに強襲する。風刃が、唸りを上げる。研ぎ澄ませる。ヒュドラの頭を叩き斬るために、シュティレ大森林に流れる風がリサナウトの身体の周りに渦を巻く。その瞬間だった。リサナウトの身体を守護する風の精霊様の加護。それが、ふっと掻き消えた。


「……テ……ッ…グ……ァ……」


 風が一気に霧散した。リサナウトのは喉を押さえ、苦しみに身体を折り曲げた。喉を押さえて悶え苦しむ。風の奔流がリサナウトの制御を失い、周囲で暴発する。風が牙を剥いたかのように荒れ狂い、彼の身体を容赦なく霊樹に叩きつけた。彼の身体が急速に落下していく。重力に引きずられるように沈む。霊樹の葉よりも重たい彼の身体は、風の精霊様の加護を失った途端、静かに、無様に落下していく。希望が打ち砕かれたような錯覚に襲われた。空中から無残に落ちていく彼の姿が、まるでオレたちの未来を暗示しているように見えたからだ。


「リサナウト!!!」


 気付けば、ホヴズは駆け出していた。思考よりも先に身体が動いていた。友の名前を叫びながら。風の精霊様の力を借りて空を飛ぶ。落下する友を必死に抱き留める。落下する彼を死なせないように、その一心で、必死に手を伸ばした。間一髪、ホヴズは宙で彼の身体を掴んだ。だが、胸に広がるのは安堵ではなく、深い困惑だった。何でだ。何でリサナウトが?

 

 攻撃を受けたような外傷はない。ヒュドラの攻撃が届く距離でもなかった。オレたち、エルフの戦士の領域だったはずだ。安全圏のはずだった。なのに、彼は苦しんでいる。分からない。でも、考えなければ。助けなければ。胸の奥が焦りで焼けるように熱くなる。どうすればいい? このままだと、リサナウトが死んでしまうかもしれない。どうするのいいんだ? オレは――()()は何をすれば。


「貴様ら!! 毒だ!! 我らの領域にヒュドラの毒が吐かれた!!」


 泣きそうになりながら迷っていたボクの耳に、ヨルズ様の声が鋭く突き刺さった。


 ――毒? 


 それって、あの透明な液体なことか。確かに、ヒュドラの毒は強力だった。生命力に満ち溢れた霊樹を枯らし、生命の肉体を蹂躙するように溶かしてしまう。溶解液。掠りでもしたら、ボクたちでも命の保証はなかった。でも、それだけだ。それだけだったはずなのに。ボクは――いや、オレは必死に視線をヒュドラに戻す。だけど、何も見えない。涙で濡れた視界は揺れ、焦点が合わない。呼吸が浅くなる。何も分からな……いや、あれはなんだ?


 ヒュドラの足元、泥沼の中に浮かんでいる紫色の液体。どんよりとした色彩が、泥の上で不気味に揺れている。まるで、そこだけ世界が腐り落ちているかのようだった。『いつから?』『どこから?』そんな疑問が頭に浮かぶ。だが、すぐに辻褄が合った。毒。あれが、毒だ。万物を苦しめ、死ぬ至らしめるヒュドラの猛毒。それが気化し、エルフの戦士の領域に――空中へと広がったのだ。では、今までの透明な液体は、消化液。肌が触れただけで一瞬で溶けてしまったが、あれはただの消化液。ただの前座。本命は、こちら。シュティレ大森林の空に、毒の霧が立ち込める。晴れることのない毒の霧、それがゆっくりと広がっていく。すると――


「……なるほど、やけに拍子抜けだと思っていましたが本命はこちらでしたか。そこまで大柄な体躯をして毒が隠し玉というのは、やることが妙に狡いというか、卑怯というか。……いや、邪に落ちた蛇に誉を求めることが間違いでしたね。ならば、ああ、なんと面妖な生き物でしょうか!」


 ニンゲンもどきの声が、妙に楽し気に響いた。絶望は畳み掛けるように襲ってきた。ヒュドラは細長い舌を揺らし、嘲笑うようにこちらを見ていた。絶望をしたオレたちの顔をじっと見ている。煽っている。多頭が上顎と下顎が外れたように大きく開き、まるで喰い殺してやると言わんばかりに嗤っていた。


 僅かでも、ヒュドラ討伐に参加した全員の表情に影が差した。己の死を意識したのだろう。死が、現実として迫ってくる。想像に難くない。ヒュドラの毒を吸い込んでしまい、身動きが取れなくなってしまい。全身を内側から刺されるような苦しみの中、ヒュドラの鋭い牙で身体を裂かれて喰われて死ぬのだ。胃に辿り着くころには、もう意識は途切れているだろう。現実感がある死が、泥沼を這うように近づいてくる。想像したくもない未来へと心が堕ちていく。 


 そんな絶望の渦中でも――カランコロンと下駄を鳴らして笑う者が一人だけいた。『音鳴り』のヒビキ。彼はいつもの能面のような貼り付けた笑みをしていなかった。獲物を前にした獣のように、隠しきれない獰猛さが滲み出ていた。凶悪な笑みを浮かべている。ヒュドラの多頭を前にして、『音鳴り』のヒビキは、やっと自身の本性を剥き出しにした。そして、周りの誰にも自分の声が聞こえていないことに気付いた瞬間、彼はようやく本音を語った。


「これで、やっと面白くなりましたね」

 

 ヒビキの声は、血が滾るほどの愉悦に満ちていた。誰にも理解されることのない一人の侍としての――いや、一匹の獣としての本音をヒュドラを前にして初めて漏らすことができたのだ。恐怖でも怒りでもない、純粋な歓喜だけがそこにあった。仲間たちが絶望に飲まれかけているこの瞬間に、彼はようやく心の底から笑えたのだ。まるで、ずっと待ち望んでいた本当の戦いが、ようやく幕を開けたと言わんばかりに。




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