第一話 『唐突な…』
平坂仁は悩んでいた。
十七歳になったばかりの青年は自分の席に腰を下ろして志望校を選んでいた。
教室にはもう誰一人残っておらず、廊下から聞こえる笑い声だけが唯一人の気配を感じさせる。
なぜこんなことになったのか。それはホームルームの後、担任の川口先生に教室から出ようとしたところで捕まってしまい『おい、平坂。明日までに進路希望標を提出しとけよ』と言われ、帰るに帰れなくなった。
うちの高校では大学進学を意識させるために二年生になったらすぐに志望校を決めさせる伝統があるらしい。なので、夕日が差し込むこんな時間まで教室の席で進路指導室から借りた本をめくり、頭を抱えて悩んでいるのだ。
今日は野球部の練習が早く終わると葦原に聞き、昼休みに日向と一緒に近くのラーメン屋に行く約束をしていたのに。こんなことになるならもっとはやく提出すればよかった。
川口先生は『まだ先の話だからそこまで真剣に悩まなくてもいい』と言っていたし、俺もさっさと空欄を埋めて帰りたかったが、親が来る三者面談で参考にするとなれば話は別だ。
今年から一つ上の兄貴が高校三年生になったことで、我が家は本格的な受験シーズンに突入していた。
兄貴の成績はいつも学内上位で、風紀委員長をしている。それと、三年になってからすぐ空手部の顧問から部長にも任命されたみたいだ。この前の高校選抜空手道大会でいい成績を収めたかららしい。先生たちから見ても欠点らしい欠点がないまさに文武両道を地で行くような完璧人間だ。
そんな兄貴……平坂智一が期待されない方がおかしな話だろう。
だが、問題はその大きすぎる期待のしわ寄せが俺にまで来ることだ。
これはもう中学生の頃からだ。
ある日、知らない先輩が話しかけてくれたことがあった。
なんでも先輩は空手部の部長を任されているらしく兄貴の口から弟である俺も空手をしていることを聞き、直接スカウトに来てくれたそうだ。最初はまったく乗り気じゃなかったが、その先輩の勧誘がしつこくて、しぶしぶ了承すると『これで今年の新人戦も楽勝だ』なんて調子のいいことを言って教室を出て行った。
だがすぐにバレた。何がって、決まっているだろ? 兄貴と違って俺に才能なんてないことがだ……
別の日、後輩から声を掛けられたこともあった。
なんでも兄貴と同じ委員会らしくいかにも真面目という字がピッタリな少女だった。『兄貴に委員会のことでお世話になったのでお礼がしたい』と言われたが、兄貴に対して恋愛感情を抱いているのはすぐに分かった。だから兄貴について教えてあげて告白も手伝った。……もともと俺が彼女に思いを寄せていたせいもあってか、なんだかとても惨めになった。
また別の日、数学の教師から呼び止められたときのことだ。
なんでも授業で返却するはずだったノートを職員室に忘れてしまったから、運ぶのを手伝ってくれと廊下で捕まってそのまま連行された。そして職員室から全員分のノートを持って教室に戻るまでの道すがら次のテストの話になった。
『平坂の弟は真面目だから次の定期試験では満点取れるかもな』なんて褒められたが、二言目には流れるように兄貴の話にすり替わっていた。『智一が一年の頃の担任だったんだよ』『あいつはいつも満点を取るからテストを作るこっち側も楽しかった』『平坂も兄貴を見習って頑張れよ』という具合だ。ここまできたら芸術的だ。テンプレと呼んでもいい。
そもそも俺は兄貴がテスト勉強をしている姿なんて一度も見たことがない。テスト期間でもよくわからない内容の本を読んで暇そうにしている。本人曰く『テストなんて授業を受けるだけで十分……』だそうだ。ふざけている。俺がそのテストで上位を維持するためにどれほど時間をかけていると思っているんだ。だが、これでわかっただろう……兄弟で頭のできも違う。
またまた別の日にはキッチンで料理をしていた母さんから、そのまた別の日にはリビングでくつろいでいた父さんから……
みんながみんな誇らしげに、兄貴の話をしてくる。
そんな状況に正直もううんざりしている。兄貴が凄いことなんて俺が一番よく知っている。だって何をしても兄貴には勝てなかったんだから。だからもう俺に、俺の前で、兄貴の話はやめてくれ。
それに何より本人たちは気づいてないだろうが言葉の端々から滲み出ている『お前は兄貴と比べて物足りない、ぱっとしない中途半端な奴だ』という雰囲気に、空気感に責められているような気がして、それが一番……
そこまで考えた俺はふーっと心のわだかまりをすべて吐き出すように息を吐いた。だが、こんなことをしても心はちっとも晴れはしない。
だって兄貴がすごいことも、それに比べて俺がぱっとしないこともただの事実なんだから。でも少しだけでもいいからこの窮屈な日々から逃げ出したい。
そんなことを思いシャーペンの先にあるまだ何も埋まっていない白紙の進路希望調査表を見下ろして――
「……なんか面白いことないかな」
と漫画の主人公のようなセリフをにつぶやいたのとほぼ同時に、何者かによって閉ざされていた教室のドアが無遠慮に開けられた。
「おい、まだ考えてんのかよ? さっさと決めてちまって帰ろうぜ」
「そうだよ。もう部活も終わったよ」
いきなり現れた乱入者の方へ目を向けると対照的な二つの人影があった。
一人は短髪で制服の上からでもわかるほど筋肉質な身体つきをしており、いかにも運動部といった感じだ。対照的にもう一人の方は小柄で頼りない体つきで少年のように可愛らしい顔立ちをしている。ぶかぶかな制服がまだこれから身長が伸びることを期待しているようでどこか微笑ましい。
二人の名前は日向と葦原。二人はクラスメイトであると同時に俺の数少ない友達だ。そんな彼らがズカズカと俺の座っている席に近づきいてきたので俺の方から声をかける。
「二人ともまだ帰ってなかったのか?」
「はあ! ふざけんなラーメンおごる約束だったろ!」
「いや、奢るなんて一言もいってないだろ!!」
いつの間にか俺が奢ることになっていた……
冗談だと日向が笑い飛ばすが、こいつの場合どこまで冗談かわからない。
最初にきっぱりと言っておかないと本当に後で集ってくる。そういうやつだ。
「もう、二人とも。ラーメン屋混んじゃうよ!」
「葦原、乗り気じゃなかったろ、そんなに腹減ったのか?」
「確かに、豚骨が嫌いって言ってたのに、ついにお前もあそこの豚骨の味が恋しくなったのかよ?」
「そんなんじゃない! どうせ行くなら待ちたくないだけだし!」
葦原は俺と日向のからかうような口調が癪に障ったのかぷすんとむくれて教室をでた。それを追いかけるように日向が後ろをついていくが、突然何か思い出したかのように俺に向けて振り向き――
「そういえばさっき川口が教室閉めとけって言ってたぞ、ほら」
「あ、おい」
鍵を投げてきた。それを何とかキャッチすると「早く来いよ」というセリフだけを残して日向は教室を逃げるように出て行った。
川口先生に頼まれたのは日向のはずだが、鍵だけ置いて行きやがった。
まだ進路希望表は書き終わってないのに……
というか三人で帰ればいいのに、わざわざバラバラに出ていったのか?わざわざ教室まで来たのに?
いや、なんかもう真面目に悩むのがバカバカしいや、あいつらを見ているとそんな感じがする。
どうせうちの親が期待しているのは兄貴だけだ。
そう結論付けた俺は急いで提出用紙をカバンにしまい、教室の鍵を閉め二人の後を追いかけた。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
帰り道。
職員室に鍵を返し、靴を履き替える。
昇降口から陸上部がまだ走っているのを横目に校門へと向かう。だが校門を通る寸前、どこからか現れた黒猫が悠然と俺の前を横切り校舎の裏側に消えた。
「不吉だな」と小さく呟いたのとほぼ同時、校門を抜けたすぐ近くでやっと二人に合流できた。
日向が俺を目ざとく見つけるとすぐに「遅いぞ」と悪態をついてきたので、誰のせいだと軽く小突き、駅の方角にある行きつけのラーメン屋『テンジク』を目指して三人並んで歩き始める。
「俺、今日こそ、テンジクの『ド迫力!チャーシュー超大盛!豚骨醤油ラーメン!!』を完食できる気がする」
「また食べるの? あの頭が悪そうなの……」
「すごいな、この前も同じこと言ってたぞ」
「おい、馬鹿にするなよ! なんか今日は食える気がするんだよ、本当に」
「やめといたほうがいいと思うよ」
そんな話をしながら他の学生たちに紛れて進む。そのまま三人でまっすぐ歩いて数分後、バス停がある少し広い横断歩道に出た。あと少しで目的地が見えてくるころだろう。
横断歩道の前で一度立ち止まり、信号機が青色に変わるのを待つ。
俺たちの横にはスマホを見ているスーツを着た男が一人、三人で話し込んでいる女生徒がいる。まあ、駅前だしさすがに人は多いよな……
今日のラーメンはどうしよう俺も醤油味に……いや、そんなことより進路どうしよう。教室では後回しにしたが締め切りは待ってくれない。
明日までに母さんが納得する進路を決めないといけないのか…めんどくさい。
だが兄貴のことは関係なく、そろそろ考えておいた方がいいだろう。
取り敢えず大学には進学するとして、
俺はその先なにをしている点…いやなにがしたいんだろう?
公務員になる? それって大学に行く必要があるのか?
いや、そもそも公務員といってもいろいろあるよな。
消防士に、警察に、銀行員だったり、いや、銀行員は違ったっけ?
どちらにせよ体力が必要な仕事は向いてないよな。
ならいっそ母さんと同じ教師に……
いや、ダメだ。しっくりこない。
そもそも自分が将来どうなっているのかまったく想像もできない。
そんなことを考えていると日向がこっちを見ているのに気付いた。
「おい平坂、ちゃんと俺たちの話を聞いてんのかよ?」
「どうしたの?もしかしてまだ進路のことを気にしてるの?」
「……そうだけど、よくわかったな」
「はあー! まだ考えてんのかよ、飯の時ぐらい忘れろよまじめだな」
「いや、日向はもっと考えた方がいいと思うよ、平坂はお兄さんのことがあるから考えちゃうんだよ」
「あー、空手のあの人か、確かにすげえらしいよな。少し不気味だけど」
「日向、仮にも弟の前だよ、少しは気を使いなよ」
……またあいつの話題だ。
こっちはもう兄貴の話は飽き飽きしているんだよ。
俺の感情を知ってか知らずか、タイミングよく信号が変わった。そのまま二人を置いて横断歩道を渡ろうと一歩踏み出し―――
「おい、危ないぞ!!」
珍しく日向が切羽詰まったような声をあげるのと同時に、死角から突然けたたましいブレーキ音が鳴り響いた。訳も分からずいきなり身体を吹き飛ばされ一回、二回と道路の上をバウンドし、そのまま勢いよく電柱に激突した。
「ごぁっ…ぐ……う……」
コンクリートの硬さを頬に感じ、荒い呼吸を繰り返す。
突然の出来事で何が起こったのか分からなかった。
だが、かなりの勢いで何かに吹き飛ばされたはずなのに不思議と痛みはない。
「…ッ……」「ャ…」「…ォ…」
ぐったりとうつ伏せになった状態だが、すぐ傍で二人が叫んでいるのがわかる。
何が起きたのか分からないが、取り敢えず二人を安心させるために立ち上がろうと右腕に力を込める。だが、自分の身体を支えられずに再び倒れこんでしまう。何かがおかしい。そう思いながら、視線を下げると道路がペンキをひっくり返してしまったように赤く染まっていた。
動かない身体。心配そうに叫ぶ二人。不自然なブレーキ痕。真っ赤に染まっていく道路。そこまで揃ってようやく自分が置かれた状況を理解できた。
ああ、そうか、俺はいま事故に遭ったんだ……
そのことに気が付いた瞬間
――意識は暗闇の底へと落ちていった。