第三話 『死出の旅 下』
波の音が聞こえた。
ざぶっ、ざぶっ、と遠くから静かに耳の奥をくすぐるような波の音だ。それから心地の良い揺れと肌寒さを感じ、ぼんやりとした頭を叩き起こした。
「……ヴッ、っ、ここは?」
意識がゆっくりと現実へと引き上げられていく。目を覚ますと、俺は木造の小舟に乗せられていた。小舟は古びていて、ところどころヌメヌメとしている。波に叩かれるたびに、木の節々が軋みを上げ、ぴしゃりと波飛沫が顔にかかる。そんな小舟に、老若男女問わず二十人くらいの人間が、まるで荷物のように無理やり詰め込まれていた。
霧が濃く、視界は白く霞んでいるせいではっきりとは分からないが、俺の隣には白装束を着た三十歳ぐらいのぽってりとした男が座っていた。腕から肩にかけて細かな傷を負っていて、白衣の下から血が滲んでいる。その後ろには、花柄の服を着た老婆が静かに座っている。優し気な顔立ちだが、その瞳はどこか遠くを見ているようだ。パッと見て、共通点は見当たらなかった。
皆一様に視線を落とし、会話もない。
誰もが黙りこくり、視線を足元に落としているくらいしか共通点がなかった。よく見ると、彼らの暗い瞳には誰一人として生気が宿っていなかった。まるで、魂が抜け落ちた死人のようだった。虚ろで、深い闇を湛えていそうだ。俺はこの異様な雰囲気に疑問を持ち、霧がかかる舟の上でキョロキョロと周りを見渡していたら——
「……お前こんなところで目を覚ましたのか、めずらしいな」
すると、背後から声がした。青年の声だ。若干、掠れているがとても落ち着いた声色だった。どうやら俺の後ろにいた漕ぎ手の男が驚いた様子で声をかけてきたみたいだ。
「ああ、すいませ——」
ちゃっとだけ安心した俺は声がした方を振り向き話を聞こうとしたが、漕ぎ手の男を見ると同時に言葉に詰まった。その漕ぎ手は俺の予想通り……いや、予想よりも若いくらいの青年だった。黒っぽい着物に身を包み、編み笠を首にかけている。服装の趣味が古臭いこと以外は、何の変哲もないただの青年だった。ただ、朱色の肌に白い一本の角が生えている二点を除いては……
「疲れてるのか? まあ、死天山を超えてきたんだ無理もない。旅は道連れ世は情けっていうしな。安心して休んでろ」
「え、あ、はい……」
彼の言葉に、俺は戸惑いながらも耳を傾けていた。外見に驚いただけだったのだが、彼は何か都合がいい方向に勘違いしているみたいだ。心苦しい。だが、彼がこちらの身を案じていることは言葉の端々から伝わってきた。どうやら悪い人ではなさそうだ。
というか、自分の身に何が起こっているのかまったく分からない。
何が……何が、起こって……いや、そうだ。俺はさっき車に轢かれて……そこからの記憶がまったくない。あの後、俺はどうなってしまったんだ?
というか、ここはいったいどこなんだろう? 病院に運ばれたというわけではなさそうだ。病人をベットの上に寝かせるのではなく、船の上に座らせるだなんて、いくらなんでも開放的が過ぎる。事故に遭った直後なのに、なんで俺はこんな場所にいるんだ。よく見ると、身体には傷一つなさそうだし……
この人は、医者なのか? いや、まず人なのか? 明らかに……鬼みたい……だよな。
何故か、胸の奥がざわつく。異様だ。冷たい汗が撫でるように背中を伝い、じわりと広がっていく。悪い予感がどうしても消えてくれない。もしかして、俺は……俺は、あのまま死んでしまったのか?
いや、そんなことを考えるな。取りあえず今は、冷静になろう。冷静になって、この状況を一度整理しよう。だから、俺は背後に立っている事情を知っていそうな漕ぎ手の男に恐る恐る声をかけた。
「……あ、あの、ここはどこですか?」
「ああ、ここは三途の川だよ。どっかで聞いたことぐらいあるだろう?」
「待て待て、待ってくれ、あ、いや、待ってください。三途の川ってここが?」
「そうだ。その様子なら説明はいらなそうだな」
当然聞いたことはある、聞いたことはあるが……
「まあいい、俺はミレンここで亡者たちを舟にのせて向こう岸へ送る仕事をしている。渡し守だ。お前、名前は?」
「ひ、平坂です。平坂仁……」
「敬語はいらねえよ。川を渡るまでの短い間だがなぁ。よろしくな、ジン」
「え、ああそうか。よろしく……ミレン」
「おう、よかったぜ! 一人だとちょうど暇だったんだよ。少しの間でもいいから、話し相手になってくれよな」
つられて自己紹介をしてしまった。いや違うそうじゃなくて。
「角が生えてるってことは、ミレンは鬼ってことでいいんだよな?」
「そうだ。赤鬼だ。獄卒としてここで働いている、まあまだ下っ端だけどな」
「……あー、そうか」
やっぱり、ミレンは鬼だった。それは予想通りなのだが、問題視しているのは別の部分だ。鬼と一緒に三途の川を渡る、その意味が分からないほど俺だって馬鹿じゃない。
「なあ、俺はこれからどうなるんだ。ミレンが鬼ってことは……俺は地獄に行くのか?」
「そうだよな、やっぱり知りたいよな。これから四十九日間、お前たちは亡者として十王たちからの裁きを受ける。あ、ちなみに十王ってのは閻魔様がたくさんいるって言った方がわかりやすいか?まあ、ともかくだ。それが終わるといよいよ地獄と天国どちらに行くことが決まる。まあ安心しろよ、ジンは天国行きだと思うぜ」
ミレンはそう言いながら、足元に置いてあった提灯を頭の上まで掲げる。霧の中に、いくつかの温かい光が浮かび上がる。霧が濃くて今まではっきりとしなかったが、この川には俺たちが乗っている小舟以外にも何隻か出ているようだ。その証拠に、夕日を彷彿とさせる温かい光を放つ数個の提灯が霧の中で順々と高く掲げられる。何らかの合図みたいだ。
「……なんでそんなことが分かるんだよ?」
「ジンは、奪衣婆たちに服を取られてないだろう? なら、大丈夫だ。まあ、罪問間樹には少しだけ刺されたみたいだけどな。もしかしてお前、自分のことが嫌いなのか?」
豪快な笑い声が小舟の上に響く。ミレンに言われて大人しく視線を下げて見ると、制服に木の枝を引っ掛けたかのような跡があることに気づいた。こんなことをしている間にも、ミレンは片手で器用に小舟を操りながら、ゆっくりと川を進めていく。水面は驚くほど静かで、波の音だけが異様なまでに耳に残る。
「あそこ見えるか? つっても、霧のせいで見えねぇよな。あっちの山から亡者が生まれて三途の川にくるんだよ」
ミレンが顔を向けた方には、険しい山が聳え立っていた。霧のせいでぼんやりとした輪郭しか俺には分からないが、確かにそこには巨大な山が存在していた。
「死天山ってな、鬼にとっても大切な場所なんだ。それになぜかわからねえが亡者たちは全員こっち側にやってくるんだよ。反対に行けば助かったかもしれねえのにな…。いやもう過ぎたことだな、ジンお前にとっても最後の旅、死出の旅ってやつだ。……なんだ、まあ最後まで楽しんでいけよ」
ミレンが一度こちらにチラッと憐れむような視線を向け、それを最後に会話が途切れた。気を使われているのか非常に居心地が悪い。何か言い返そうと、この空気を変えようと、両手でパンッと膝を叩き立ち上がろうとしたのだが、途端に激痛が走り、反射的に腰を下ろした。熔解した銅を流し込まれて型を取られたかのようだ。手足が思い通りに動かない。筋肉痛がスゴイ。俺は視線を再びミレンが言っていた山に戻す。死天山っていうのか……あんな高そうな山を越えて来たんなら、こうなっても無理もないよな……
重苦しい灰色の空が、頭上にのしかかってくる。俺はそんな空を仰ぎ見ながら、ゆっくりと目を閉じた。ふーっと息を吐くと同時に、これまでの人生で感じたことないほどの疲労感が全身を襲ってきた。まるで魂ごと川底に沈んでいくような感覚だった。ミレンが言う通り、俺の身体はもうとっくの前に限界を迎えていたみたいだ。このままゆったりと流れる川に身を任せれば、気持ちよく意識を手放すことができそうだ。だけど、それはダメ。それだけはダメだと、意識を繋ぎとめるために瞼をこじ開ける。
再び目を開くと、すべてが夢だった――なんて落ちはもちろんなくて、さっきまでと同じ景色が変わらずに広がっていた。絶望感がスゴイ。いや、別に本気で期待していたわけじゃない。だけど、ほんの少しだけ、そうであって欲しかった。
いや、でも………そうか……
「ほんとうに死んだのか……おれ……」
あっけなかったな……
死んだといわれても実感が湧かない。呟いた言葉は、霧の中に吸い込まれて消えるせいで実感がどうしても湧かない。だって、さっきまで俺は、葦原と日向と一緒にラーメンに行く途中だったんだ。今日の夜には、明日までに提出するはずだった進路希望表を考えて、学校で退屈な授業をうけて、また同じ毎日を……
ああ、そんなこと……もう考えなくてもいいのか。
あいつらのことも、家族のことも、将来のことも――
だって、もう俺は死んでるんだから。
「ジン、賽の河原がみえてきたぞ」
ミレンの声に従って顔を上げると、向こう岸の河原が見えた。一目見ただけでわかるほど、その河原は異様な場所だと分かった。例えるなら、踏み荒らさせた雪ような、結婚式の花嫁衣装のような、火葬した骨を砕いてまいたかのような、そんな言葉で表現するしかないほど不気味な白い河原だった。
驚きも束の間、目を細めてじっくりと白い河原を見てみると、眼鏡のレンズに汚れがついたのかと勘違いしていたものは船着き場だった。それはとても粗末で、朽ち果てている。風が吹けば飛びそうなほど頼りない。まるで疲れ果ててしまったかのような船着き場だった。
船着き場が見えたことで、目的地が近いのだとすぐに分かった。
もう着くのか……
でも、もういいか。俺にはもうどうしようもできない。
もう思い残すことはない。だって、何一つ頭に浮かんでこない。
だが、十七年も生きたんだ。俺にしてはよくやったよな……大往生ってやつだ。
そんなことを思いながら、俺はもう一度瞳を閉じて意識を手放そうとし――
「おい、お前何を!」
次の瞬間――俺の身体は枷から解き放たれたかのように小舟から三途の川へ飛び込んだ。




