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第二話 『死出の旅 上』


 最初”それ”はバラバラな状態だった。 

 ”それ”は手も足も、胴体も顔も持たず、輪郭すら曖昧な存在だった。

 ただ、ぼんやりとした光を放つように、空中をふわふわと漂っていた。

 まるで、夜の墓場に浮かぶ人魂のように。


 ”それ”はもう随分と長く旅をしていた。


 時間を知覚する感覚などとうの昔に失ってしまったが、確かに『長い』と感じるほどには、暗闇の中を彷徨っていた。まるで深海の底を、クラゲのようにゆらゆらと揺れ、漂いながら、遥か遠くにある月の光を求めて、終わりの見えない改訂を漂流していた。”それ”はずっと、海の底で月を求めて漂流していたのだ。


 だけど、”それ”の果てしないほど長い旅は、ある日、唐突に終わりを告げた。

 

 烏のような鳴き声が聞こえた。鋭く、乾いた音が”それ”の耳に届いた。気が付けば、”それ”は見知らぬ場所にいた。そこは、殺風景な荒地だった。灰色に濁った空。草がなく、石ころだらけの痩せた土地で剥き出しの岩がてらてらと妖しく光る。


 長い長いトンネルを抜けたかのような達成感の後、”それ”はまるで戸惑いながらも、しばらく辺りをうろついていた。だけど、間もなく、全身を蝕むような異変に襲われた。腐乱していくような、燃え尽きてしまうような、初めて味わう奇妙な感覚に襲われた。じわじわと崩れていくような感覚。


 ”それ”が初めて抱いた感情は、恐怖だった。本能的に『ヤバい、ここにいてはいけない』と悟った”それ”は青白い尾を引きながあ、必死にその場から逃げ出そうとした。だが、遅かった。移動しているところを三匹の子鬼に捕まってしまった。


「よーし、捕まえた!」

「よくやったぞ! 奪精鬼」

「仕事に取り掛かるぞ、縛魄鬼」


 どこから現れたのか、三匹の小鬼は”それ”を取り囲んでいた。彼らは小さな身体に似合わぬ素早さで”それ”を容易く捕らえた。三匹の鬼の小さな白い手に捏ねられ、引き伸ばされ、形を整えられていく。まるで粘土細工を作るように。


「奪精鬼、こいつもういいぞ」

「本当にもういいのか、奪魂鬼?」

「まだ完璧じゃねえがな、もういかせていいぞ。次の仕事だまだまだやるぞ、縛魄鬼」


 三匹の小鬼は口々に言いながら、”それ”の背中をぽんと押した。形を持たなかった存在は、手を得て、足を得て、顔を得た。いつの間にか、”それ”は”彼”に変わっていた。まだ不安定な足取りで、”彼”は大勢の人々と共に岩肌が剥き出しの険しい山道を登り始めた。自分の足でだ。どこへ向かっているのかもわからないまま、命じられるままに。そんな”彼”ら背中を、一匹の年老いた猫だけがじっと見つめていた。いつまでも見つめていた。


 

 ”彼”は自分が何者なのかを覚えていない。

 いや、まだ思い出していないといったほうが正しいのかもしれない。






 ※※  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※





 日が沈み、夜が明けて、日が沈み、また夜が明けた。

 もう何度繰り返したのか分からない。


 ”彼”らの目の前には峨々たる山だけが聳える。


 峨々たる山を蟻のように列をなして、土を踏み固められただけの道とはいえない道をただ登っていた。


 そんな険しい道の途中、鬼たちが待つ小屋があり、等間隔に並んだ痩せた樹々が”彼”らの行く手を阻んでいる。


 墨をぶちまけたかのような黒々とした樹々の枝は針のように鋭く”彼”らを威嚇している。その樹々の隙間へ鬼たちが”彼”らを一人ずつ通していく。


 ”彼”らの先頭にいる作業着に身を包んだ男が樹々の隙間を通った瞬間、突如として枝が伸びて蛇のように噛み付き、飛び散った血が地面に染み込んだ。そのことが鬼たちを喜ばせた。

 だが男は気にする様子もなく血を流しながら前に進んでいく。

 

 鬼の笑い声が近くで響く。

 血の匂いが濃くなった気がする。

 鬼たちは亡者を道具にし、無邪気に遊んでいるようだった。


 そしてついに”彼”の番が来た。

 ”彼”も黄色の鬼に樹々の隙間をくぐらされると枝が”彼”に突き刺さった。

 突き刺さった枝は”彼”の肌まで到達しなかったのか、流血はない。


 血が出なかったのがつまらないのか鬼たちは顔を歪める。

 青色の鬼は”彼”の背後に静かに回り、背中を軽く蹴り飛ばしてこけさせた。

 それを見た周りの鬼たちも青色の鬼と同じようにニヤニヤと薄ら笑いを浮かべる。


 だが”彼”は何事もなかったかのように立ち上がり歩き出した。

 ”彼”はただ目の前の人についていくしかできない。

 ”彼”のそんな後姿を鬼たちは遠くから急いで注意しにきた隻腕の老鬼に「欲をかいたらロクなことにならねぇぞ」と怒られながら、”彼”の姿をつまらなそうにを見送った。

 

 それから何日も何日もまた大蛇のようにうねる坂道を下っていく。


 歩いても歩いても景色はまったく変わらない

 土を踏み固められただけの道を列をなして歩いていく。

 ただ少し変化があった。


 浮いているかのように軽かったはずの身体が、

 時が経つごとにずしりと重くなっていった。 

 

 ”彼”の身体が馴染んでいく、


 まるで生身であったころと同じように…


 いままでの人生を後悔するように…


 両腕は重力に負け、腰を曲げた姿勢でゆっくりと山道を下る。


 順調に山道を下っていくが”彼”らによって踏み均されたはずの山道に段々と細かい小石が増えていき、濃い霧が辺り一帯を覆うようになっていた。霧からは田園を思わせる水気を帯びた土と西瓜の皮のような饐えた青臭さを混ぜたようなにおいが鼻に残る。


 いつからか地面と触れ合った靴裏からじゃりじゃりと砂を噛んだような音が鳴る。じゃりじゃりと砂粒がどんどんと細かくなっていくのが音で分かる。


 ”彼”らは、知らない内に河原にいた。 




 ※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




 霧が立ち込める三途の川に、今日もまた、亡者たちが列をなしてやってくる。


 川辺には、門番さながらの面持ちで待ち設ける二つの影があった。一方は、少し黄ばんだ白い和装の上に、くすんだ赤い帯をした老女。指の先まで皺が刻まれた手からは、長い年月を生きたんだという卑しい自尊心のようなものが滲み出ている。


 もう一方は、つるりと綺麗に禿げ上がった頭部に、真っ白な髭を口元を隠すように生やした老人。睨め上げるような目つきの老女とは対照的に、彼の瞳はどこか眠そうで、何を考えているのかまったく読み取ることができない。まるで、すべてを見透かしているようでいて、何も見えていないような、そんな不思議な目だった。


 互いのことを『奪衣婆』『懸枝翁』と呼び合うこの小柄な二匹の老人は、今日も変わらず、押し寄せる大勢の亡者の前に、堂々と立ちはだかっていた。


「うひょー、今日も大量だね。さてと、お前から服を脱ぎな!」


 奪衣婆が、一際大きな声で叫ぶ。まるで市場の呼び込みのような軽やかで、下品な号令だ。不謹慎ながら楽し気な声に思わず誰かが眉を顰める。


「なあ、奪衣婆なんでこいつらって俺たちのいうこと聞いてんだ?」


 懸枝翁はぼんやりとした口調でそう尋ねる。彼の問いに、今度は奪衣婆が眉を顰め、面倒くさそうに溜息を吐いた。


「……めんどくさい。懸枝翁、おまえさん、本当にボケてんじゃねえのか?そんなこといいからさっさと仕事するよ。ほれ、亡者の服だよ、受け取りな!」


 投げ捨てるようにそう言うと、奪衣婆は無遠慮に”彼”の制服を奪い取り、懸枝翁の寝惚けた顔面に向かって放り投げた。


「懸枝爺さん。彼らはまだ肉体だけの状態ですから、亡者には自我がないんです。だから……」


「無駄だよ、ミレン。前にワタシが説明してやったのに忘れてんだ、このバカ」


 ミレンと呼ばれた赤鬼の青年が口を挟むが、奪衣婆は一蹴する。懸枝翁というと、二人の会話が聞こえていないのか奪衣婆とミレンを無視して、黙々と受け取った亡者の制服を衣領樹という大木に向かって、思いっ切り投げ飛ばした。


 すると、投げ飛ばされた”彼”の制服はそのまま綺麗な放物線を描き衣領樹の一番低い位置にある枝に引っかかった。枝は服の重さでしなりもせず、何事もなかったとすまし顔を浮かべている。 


「このものは大丈夫のようじゃ、通していいぞ」


 懸枝扇の業にミレンが感心していると、奪衣婆が衣領樹に掛けられた”彼”の制服を手に取り、後ろに置いてあった籠に入れた。その一部始終をミレンは偶然見てしまった。


「何をしているんです、奪衣婆さん! それは規則違反です」


「っけ、いいだろ別に。ワタシらの小遣いになるだけだ」


「だから問題なんです。前任者から亡者から剥ぎ取った服を町で転売しているとは聞いていましたが、本当だったみたいですね。このことは報告させてもらいますよ」


 ミレンは怒りを抑えられず、奪衣婆の細い腕から墨を溶かしたように黒い”彼”の制服を力尽くで奪い取った。真っ向から対立するように一歩前に出る。火花を散らす睨み合い。このやり取りの最中も懸枝翁は淡々と次の仕事をしていた。


 これは懸枝翁が大らかすぎるのか、二人のこの言い争いがいつも通りのことだからかは分からない。我関せずといった風に懸枝翁が奪衣婆から渡された別の亡者の服を持ち上げると違和感を抱く。ポケットの部分がやけに重いのだ。そのことを後ろで口汚くミレンを罵っている奪衣婆へ知らせる。


「うん? 奪衣婆、この亡者何か持っているぞ?」


「六文銭か! 懸枝翁そこをどきな!」


「奪衣婆さん、まだ話は終わってませんよ」


「あー、もう! いちいちうるさい奴だな。ミレン、お前も一人前になりたいならとっとと自分の仕事に戻りな!」


 奪衣婆は皺くちゃな顔を不機嫌そうにしかめて怒鳴るようにミレンを追っ払った。鬼にしては珍しい真面目で実直な性格をしたミレンと金に汚い奪衣婆はとても相性が悪い。職場でなければ話すこともないだろう。この二人は些細なことからよくこのような言い争いにまで発展するのだが、今回は割とはやく収まったようだ。


 ミレンはぐっと唇を噛みしめる。そして、ふうっと息を吐き、奪衣婆のもとを離れた。奪衣婆と別れた後、使い慣れない敬語のせいか、肩が妙に凝っている。ミレンは”彼”のもとへ戻ると、制服を優しく着せてやり、そっと背中を押した。船着き場には、縄だけでつながれた小舟が一隻。まるで野良猫の死骸を運ぶために用意されたような、情けない見た目の船だ。そんな小舟に”彼”を乗せると、他の亡者たちも次々と押し込むようにして乗せていく。


 ミレンは地獄道出身の赤鬼だった。獄卒としての任を受けたとき、初めて『人間のことを理解したい』と思った。その思いから、彼は自ら志願して三途の川の渡し守となった。これは、エリートコースである閻魔大王の側近を目指してのことでもある。いや、本音はそこである。彼は将来的に閻魔大王の側近になるという野望があった。そのためには、人間のことを知る必要があると考えたのだ。


 鬼にしては珍しく計算高いが、真面目で融通が利かない。そんな評価を受けることもある。だが、ミレンに言わせれば、他の鬼がいい加減すぎるだけなのだ。


「おーい。ミレン準備できたか? 俺たちはもう出発するぞー!」


 隣の船着き場から、先輩の鬼が大声で呼びかけてきた。どうやら、彼らの舟はすでに出航の準備が整ったようだ。奪衣婆と口論に巻き込まれたせいで、すっかり出遅れてしまった。だが、自分の失敗で先輩を待たせるわけにもいかない。


「すいません。すぐ追い付くんで先に行っててください」


「しかたねぇやつだな……そんなん調子じゃ、まだ別の仕事は任せられねぇぞ」


 軽口を叩かれながらも、ミレンは急いで小舟をつないである縄を手繰り寄せる。ギシギシと危なげな音を洩らす桟橋の上に立って、縄を回収しながら舟を解き放つ。その手つきは慣れたもので、無駄がない。舟がゆっくりと水面に滑り出すと、先輩たちの後を追うようにゆっくりと小舟を漕ぎだした。


 小舟を漕ぐのには、ちょっとしたコツがいる。最初の頃は、舟が揺れてバランスを崩し、何度も水に落ちかけた。鬼は重たく、泳げない。だが、今ではもう慣れたものだ。 舟の揺れに身を任せ、霧の中を進む冷たい感覚が、心地良く感じることもある。


 いざ危険な状態になったら、先輩たちに合図を送るため提灯を灯せばいいだけだ。合図といっても難しいことはしない。この特殊な鉱石を水に浸してやれば、緑色の光が立ち上がり、先輩たちに危険を知らせることができる。それだけのことだ。まあ、もしもの事態なんて起きないに越したことはない。


 やることがなくなり、何気なく亡者たちに目を向けた。今までは先輩と二人でペアを組んでいたから話し相手には困らなかったが、もう教えることがなくなったと言われて、一人で渡し守の仕事をするようになった。それはとても喜ばしいことだった。ただ、話し相手がいなくなると当たり前だが暇になる。手持ち無沙汰だ。濃い霧が頻繁に発生する三途の川では、あまり遠くの景色は見えない。


 音も少なく、ただ水をかく音と、舟の軋む音だけが耳に残る。先輩とのくだらない話から、地獄の噂話まで、退屈する暇がなかった新入りの頃がもはやなつかしい。そんな渡し守の仕事の中で、唯一変わる亡者たち。彼らの顔、服装、年齢。それらを観察することが、最近のミレンのささやかな楽しみになりつつあった。

 

 小舟に乗っている”彼”らの多くに、目立った傷がない。それに、奪衣婆に服を剥ぎ取られていない者も多い。それは、つまり彼らが罪問間樹をくぐっても、身体に傷が一つつかなかったということ。つまり、彼らは根っからの善人だったのだろう。思わず目を細める。ミレンは、憐れむような目を亡者たちに向けていた。


「……可哀想にな。まあ、運がなかったんだよ。お前らは」

 

 ぽつりと漏れた同情に満ちたその呟きは、霧の中へ吸い込まれて消えていく。誰にも届かない。いや、むしろ誰にも聞かれないほうがいい。もし聞かれれば亡者に同情するなと怒られるから。だけど、ミレンは思わずにはいられなかった。


 この舟に乗っている”彼”らは、若くして死んだのだ。きっと、むこうに思い残すこともあっただろう。家族、友人、夢、濃い。何もかもを残して、突然この世界に連れてこられたのだ。だが、もうどうすることもできない。


 亡者たちは、抵抗することもなければ、生き返ることもない。彼らの運命は、ただ川の流れに身を任せ、次の世界へ向かうことだけだ。もしくは……いや、止めておこう。もう、どうしようもないのだ。


 だからこそ、ミレンは思う。せめて、自分の仕事だけは果たそうと。”彼”らが少しでも早く、次の命に生まれ変われるように。そのために、自分はここにいるのだと。そんな風に、自分に言い聞かせる。だけど、ミレンのどこか傲慢な慈愛など関係なく、この小舟は、無情にも進み続ける。


 亡者を乗せて三途の川の波を切り裂き、霧を押し退けながら、小舟は進む。


 ゆっくりと地獄へと……


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