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第四十二話 『ヒュドラ討伐作戦開始』


 シュルシュルという威嚇音が、シュティレ大森林の静寂を切り裂いた。蛇特有の威嚇行動だ。ヒュドラは、オレたちが足場にしている霊樹の枝よりも遥かに巨大な躰を神経質そうに丸め、リーネルが放った火炎を器用に避けている。柔らかい全身の筋肉が波打つように収縮し、その巨体が蠢くたびに、霊樹の幹がわずかに軋み、森に流れる風が震えた。まるでこの森そのものが、目の前の怪物の存在に怯えているかのようだった。

 

 ――だけど、それは好都合だった。


 オレたちの第一作戦”泥沼”を実行するためには、人数が必要だ。ヒュドラ討伐に参戦した全員がこの場に集まる、どうにかして時間を稼がなければならない。ホヴズが吹いた笛の音が、森の奥へと吸い込まれていく。耳を劈くような鋭い笛の音が、樹々の間に跳ね返りながら、遠くへと離れて伝わるのが聞こえる。あの音を聞いた同胞たちが、今まさにこちらへと向かっているはずだ。ここでギリギリまで時間を稼ぐ。たとえオレが死んだとしても。


「矢を放て!」


「風刃を!」


 カーリの号令に従い、エルフの戦士たちが一斉に弓を引き絞る。霊樹の太い枝の上で、数十本の弓玄が同時に軋む音は、戦場の緊張を切り裂くように鋭かった。爽快だった。緊張で張り詰めた空気をさらに研ぎ澄ませていく。ヨルズ様の号令に従い、エルフの戦士たちが一斉に風の魔法を放つ。風刃が生まれる瞬間、シュティレ大森林に流れる風が激しく震え、霊樹の葉がざわりと騒ぎ立てた。風の精霊様がシュティレ大森林の秩序を乱す者へ鉄槌を下すように、鋭い風切り音が戦場を駆け抜ける。


 だが、肝心の矢は、ほとんど使われていない。ヨルズ様のニンゲン嫌いは里全体に根深く広まっている。ホヴズが昨夜、わざわざ頼んでおいたニンゲンが持ってきた鏃は、ほとんど誰の手にも渡ってない。霊樹の上に立つエルフの戦士たちの腰にある矢筒を見ても、黒き矢を携えている者はごくわずかだ。


 少なくとも、ヨルズ様を支持してホヴズたちの里を離れた者たちは、リサナウトと同じように土の精霊様の加護を借りて、霊樹の木肌を削って矢を生み出している。確かに、風刃はエルフの代名詞ともいえる強力な風の魔法だ。強烈な一撃。凄まじい攻撃力を秘めている、当たれば、ヒュドラのあの漆黒の鱗にも浅い傷を刻む程度はできるだろう。手痛いダメージを与えられる。だが、風刃が命中しても逃げられてしまえば意味がない。浅い傷では意味がない。ここで、確実に仕留めなければならないのだ。それなのに、そのはずなのに、誰もニンゲンの武器を使おうとしない。本来なら、弓矢でヒュドラの鱗を剥がして、中身の柔らかな肉質が露出したところに風刃を叩き込むべきだ。それが最も効率的で、最も確実な戦法だ。それなのに、誰もニンゲンの武器を使おうとしない。


「……ッ!」


 胸中でヨルズ様たちへの文句を噛み殺す。押し殺す。そして代わりに、ヒュドラへの恨みを思い出すように思考を切り替えた。怒りと悔しさを、矢に込める力へと変換する。ホヴズは、ニンゲンたちが里まで運んできた黒き矢を番え、弓を曲げる。グリフォンの爪を混ぜ込んだ特注品――これは、グリフォンを神の遣わした神獣であると崇めているドワーフたちには絶対に作ることができない嗜好の一品。まさに、ニンゲンの知恵と技術の結晶だ。


 ニンゲンの学者が調べた知識によれば、蛇という生物には瞼がないらしい。だが、目の表面は常に透明な鱗で覆われていて、それが蛇の眼球を外気から保護しているみたいだ。仕組みは、ニンゲンやドワーフが生み出した鎧そのものだ。そして、それはヒュドラも同様だ。だから、同胞たちの弓だけでは、ヒュドラの目を燃やして逃げることも叶わなかった。透明な鎧が、火の精霊様の加護を弾いてしまうから。そのことを事前に知れていれば、もっと抗う術もあったはずなのに。


「……風の精よ」


 ホヴズは同胞たちの無念を込め、ヒュドラの眼球に狙いを定めて矢を放つ。黒き矢に風の精の加護を纏わせる。そうすることで、川を泳ぐ魚のように矢の軌道を自由に操ることが可能になる。エルフにとっては、取るに足らない技術。できて当たり前のことだ。風に流れるように、真っ直ぐと放った矢は、不自然な軌道を描いて、ヒュドラの眼球へ突き刺さった。一射絶命。透明な鱗を貫通することは叶わなかったが、突き刺すことはできた。これで無力ではない。これを続ければ、ヒュドラの眼球を守護する、透明な鎧を剥がすことができる。


 ヨルズ様たちも風刃で応戦しているが、やはり決定打にはなっていない。数人がかりで放った風刃がヒュドラの鱗に当たっても、金属を擦るような嫌な音が響くだけだった。漆黒の鱗に浅い傷を刻む程度。ヒュドラは痛みを感じている素振りすらなく、九つの首をゆらり、ゆらり、と揺らし、まるでこちらの攻撃を観察して楽しんでいるかのように舌を鳴らした。その余裕が、逆に恐怖を煽る。圧倒的に人数が足りていない。探索効率を高めるためにエルフの戦士を分散しすぎた。この状況では、ヒュドラの首を落とすことは難しい。何でこんなことに……いや、きちんと認めよう。オレたちは心のどこかで侮っていたのだ。ヒュドラ討伐という目的を一つにしたエルフが負けるわけがないと。エルフという種族の傲慢な勘違いが、まだ心のどこかに残っていたんだ。その結果が、この様だ。無様で、情けなくて、涙が出そうなほど悔しい。次の機会があるのなら――いや、生き残ることができたなら、この反省を必ず次に活かさなければならない。


 そんなことを考えていた、その時だった。ヒュドラの九つある首の一つが、海賊帽子を深く被ったニンゲンの少女――リーネルを背後から襲った。その動きは、まるで夕日に照らされた影が伸びるように滑らかで、自然で、そして速かった。ヒュドラの巨大な顎が開き、牙が鈍く光った。その一口は大きく、ニンゲンの少女一人くらいなら抵抗する暇も与えず丸呑みにできるだろう。だから――


「リーネ、後ろだ!!」


 カーリの叫び声が聞こえた。だが、ヒュドラの最高速度を前に、風の流れを読んでいたエルフの戦士でさえ反応が遅れた。リーネルも反応ができていない。気付くのが遅すぎた。間に合わない。カーリたちエルフの長年にわたる狩猟の経験が、冷酷な現実を告げる。絶体絶命だ。まるで、答え合わせでもするかのように、時間がゆっくりと進む。琥珀色の宝石が罅割れたかのような不気味な眼球で獲物(オレたち)の動きを観察していたヒュドラの頭の一つが、獲物(しょうじょ)を嘲るように舌を鳴らした。


 ヒュドラの巨大な牙が、彼女の眼前に迫っていく。迫っていく。迫っていく。迫っていく。そして、少女の柔らかな肌に巨大な牙が触れようとした、その寸前――真上から落ちてきた黒い影が、ヒュドラの頭部を横から吹き飛ばした。轟音。弾く。ヒュドラの巨体が霊樹の幹に叩きつけられ、悲鳴とも咆哮ともつかないつかない甲高い声を上げる。混乱している。ホヴズたちも、何が起こったのか状況を把握するのに数秒の時間を要した。


「何してんだ、死にてぇのか!!」 


「シュテン!」 


 落ちてきた黒い影の正体は――黒き鬼だった。シュテンが、片手に持った棍棒一つで、山のよりも遥かに巨大に感じるヒュドラの横っ面を叩き飛ばしたのだ。全身の筋肉を駆使した彼の強烈な一撃は、まるで雷鳴のような衝撃を伴い、ヒュドラの黒い鱗を粉砕した。怪力乱神、その言葉が現実となった瞬間だった。ヒュドラの巨体が霊樹の幹を伝うように滑り落ち、地面に叩きつけられる。リーネルの危機は、ただの鬼の一振りによって救われた。鬼の怒りの咆哮が、少女の歓喜の声が、森の空気をさらに引き締める。彼の背中は、炎を背負った少女とはまた違う意味で、圧倒的だった。


「よそ見してるんじゃねぇぞ!」


「ありがと」


 リーネルが息を吐くように、気安い調子で礼を言った。彼女の声色は軽いが、胸の奥ではまだ心臓が暴れているのが分かる。普段の彼女なら、どんな危機を前にしても笑って受け流してしまうほど肝が据わっている。心臓に毛が生えている。だが、今は違う。ヒュドラの巨大な顎が自分の眼前に迫った瞬間の恐怖が、まだ彼女の背中に張りついている。それでも、黒き鬼の……シュテンの姿を見た途端、彼女の表情はぱっと明るくなり、心底安心したように笑った。彼のことは事前に聞いていた。しかし、鬼がここまでの剛力を持つ種族だったとまでは知らなかった。怪力乱神を語らずとはいうが、まさか事実だとは。シュティレ大森林の奥に引きこもり、千年の英知を手にしたと称えられたエルフの知識が、常識が、音を立てて崩れていく。


「貴様ら! 油断するな!! そいつの毒は――」 


 今度はカーリではなく、ヨルズ様が全員に忠告するように叫んだ。シュテンがヒュドラの顔面を叩きつけた反動で、ヒュドラの口から漏れた毒が辺りに飛び散ってしまったのだ。その声は鋭く、ヒュドラへの警戒を呼ぶかけるものだった。普段の冷徹さとは違う、焦りと怒気が混ざった声。ヒュドラの毒の恐ろしさを知る者だけが出せる、切迫した叫びだった。まあ、彼女のことだから部外者である海賊に向けた言葉ではなく、エルフの戦士たちへの警告だろう。それでも、ヨルズ様の声に反応できたエルフの二人が、リーネルとシュテンを脇に抱えてヒュドラが狙っていた霊樹から飛び降りた。宙に投げ出された二人は驚いたような顔をして、不安定な姿勢のままエルフにしがみつく。それほどまでに、ヒュドラの毒は危険だった。


 直後――ヒュドラの口内から漏れ出した透明な体液が、先ほどまで彼女たちがいた足場へと降り注いだ。ジュッ、と何かが焼けるような、溶けるような、そんな不気味な音がした。霊樹が、見る見るうちに腐っていく。生命力に満ちたはずの霊樹の木肌が、黒く変色し、砂塵のように崩れ落ちて行く。枯れていく。その光景は、まるでこの森そのものが悲鳴を上げているかのようだった。樹々の落ち着いた香りが一瞬で消え、代わりに鼻を刺すような酸っぱい刺激臭が漂う。


 一滴でも肌に触れたら死ぬような毒。彼女たちに当たらなくて良かった。そう安堵する。だが同時に、背筋が冷たくなった。昨夜、ヒュドラの毒を浴びた同胞の死体を見た。あれは酷い者だった。亡骸は骨がなく、皮膚と片目が少しだけ残されていた。まるで生きたまま融かされたかのような、惨たらしい最期。死ぬにしても、溶けて死ぬのは嫌だなぁ。


 そんな場違いの感想が、ふと頭をよぎる。せめてカーリがオレだと分かるように、形だけは残して死にたい。せめて、カーリとの婚姻の印である耳の装飾だけは残したい。そんな願望が、胸の奥で小さく震える。戦闘中だというのに、柄にもないことばかり考えている。大きな恐怖を前にすると、いつも『泣き虫』な自分が顔を覗かせる。自分勝手で、独りよがりな、『泣き虫』の心。だけど、オレはもうエルフの戦士なのだ。だから、感傷に浸る暇はない。作戦を成功させないと、明日は我が身だ。大切なあの里が、故郷がなくなってしまう。そうやってホヴズが意識を切り替えた、その瞬間。


 ――カランコロンと小気味いい音が聞こえてきた。


 記憶の奥底に残っている嫌な音だ。木を打ちつけるようなあの音が彼の耳に届いた瞬間、ホヴズの身体は反射的に後ろへと振り返っていた。背筋が粟立ち、心臓が一拍遅れて跳ねる。しかし、下駄の音が響いたはずの背後に、もう()()()の姿はなかった。姿形もなかった。ただ、木を打ちつけるような残響だけが、そこに置き去りにされていた。一筋の風が、遅れて頬を撫でる。


「―――ッ」


 影すらも残さない早業に、ホヴズは息を呑む。胸の奥が冷え、心臓がひゅっと縮む。すぐさまヒュドラの――いや、アイツの下駄の音が聞こえた方向へと顔を向ける。いつの間にか、あの()()()()()()()はヒュドラの黒々とした鱗に覆われた頭の上に立っていた。立ち尽くす。黒い髪を靡かせ、興奮で上気した凶暴な笑みを隠すことなく、その美しき刀を突き刺している。彼のその姿は、まるで舞台の上に立つ役者のように堂々としていて、しかし同時に、獲物を嬲る獣のようでもあった。異質で、危険で――美しい。血の花が咲いた。刀身が深々とヒュドラの肉に埋もれているからだ。赤黒い血が噴き出し、鱗の隙間を伝って滴り落ちる。


「ご機嫌よう、そしてご機嫌よう」


 軽やかで、芝居がかった声色。彼はヒュドラの鱗の隙間を縫うように突き立てられた刀をそのまま両手で掴み、重力に身を預けるように落下した。一閃。既に、ヒュドラの首は斬り落とされていた。洗練された一振りに、目を奪われる。急所を狙う静寂の一撃。静謐でありながら、狂気を孕んだ剣戟。彼の刀身の軌道は、まるで時間の流れを切り裂くように滑らかで、一切の無駄がなかった。深々と斬りられたヒュドラの首の一つが、自らが持つ重量に耐えられなくなったのだろう。刀傷が、まるで千切れるように広がっていく。

 

 傷口から、赤黒い血肉が覗く。硬い鱗が蛇皮のように伸びて、プチ、と音を立てて割れた。嫌な音。嫌な音だ。やけに耳の奥に残り、脳裏に焼く。ヒュドラの顔面が真っ赤な血と透明な毒をぶちまけながら、重力に逆らわずに落下していった。大地が揺れた。ひしゃげる。轟音を立てて、落下の衝撃で地面を砕く。霊樹の上に陣取っていたカーリにも振動が伝わった。太い枝が震え、葉が色めき立ち、森全体が息を呑む。一瞬、静寂が訪れた。エルフの戦士たちがホヴズの驚きが伝播したかのように固まった。ニンゲンが、それもたった一人のニンゲンが、ヒュドラの首を斬り落とした。その偉業だけでも、きっと後世に名を語り継がれるほどだろう。誇ってもいい。しかし、彼は――


「……まずは一つ」


 確かにそう言ったのだ。彼の声には、まるで『まだ足りない』とでも言いたげな、底知れぬ余裕を孕んでいた。ホヴズがその光景に呆気に取られていると、半瞬遅れて、エルフの同胞たちがこの場に集ってきた。周りに旋風を纏わせ、空中で身体を捻りながら弓を曲げて、ヒュドラに挑む。あのニンゲンたちに負けないようにと。その中には、カーリの妹・エーギル様もいた。何処を見ているのか分からない、ボーっとした締まりのない顔。天然な性格で、意識せず周囲の皆を振り回す困った人。だが、水の精霊様に祝福された正真正銘の天才だ。穏やかで争いごとが嫌いが平和主義なところが好かれているもう一人の里長。それでも、必要とあれば誰よりも強く、誰よりも非道に戦えるもう一人の里長。ニンゲンとは積極的に関わりたくないが、すべてのニンゲンを恨むことはダメだと思っている者たちのために、カーリとヨルズ様だけではなく、第三の選択士を用意するために里を作った優しい人だ。遅れてきた同胞が果敢に挑む姿を見て、ホヴズもようやく身体を動かした。


 追い風が吹いた。誰も口にはしなかったが、確かにホヴズはそう感じ取った。カーリの頼もしいと語るような笑みが、リサナウトの脳天に一撃食らったような驚きに満ちた表情が、ホヴズが振り上げた水の鞭が、ヨルズ様の悔しそうに歪んだ顔が――ホヴズの直感を正しいのだと証明している。オレも負けてはいられないな……と、そう思い、艶やかな旋風を纏って霊樹の枝を次々に移動する。()()()()()()()が斬り落としたはずの傷口が蠢いていた。再生する前に焼かなければならない。だから――


「……我らも、矜持を示さねばならないな」


「貴様ら、ニンゲン風情に活躍させるな!! 心せよ!! ヒュドラは必ず我らの手で討つ!」


 カーリとヨルズ様の声がはっきりと聞こえた。二人の声に背中が押され、胸が熱くなるのを感じる。だが、誰も雄叫びは上げない。オレたちエルフの戦士は、自らの働きのみで矜持を示す。それが、最強を自負するものの義務だから。ヨルズ様の宣言に合わせるように、空中を浮遊していた同胞たちが、一斉に火の精霊様の加護を借り、灼熱の炎を放った。ヒュドラに灼熱の炎が襲い掛かる。肉が焼ける音がした。そして、肌を刺すような熱風が森全体に押し寄せてきた。呼吸がしにくい。口を開けていると、熱波のせいで喉の奥が焼けるからだ。焦げ臭い。あまりの熱に肉が真っ黒になるまで燃焼し、血が蒸発した臭いだ。


「……どうだ?」


 炎によって生み出された熱波が収まっていく。空気が熱で揺らぎ、焦げた臭いが鼻腔を刺す。視界が晴れていくにつれ、ホヴズは焼け焦げた地面の上に残された結果を目にした。見ると、蠢いていて剥き出しの皮膚の内側が跡形もなく焼け焦げている。残っているのは首の付け根部分と、石炭のようにボロボロと崩れる肉片だけだった。炭化した。酷い有様だ。まるで命そのものが焼き尽くされ、灰へと還ったかのようだ。灰燼に帰す。霊樹の表面も軽く焼け焦げている。ヒュドラの首の一つが、完全に消滅した。これで残りは八本。あと八回、これを繰り返すだけで、ヒュドラを討てる。脈々と受け継がれてきたオレたちの故郷に、無残に喰い殺された同胞の亡骸に、報いることができる。


「あれが噂に聞くエルフの戦士ですか……。確かに凄まじい威力ですね」


 真横から聞き慣れたくない声がした。ホヴズは反射的に振り向く。すると、青い独特な装束に身を包んだニンゲンの男がいた。ニンゲンもどきだ。いつの間に近づいてきたのか分からないほど、気配が薄い。まるで風の流れに紛れ込んでいたかのように、彼は自然にそこに立っていた。血の臭いはしなかった。その姿は、戦場の混乱の中にあっても一切の乱れがない。息も上がっていない。衣の裾は風に揺れているのに、彼自身は微動だにしない。この森の方が彼に合わせて動いているかのような、そんな錯覚すら覚える。


「おや、気付きませんでした。偶然ですね?」


 ニンゲンもどきは、ホヴズが彼ことを見ていることに気付くと、柔らかく微笑んだ。目を合わせる。その笑みは、いつもの慇懃無礼なものではない。貼り付けたような作り笑顔ではなく、ほんのわずかに口角が上がっただけの、自然な表情だった。本当に関心したような表情だった。だが、その自然さが逆に恐ろしい。戦場の只中で、ヒュドラの血と毒と魔法が飛び交い、焼け焦げた肉の臭いが充満するこの場所で、彼だけがまるで別の世界を見ているような落ち着きを見せている。


 その黒き瞳は、焼け焦げた肉片を見ても揺れない。霊樹の表皮が黒く焦げ落ちている様子を見ても、眉一つ動かさない。まるで、こうした惨状を見慣れているかのようだ。いや、見慣れているどころではない。楽しんでいる。彼からはそんな気配が、言葉の端々から滲み出していた。ホヴズは喉の奥がひりつくような錯覚を覚えた。熱波のせいではない。エルフの戦士たちが誇りを、命を、大切な故郷をかけて、戦っているこの戦場で、彼はただ興味深そうに戦いの行方を眺めている。それが、何故か許せなかった。


「まだだ、見ておけよ。オレたちエルフはこんなものではないぞ!」


「はい、それは楽しみです」


 オレは真っ正面から殴りかかるようにそう告げた。彼の一挙手一投足がホヴズの神経を逆撫でする。しかし、それは問題ではない。問題は、彼がオレを舐めていることではなく、オレの同胞をも侮っていたかのような顔をしたからだ。そうじゃないと、あの心底驚いたといった目はできまい。あれは、彼らのことを下に見ていないとできない目だ。そう言い放った瞬間、背後から緊張感のない会話が聞こえてきた。


「あら、ヒビキ。遅かったじゃない。道にでも迷ってたの?」


「いえ、ただジン君と少し話し込んでしまいまして。まあ、そのせいで美味しいところはリーネに全て持っていかれたようですが……」


「それは仕方がないわよ。あなたは私たちと正反対の位置にいたんだから」


「ってか、それでよく間に合ったな。いくらお前でも周りのエルフよりも来るなんて不可能だ。それこそ笛を聞こえるよりも速く動かねぇと……」


「はい、血の匂いを辿っているといつの間にかここに着いていました」


「……それが本当ならお前はもう、いよいよ人間じゃねぇよ」


 戦場の真ん中にいるとは思えないほど緩い会話。ヒュドラの咆哮も、焦げた肉の臭いも、まるで彼らには届いていないかのようだ。ホヴズは思わず眉をひそめる。本当にこのニンゲンたちは、ヒュドラの姿が見えていないのではないかと、そんな疑問が浮かぶほど、ニンゲンたちがまるで世間話でもするかのように霊樹の上で会話している。この戦場で、だ。

 

「今に見ていろよ。ニンゲンもどきめ」


 ホヴズはそう小さく吐き捨てて、霊樹から三人を残して霊樹の枝から飛び降りた。宙に浮かぶ。身体を優しく包むような旋風が巻き起こり、重力が一瞬だけ消えたように感じる。風が背中を押し、枝葉のざわめきが耳をかすめる。


 順序が滅茶苦茶になってしまった。先にヒュドラの頭を一つ斬り落としたが、第一作戦”泥沼”はまだ実行できていない。このまま重症を負わせても、魔素の濃いこの森の中心に行くと回復してしまう恐れがある。それは絶対に避けなければならない。リサナウトとヨルズ様の二人が目線で合図を送ってきた。全員もう配置に着いているようだ。


「これより第一作戦”泥沼”を実行に移す!!」


 霊樹の上からカーリが高らかに宣言した。彼女の声は、森全体を震わせるほどの力強さを帯びていた。ホヴズは地面に両手を突く。体内に流れる魔力の渦が、周辺の魔素に影響を与えていくのが分かる。体感する。霊樹が、大地が、空が――ホヴズたちの魔力に呼応するかのように震えた。シュティレ大森林のそのものが、戦いに参加しているかのようだった。この森の鼓動が、手のひらを通して伝わってくる。


「……地の精よ、水の精よ」


 頭の中のイメージが、熱を帯びていく。地面が激しく揺れた。大地を細かく崩すようなイメージで揺らす。土の匂いが立ち上がる。ここまで大規模な魔法の行使は初めてだが、手応えはある。上手くいっているみたいだ。樹々の根に苔むすように生えていた魔光石に罅が入り、割れた。突如、ヒュドラを中心にして巨大な円を描くように地面が液状化し始めた。土が溶け、泥が渦を巻き、ヒュドラの巨体を沈める。飲み込んでいく。これが、山のように巨大な胴体に九つ首を持つ大蛇の姿を借りた怪物・ヒュドラを討伐するための第一歩だ。強靭な四本の足が、巨大な胴体が、忽ちホヴズの視界から消えてなくなった。

 

 ヒュドラが泥沼の中で足掻くほど沈んでいく。これで逃がすことはない。シュティレ大森林で最も魔素の濃度が濃いエルフの里に向かうこともできない。オレたちはヒュドラの足止めに成功した。その成果を伝達するように、ヨルズ様が炎を空高く打ち上げる。打ち上げた炎の残り火を追うように、ホヴズたちの視線が流れ、彼女の姿を見つけると同時に止まる。止めた視線の先には、オレたちの里長――カーリの姿があった。カーリは霊樹の上に腕を組んで立ち、ヒュドラが泥中で藻掻く姿を見下ろしていた。炎の残火が彼女の髪を照らし、揺らしている。だが、ヨルズ様が出した合図に気付くと、大きく息を吸い込み、声を張り上げた。


「貴様ら! 第一作戦”泥沼”は成功した!! これより第二作戦”鎌鼬(かまいたち)”へと移行する!!」


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