第三十七話 『ヴァイキング 後』
殺伐とした雰囲気で始まったはずの”海賊”と”ヴァイキング”の話し合いはボクの想像を良い方向に裏切る結果になりました。かなり順調に進んだのです。
「つまり、お前ら”ヴァイキング”はただ俺たちの下につきたくて今回の話し合いを開いたってことか? 本当に、それだけのためだと?」
「……どうにも信じられねぇな」
「はい、そう言われることは分かっていました。だから直接、お互いに顔を突き合わせての話し合いがしたかったんですよ」
間の抜けた彼の声からは考えられないほど丁寧で、ウィリアムさんはこの場にいるボクたちの信用を完全に勝ち取ったと言ってもいいでしょう。
ボクらが彼を疑っていると下手に出てきて、興味を示すと勢いずく、まるで流れる水のように会話が止まらないのです。そして同時に沈黙の使い方も巧みなのでしょう。彼はこちらに主導権を渡していないのです。
胡散臭いとは思っているのに心の何処かでは信じてしまいそうになってしまうのはきっと彼が天性の詐欺師だからです。彼にはエドワード船長と似たような人を惹き付ける魅力があります。商業ギルドの扉を叩いてさえいればきっと名のある商人の一人として成功を収めることができていたでしょう。
「…お前の話が仮に本当だとしても、後ろのドワーフどもは納得していないようだが? そのことはどう説明するんだよ? お仲間なんだろ? そこの年食った土塊どもは」
「ッ――」
「落ち着いて下さいよ、ザフィーア。ボクらで先に話し合ったじゃないですか? 納得していなくとも共生関係になることは可能だって、そのことだけを彼らに伝えればいいんですよ。他はすべてボクがやりますから、ね?」
「………ああ」
ウィリアムさんは左手を興奮している濃青色の髪のドワーフの肩に置き、平静を取り戻すように促す。
「カッカッカ、見事に首輪されてんじゃねぇか、ざまあねぇな。それで? おめぇの言う共生関係ってのはなんだよ?」
「ボクたちの考えている共生関係とは簡単に言ってしまえばお互いに憎しみ合うのを一度止めませんかという提案です。ただでさえ貴方たちは敵が多いでしょう?」
「あ、どういうことだ?」
「そのままの意味ですよー。含みなんて一切ありません。”ドワーフ”に”海賊”に”ヴァイキング”、三者の過去の行いはすべて水に流してしまいましょう。恨みっこなしってやつです」
「そりゃあ、随分と、都合がいいな」
「そうです。都合がいいんです。貴方たちは知らずにグリフォンの巣からドワーフが神へと捧げた数々の品を強奪した。ドワーフは海賊を何度も襲い、大陸中に悪評を広めて貴方たちの商売の邪魔をした。ボクたちは貴方たちの仲の良いエルフの娘を攫ってしまった。まあ、ヴァイキングの悪行のほとんどは先代が起こしたことなのでボクにはあまり関係ありませんが……」
「……続けろよ」
「ボクたち三者が手を取り合うことができれば、もっと楽になるはずですよね。貴方たちは商売がしやすくなって、ドワーフは黄泉の国の未知の技術を学べる。ボクたちは海賊の影に怯えながら暮らさなくてすむ。一石三鳥じゃありませんか?」
「それが、本当ならな」
「本当ですよー。信じてください! ボクたちは対等な関係を築きたいだけなんですよー」
「すげー胡散臭いな。対等と言うならなんで俺たちの下につきたいんだよ。お前、言ってることが矛盾してるぞ?」
「それは貴方たちへの敬意ですよ。頭の固いドワーフどもが貴方たちの謝罪を聞き入れずこの大陸での商売を邪魔しているはずなのに、あんなに大きな商会になるなんて、はっきりと言ってしまえばボクたちの想像以上でしたから。ねぇ、エドワードさん?」
「……そいつはオレじゃなくて、ヘンリーのヤツに直接言ってやりな。たぶん鼻で笑うだろうがな」
そう言った船長はボクの目には少しだけ嬉しそうに見えました。やっぱり過去の仲間でも褒められたら嬉しいのでしょう。ボクが後で指摘しても絶対に認めないくせに口元を綻ばせるのはあざといと思います。船長は面倒くさい性格です。
「それでどうするんだ。エド? 断るのか?」
「いや、待てよ。……おめぇ、ウィリアムったよな?」
「はい。そうでしたね」
「これは全部おめぇの考えた筋書きかよ? よく頑固なモグラどもにこんな滅茶苦茶な話を通せたなぁ?」
「そうですね、彼らを説得するのには骨が折れましたが……どうやらボクの言葉が響いたようです。そうですよね、ザフィーア?」
「ああ、そうだ」
「プライドの塊みてぇなドワーフどもがこんな人間のガキ一人の御機嫌取りかよ? で、どんな手品だ? 脅しか?」
「ボクの誠意が伝わったとしか、それより……この質問にはどんな意味があるのか伺っても?」
「あ? こんな馬鹿げたことに意味なんかあるわけねぇだろ」
「……もしかして先ほどの条件に何か不満でも?」
「ねぇよ。おめぇの提示した条件には何の不満もねぇ。それどころか、こっちには得しかねぇだろう? 要するにおめぇらはオレたちの下で腰を振って満足したいってことだ。オレたちには得しかねぇわな」
「それが分かっているなら何を悩んでいるのですか? あ、もしかしてボクたちが下につくってところが気に入りませんでしたか? もしよろしければボクが上でもいいんですよ? 貴方たちが頑張って腰を振りたいのならね?」
「ハッ、悪いが、最近は歳のせいか出が悪くてな。頑張りたくても頑張れないからよ、その冗談は笑ってやれねぇわ。それにオレがオレの上に立ってもいいと認めたのは後にも先にもたった一人だけだ」
「それはごめんなさい。でも下心が何もないって信じて欲しいだけなんですよ」
「……ああ、いいぜ。その条件で乗ってやる」
「おい、エド!!」
「なんだよ、耳元で叫ぶな」
下品な会話の応酬が続いていましたが、何やかんやでまるく収まりそうでした。ですが、血相を変えたロロネーさんが急にエドワード船長の首を掴み無理やり止めにかかってしまいました。内緒の話をしています。それよりもボクの胃に悪いこの空気はまだ続くのでしょうか?
「いいのか? 相手は”ヴァイキング”と”ドワーフ”だぞ? 下につきたいってのは明らかに変だろうが? これは罠だ!」
「そうか? 喧嘩するなってママに叱られたのかもよ?」
「茶化すな! 俺は真剣に――」
「黙ってついてこい」
内緒の話のはずが意外と声が大きいです。どのぐらいの声量かというと、二人の後ろに立っているボクが耳を傾ければ普通に聞こえる程度の声量です。ですが、相手に聞こえていたとしても意味はない内容でしょう。
「密談は終わりましたか? なら、もしボクたちの提示した条件で納得してくれたならこの手を取ってくださーい」
「おう! いいぜ?」
そんな返事すると船長はウィリアムさんが差し出した左手に向かって歩き始めた。コツ、コツ、コツと堂々とした足音が五月蠅く感じます。こんなに長い数秒は初めてかもしれません。そして、左手の目の前まで歩いてきた船長は一度立ち止まってウィリアムさんの左手をジッと見ています。無言の時間がとても心臓に悪いです。だけどウィリアムさんは船長の謎な行動についに痺れを切らしたのか――
「これからよろしくお願いします」
と言った。それに反応するようにエドワード船長の左手がウィリアムさんの左手に近づいていきます。ふー。一時はどうなることかと思うましたがこの商談も上手くいきそうですね。安心するとお腹が空いてきました。
”ドワーフ”と”海賊”が手を取り合うというこれまでの歴史から見ても一大事のはずなのにボクの頭はもう夕食のことでいっぱいでした。”ヴァイキング”との因縁については詳しく知りませんがきっと気にしない方が長生きできる案件でしょう。そうだ、今日を記念日ということにして料理長に頼んでお肉を奮発してもらいま――
「おめぇ、嘘吐いてんな?」
ボクの聞き間違えでしょうか? いえ、もしただの聞き間違えならばどれほどよかったのでしょう。そう神に願ったのはこれが初めてのことです。
しかし、ボクが『え?』と口にするよりも船長の動きの方が速かったようです。バンッ、バンッ、バンッ、と淡白な発砲音が辺り一面に響きました。
ゴ、ベチャと生肉の塊でも落としたかのような無情な音と共にボクの目に飛び込んできたのは太腿、胸、頭の三か所に銃創が…いえ、穴の開いてしまったウィリアムさんの死体でした。生きていたとしても致命傷なはずです。だけど……
「ってめぇ、な、んで分かった?」
「あ、何のことだよ? オレは最初に忠告してやったろうが? 嘘を吐いたとオレが思ったら、てめぇの頭を吹き飛ばすってよ。……オレが少しでも怪しいって感じたヤツは皆、オレのことを裏切ってやがった。まあ、オレなんかに好き好んで近づいて来るヤツのほとんどはその時点で下心があるヤツしかいねぇって分かってはいるんだけどよ。だから、オレはよ。怪しい、嘘を吐いたってオレの心が少しでもそう感じた瞬間、そいつをこの手で殺すことにしたんだ。嘗て酒を交わした仲間であってもな。そうでもしねぇと、おめぇらはオレが誰だか忘れちまうだろ? それに、最近はオレも年のせいかな。油断すると自分が誰だったか忘れちまいそうになっちまう。それに死体は喋れねぇからな。もし間違って殺しちまってもバレねぇ。まさに一石二鳥ってやつだ。……なぁ、おめぇもそう思うだろ?」
「クッソ、が、無茶苦茶しやがって、なんで、く、っそ、ぶっ殺し、ってやるからな!」
死骸になったはずのウィリアムさんが再び立ち上がって動き始めたのです。昔、禊木町の外れで起こったキョンシー事件のようです。
「ハッ、ようやく化けの皮が剝がれたか? 頑張って紳士ぶるのはいいが、低俗なおめぇにはそっちの方がお似合いだぜ?」
「クソが、覚悟しとけ、よ。てめぇ、は必ず、オレが拷問にかけて、死ぬほど泣き叫んだ後に、ぶっ殺してやる!!!」
ウィリアムさんの左手がエドワード船長の持っていたピストルに触れた瞬間、内部から破裂してしまった。木っ端微塵に砕け散ってしまいました。だけどエドワード船長は黒い瞳を敵からピクリともずらさずに――
「知るかよ」
バン、とウィリアムさんの頭部を吹き飛ばしてしまいました。
「てめぇら! ボーっと見てんじゃねぇぞ!! つまらねぇ茶番はこれで終わりだ!!」
状況がまだ理解できていないボクに向かって船長は叫んでいた。ボクだけじゃない。ボク以外にも大勢が船長の言葉のおかげで徐々に目を覚ましていく。
「これからは! てめぇらが大好きな殺し合いだ!! 海賊ども!! てめぇらの前にいる間抜け面がくたばるまで!! 思う存分、暴れてやれ!!!!」
血に飢えた獣たちの咆哮がマーメイド・アンズ号を揺らす。こうして戦いの火蓋が切って落とされた。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
クソが、戦況はだいぶ不利だな。
ロロネーは蹲っていた敵の顎を蹴り砕きながら冷静にすべてを俯瞰していた。
「チ、てめぇらのせいで新調した靴が台無しだ」
人数差という一点ではあっちに軍配が上がることは承知に上だったが、かなりいい勝負になっている。やはりエドの不意打ちが功を奏しているのだ。
だが、あっちにはドワーフどもがいる。小さな背丈に反して、鍛冶仕事で手に入れた強靭な肉体は決して侮ることができない。こいつらの魔法も厄介だが、船の上で使えないのだけが救いだろう。
いや、俺が見なければいけないのは目の前のことだけではなかったな。その後のことを見なければならないのだ。
この火の粉をすべて払い除けた後のことを考えろ。
敵も馬鹿ではない。最悪の場合でも俺たちを逃がさないため、今も大砲の照準を合わせているはずだ。そして俺たちの味方は完全に大砲を封じられている。撃てば俺たちにも当たる可能性があるからだ。俺は味方の誤射で死にたくない。
さてと、ならどうするのが最善手だ?
「って、え、ど、ワード!! ど、こだ、ブッコロ、してやる!!!」
うわ、最悪だな。せっかく頭を潰したと思ったのにまた立ち上がりやがった。
「ジェーン!! そいつの首を刎ねとけ!!」
「りょうかい!!!」
大きな鎌を振り回して暴れているジェーンにあの”ツギハギ”の相手をさせる。銃がダメでも、首がなくなれば動けないだろう。
「おっーりゃー!!!」
「ぬん!!」
ジェーンが振り下ろしたはずの鎌を濃青色の髪をしたドワーフが受け止めた。だが、鎌を止めることはやはり容易ではないようで右肩には血が滲んでいる。
「もう!! こいつ邪魔だよっ!!」
「おい、分かってるとは思うが『鎖』は使うなよ? ドワーフどもの馬鹿力に振り回されるぞ!?」
「わかってるよ! オレだって!」
「そうは言うがお前はキレたら周りが見えなくなるだろ? 悪癖だからいい加減直せって」
ヴァイキングどもの頭は潰せそうにないな。ドワーフどもがしっかりと守ってやがる。だけど収穫はあった。ドワーフどもがジェーンを必死になって防いだってことは斬撃はダメなのか。次は海に突き落としてみるか。しかし、しばらくはこのまま接戦でなければいけない。
このまま接戦を演じないといけない。俺たちに負けそうだと判断した陸地にいる敵が大砲を迷わずに打ってくる。そしたら敵もろとも全滅しちまう。ってか、不死身に近いのがボスなんだから、最初からその手札が切れるはずなんだ。
それをしないのはこのドワーフを巻き込みたくないからか? それとももっと別の理由が……いや、考えても仕方がない。
こっちもできれば強力な保険を最後まで温存しておきたい。それにこれは俺たちが、エドのやつが一番したくない策だろう。
「よぉ? 楽しんでるか!?」
そんなことを考えていると背中から誰かが声を掛けてきた。エドだ。さっきまで嘲るように人を殺していたとは思えないほど楽し気な声だった。
「ああ、昔を思い出してなぁ! あっちの大将はかなりタフのようだが、あれは魔法だと思うか?」
「十中八九そうだろうよ。オレの銃が弾け飛んだ、あれも魔法だな。経験則になるが。まさか二つ魔法を持っている人間がいるとはな。これでゴキブリ並みにしぶとい理由がアイツがただ我慢してるだけならまだ笑い話にもなるんだけどなぁ?」
「我慢だぁ? ハハ、そいつは確かに面白いかもな? 二発の弾丸が脳を貫通してるのに痩せ我慢してるだけなのかよ。まさかだけど、お前も同じような真似ができるって言いださないよな?」
「ハッ、オレは魔法を使えねぇよ。知ってんだろうが? なんなら試してみるか? どうせこのままだと大砲に狙い撃ちにされる」
「……それで、何の用だ? 遊女どもへの遺言なら聞く気はないぞ?」
「必要ねぇよ。なぁ、ロロネー。なんであいつらはオレたちに大砲を撃たないんだろうな?」
「そりゃあ、ドワーフどもがいるからだろ? 巻き込んだら協力もクソもないだろ?」
「それなら一か八かで海に突き落としちまえばいいだけだ。あの体型だ。大樽みたいにプカプカ浮かんでくるだろ。そっちの方が遥かに楽だし、効率的だろ?」
「…結局お前は何が言いたいんだよ? さっさと考えてることを話せ!」
エドはどうせ自分でこの状況から抜け出せる最善手を導き出しているはずだ。いつもいつも回りくどいことだが、自分の考えは本当に実現できるのかどうか俺に確認しているだけだ。もうやることは決まってるんだから、俺はただ腹を括ってこいつのすることに合わせればいいだけだ。
「こいつらはオレたちの船が欲しいんじゃねぇか?」
「船だ!? ……いや、そうか。だから俺たちを狙ったわけか」
「ああ、そう考えたらしっくりこねぇか?」
俺たちは海賊の中で最も人数が多い海賊団だ。それと同時に最も海賊船を保有している海賊団でもある。そうか、考えてみたらドワーフどもでもここまで立派な船を造れるとは思えない。ここまでデカい船を造ろうとなると手っ取り早く見本が欲しいはずだ。それで、俺たちに目を付けたわけか……
「俺たちがヴァイキングどもの人質になってヘンリーとの交渉するっていうは?」
「ハッ! オレの左手を吹っ飛ばそうとした奴らが? 考えられねぇよ、最初からな。あの間抜けどもの目を見たかよ? はなから殺気しか感じねぇぞ? よくもあんな馬鹿げた茶番でオレたちを騙そうとしたよな? ヴァイキングどもの浅知恵にしては、まだましだがな!」
「ってことは? あれをするのか?」
「ああ、このゴミどもに破片でもくれてやるのは癪だけどな? だが、全員が助かるためだ。この船は捨て駒にする」
「……それは、好都合だな」
ヴァイキングどもの狙いが分かったことで俺たちの取るべき最善手が見えた。だから、迷わずにこの保険を切れる。
「てめぇら!!! ”手負いの猪”だ!! もう一度だけ繰り返すぞ!! ”手負いの猪”だ!!! 人魚の歌声に誘惑されるんじゃねぇぞ!!」
俺の叫び声を聞き取った船員どもは目の前にいる敵を押し退けて海に身を投げ出した。鈍間なポールは戸惑っていたがジェーンが髪を引っ張って無理やり海に叩きこんだ。
「死んだんじゃねぇか、ポールのやつ?」
「死なねぇだろ、運が良ければなぁ。おめぇもさっさと行けよ」
「…ああ、任せるぞ」
俺はそう言い残して海に飛び込んだ。敵はたぶん動揺してやがるに違いない。ただの自殺行為だ。ただ泳ぐだけならば弓兵どもに狙い撃ちされる。だから、速くしないといけねぇんだぞ。分かってんのか、エド?
泳ぐ、泳ぐ、思考をしないように意識しながら泳ぎ続ける。かなり距離を稼いだつもりだ。ここで一度呼吸のために海面に顔を出す。すると――
「待ちやがれ!!! 絶ってぇ、ぶっ殺してやる!!!」
そんな声が聞こえた。ウィリアムの憎悪に満ちた声だ。
エドはどうだ。失敗したのか?
最悪の想定が頭に浮かんだ。だけど、それがすぐに杞憂だと分かった。エドが汚い笑い声を上げながら海に飛び込んだのが見えたからだ。
よかった、俺がそう思った瞬間――エドの汚い笑い声を掻き消すような爆発が起こった。
海面にいる俺たちにも衝撃が襲ってきた。
内臓を揺れる。
俺の身体が波に飲み込まれないようにするので手が回らない。
次に鼓膜が悲鳴を上げる。破れそうだ。
音がまったく聞こえない。状況が判断できない。
そして最後に熱風に襲われた。
爆発のエネルギーによって生まれた風が、船の破片を巻き込んで周囲に甚大な被害を齎しているようだ。
俺たちは波に勢いよく押されながら陸地から離れていく。まるで人魚が航海者を美しく、誘惑的な歌声で惹き付けているかのようだ。奇跡だ。いや、偶然かな。だけど俺たちは仲間のいる船の方角に戻されている。それだけは事実だった。
やっと爆風の影響が収まってきた。
俺たちは立ったまま泳ぎ続けて船から降ろされるロープを待つ。こうなる可能性も含めて事前に用意していた保険が役に立った。備えあれば患いなしとはよく言ったものだ。
それに顔に似合わず慎重で用心深い、いや、今日ばかりは用意周到と呼んでやろう。用意周到なお前のことだこれも事前に読んでいたんだろ? 昔からお前の鋭い勘が、俺たちを何度も困難な状況から救ってくれたんだ。今回もお前のおかげだ。なぁ、そうだろ。エド?
だけど、そこで俺はやっと自分以外の心配を始めた。
「エドは? エドは何処だ!? 誰か、エドを見ていないか?」
俺の声を聞いた、ジェーンが、ポールが、船員のみんなが辺りを見渡して自分たちの船長の姿を探してくれている。だが、何処からも声は上がらなかった。
誰も声を出さない。
その状況が何十秒も続いたことで、俺はやっと理解した。
だから、俺は急いで後方に、泳いで逃げてきた方向を振り返る。
そこにあるのは船の残骸だけだ。内部に仕込んでいた油を吸った布と火薬が組み合わさったことで起きた爆発の影響で見るも無残な姿へと変貌した俺たちのマーメイド・アンズ号だけだった。
俺は藁にも縋る思いで、マーメイド・アンズ号を見つめ続ける。
変わり果てた船の残骸を、燃えている船の死骸を、ただ見つめ続ける。
見つめ続ける。
見つめ続ける。
だけど、いつまで持っていても、こちらに向かって来る影はない。
エドワードの姿はどこにもない。
この日、俺たちの仲間のほとんどは無事に帰ることができた。交渉は失敗した。だが、傷を負った仲間と無事に帰ることができたのだ。
ただなくなったものが二つある。
一つ目は俺たちと長い間、本当に長い間、一緒に旅をしてきたマーメイド・アンズ号だ。積み上げてきた思い出は多すぎる。しかし、取り返しのつかないものではない。また造り直せばいいだけだ。
そして二つ目は俺たちの船長だ。俺たちをここまで導いてきた羅針盤のような船長がなくなった。下品で、酒が好きで、面倒くせぇ。だけどそれ以上に魅力的で、居場所のなかった船員に家族をくれた恩人で、すべてを敵に回しても一緒に戦いたいと思わせるそんな男だ。いや、そんな男だった。
こっちはもう、取り返しがつかない。
俺たちの船長はこの日、海に飛び込んだあの姿を最後にまるで泡になってしまったかように跡形もなく消えてしまった。俺たちがいくらこの広い海を探してもエドの死体すら見つけ出すことができなかった。




