第三話 『死出の旅 下』
波の音が聞こえた。
それから心地の良い揺れと肌寒さを感じ、ぼんやりとした頭を叩き起こした。
目を覚ますと木造の小舟に乗せられていた。
その木造の小舟には老若男女問わず二十人ぐらいが無理やり詰め込まれていた。
霧が濃いせいではっきりとは分からないが、
俺の隣には白装束を着て傷を負った三十歳ぐらいのぽってりとした男が座っており、後ろには花柄の服を着た優しそうな雰囲気の老婆が座っている。
皆一様に視線を落とし、会話もない。
よく見ると彼らの暗い瞳には誰一人として生気が宿っていなかった。まるで死人のようだった。この異様な雰囲気に疑問を持ち、霧がかかる舟の上でキョロキョロと周りを見渡していると――
「お前こんなところで目を覚ましたのか、めずらしいな」
後ろにいた漕ぎ手の男が驚いた様子で声をかけてきた。
「ああ、すいませ…」
声がした方を振り向き話を聞こうとしたが、漕ぎ手の男を見ると同時に言葉に詰まった。
その漕ぎ手は俺と同い年ぐらいの青年だ。
黒っぽい着物に身を包み、編み笠を首にかけている。
服装の趣味が古臭いこと以外は何の変哲もないただの青年だった。
ただ、朱色の肌に白い一本の角が生えている二点を除いては……
「疲れてるのか?まあ、死天山を超えてきたんだ無理もない」
外見に驚いただけだったのだが、何か勘違いしているようだ。
だが、こちらの身を案じていることは男の雰囲気から伝わってきた。
自分の身に何が起こっているのかわからない。
いや、そうだ。俺はさっき車に轢かれて……そこからの記憶がまったくない。あの後、俺はどうなってしまったんだろう?
というかここはいったいどこなんだろう? 病院に運ばれたというわけではなさそうだな。事故に遭ったすぐ後なのになんで俺はこんな場所にいるんだ。よく見ると身体には傷一つなさそうだし……
この人は? いや、まず人なのか? 明らかに…鬼みたい…だよな。
なぜか胸の奥がざわつく。冷たい汗が撫でるように背中を伝った。もしかして……俺はあのまま死んでしまったのか?
いや、そんなことを考えるな。取りあえず今はこの状況を理解しよう。
「え、あ、あの、ここはどこですか?」
「ああ、ここは三途の川だよ。聞いたことぐらいあるだろう?」
「待て待て、待ってくれ、あ、いや、待ってください。三途の川ってここが?」
「そうだ。その様子なら説明はいらなそうだな」
当然聞いたことはある、聞いたことはあるが……
「まあいい、俺はミレンここで亡者たちを舟にのせて向こう岸へ送る仕事をしている。渡し守だ。お前、名前は?」
「ひ、平坂です。平坂仁…」
「敬語はいらねえよ。川を渡るまでの短い間だが、よろしくなジン」
「え、ああそうか。よろしく……ミレン」
「おう!よかったぜ、一人だと暇だったんだ。話し相手になってくれよ」
つられて自己紹介をしてしまった。いや違うそうじゃなくて。
「角が生えてるってことはミレンは鬼なんだよな?」
「そうだ。赤鬼だ。獄卒としてここで働いている、まあまだ下っ端だけどな」
「……あー、そうか」
やっぱりミレンは鬼だった。
それは予想通りなのだが、問題視しているのは別の部分だ。
鬼と一緒に三途の川を渡る。そのことがわからないほど馬鹿じゃない。
「なあ、俺はこれからどうなるんだ。ミレンが鬼ってことは……俺は地獄に行くのか?」
「そうだよな、やっぱり知りたいよな。これから四十九日間、お前たちは亡者として十王たちからの裁きを受ける。あ、ちなみに十王ってのは閻魔様がたくさんいるって言った方がわかりやすいか?まあ、ともかくだ。それが終わるといよいよ地獄と天国どちらに行くことが決まる。まあ安心しろよ、ジンは天国行きだと思うぜ」
ミレンは饒舌に話しながら、足元に置いてあった提灯を掲げる。
霧が濃くてはっきりとしなかったがこの川には俺たちが乗っている小舟以外にも何隻か出ているようだ。その証拠に夕日を彷彿とさせる温かい光を放つ数個の提灯が霧の中で順々と掲げたれる。
「なんでそんなことが分かるんだよ?」
「ジンは奪衣婆たちに服を取られてないだろうなら大丈夫だ、まあ罪問間樹にはすこし刺されたみたいだけどな。お前、自分のことが嫌いなのか?」
豪快な笑い声が響く。制服に何処かで引っ掛けたかのような跡があることにミレンに言われて初めて気づいた。
その間にもミレンは片手で器用に小舟を操りながらゆっくりと進めていく。
「まあいいか。あそこ見えるか、つっても霧のせいで見えねぇか。あっちの山から亡者が生まれて三途の川にくるんだよ」
ミレンが顔を向けた方には険しい山が聳え立っている。
まあ、彼の言葉通りだ。濃い霧のせいでぼんやりとした輪郭しかわからない。
「死天山ってな、鬼にとっても大切な場所なんだ。それになぜかわからねえが亡者たちは全員こっち側にやってくるんだよ。反対に行けば助かったかもしれねえのにな…。いやもう過ぎたことだな、ジンお前にとっても最後の旅、死出の旅ってやつだ。……なんだ、まあ最後まで楽しんでいけよ」
ミレンが一度こちらにチラッと憐れむような視線を向け、それを最後に会話が途切れた。気を使われているのか非常に居心地が悪い。
この気まずい空気を変えようと両手でパンと膝を叩き立ち上がろうとしたが、途端に激痛が走り、反射的に腰を下ろした。熔解した銅を流し込まれて型を取られたかのように、手足は思い通りに動かない。
死天山っていうのか……あんな高そうな山を越えて来たんなら無理もないか……
頭の上にのしかかってくるような重苦しい灰色の空を仰ぎ、ゆっくりと目を閉じる。ふーっと息を吐くと同時に人生で感じたことないほどの疲労感が襲ってきた。
ミレンが言っていた通り、俺の身体はもうとっくに限界を迎えていたみたいだ。このままゆったりと流れる川に身を任せれば、気持ちよく意識を手放すことができそうだ。
だけど、それはダメだと意識を繋ぎとめるため瞼をこじ開ける。
もちろん目を開けるとすべてが夢だった。
なんて落ちはなく、さっきと同じ景色が広がっていた。
別に期待していたわけじゃないが……
いや、でも………そうか……
「ほんとうに死んだのか…おれ……」
あっけなかったな……
死んだといわれても実感がわかない。
だってさっきまで、葦原と日向と一緒にラーメンに行く途中だったんだ。
夜には明日までに提出するはずだった進路希望表を考えて、
学校で退屈な授業をうけて、また同じ毎日を……
ああ、そんなこともう考えなくてもいいのか。
あいつらのことも、家族のことも、将来のことも、
だってもう俺は死んでるんだから――
「ジン、賽の河原がみえてきたぞ」
そう言われ顔を上げると、向こう岸の河原が見えた。
一目見ただけでわかるほどその河原は異様だった。
例えるなら踏み荒らさせた雪ような、結婚式の花嫁衣装のような、火葬した骨を砕いてまいたかのような、そんな言葉で表現するしかないほど不気味な白い河原だった。
驚きも束の間、目を細めてじっくりと白い河原を見てみると、眼鏡のレンズに汚れがついたのかと勘違いしていたものは船着き場だった。それはとても粗末で、朽ち果てている。風が吹けば飛びそうなほど頼りない。疲れ果ててしまったかのような船着き場だった。
船着き場が見えたことで目的地までがもう近いのだとすぐに分かった。
もう着くのか……
もういいか、もう俺にはどうしようもない。
もう思い残すことはない。だってなにも頭に浮かばない。
だが、十七年も生きたんだ、俺にしてはよくやったよな……大往生だ。
そんなことを思い、もう一度瞳を閉じて意識を手放そうとし――
「おい、お前何を!」
次の瞬間――俺の身体は枷から解き放たれたかのように小舟から三途の川へ飛び込んだ。