【膝の上の優しさ】
夜はとっくに更けていた。
リトルベースの司令室に残る明かりは、いつものようにミカ・フォルクス少佐だけを照らしていた。彼女はデスクに深く腰を下ろし、ホログラム端末の前で動かなくなっていた。青い瞳は半分閉じかけており、青いミドルボブの髪も乱れている。机の上には、処理しきれなかった書類が山のように積まれていた。
すでに時計の針は午前二時を回っていた。
ミカはゆっくりと息を吐き、こめかみを指で押した。頭の奥が、ずきずきと痛んでいる。数週間まともに眠れていない。戦いが終わってからというもの、彼女はほとんど休むことなく働き続けていた。
(まだ……終わらないっす)
彼女は小さく呟いた。
本部からの指示、部隊からの要望、補給の再編、警戒体制の見直し。どれもが彼女の判断を待っている。どれもが「今すぐ」に近い指示を持っていた。ミカは自分が動かなければ、基地が上手く回らないという強い責任感に突き動かされていた。
彼女は再び端末に視線を戻そうとしたが、指が思うように動かない。集中力が明らかに限界を超えていた。
「……っ」
ミカは小さく呻き、両手で顔を覆った。
この数日、特に疲労が強くなっていた。夜通し作業をしても、朝になれば新しい問題が山積みになっている。解決したと思えば、また別の問題が出てくる。まるで終わりのない戦いに、彼女は一人で挑み続けているような感覚だった。
(自分がしっかりしていないと、みんながまた危険に晒されるっす。大尉も、基地のみんなも)
その想いが、ミカの胸を重く圧し続けていた。
彼女は司令官として、頼れる存在であり続けなければならないと思っていた。弱さを見せれば、部下たちが不安になる。フレンダに心配をかければ、彼女はまた無理をしてしまうかもしれない。そう考えると、ミカはますます一人で抱え込もうとしてしまっていた。
ドアが静かにノックされた。
「ミカちゃん」
聞き慣れた、柔らかい声。フレンダ・ディーコン大尉だった。
ミカはわずかに顔を上げた。
「……入ってっす、大尉」
ドアが開き、フレンダが入ってきた。彼女は手に、何も持っていなかった。ただ、静かな表情でミカを見つめていた。
「まだ起きてたんだね」
「うん……」
ミカは正直に答えた。今日はもう、適当にごまかす気力も残っていなかった。
フレンダはミカの横に歩み寄り、彼女の顔をじっと見つめた。
「ミカちゃん、目が本当に腫れてる。声も少し掠れてるよ」
「……大丈夫っす」
「大丈夫、じゃないよ」
フレンダの声は優しかったが、今日は少しだけ強い響きがあった。
「ミカちゃん、もう限界だと思う。数週間まともに寝てないんでしょ?」
ミカは答えられなかった。
フレンダは静かに息を吐き、ミカの隣に腰を下ろした。
「今日は、もう休んで。無理に仕事しても、集中できないでしょ?」
「でも……」
「ミカちゃん」
フレンダはミカの肩に、そっと手を置いた。
「私、ミカちゃんが一人で頑張りすぎてるのが、本当に心配なんだ。ミカちゃんが倒れたら、私も困る。基地のみんなも困る」
その言葉が、ミカの胸にじんわりと染み込んだ。
彼女は本当にフレンダを心配させたくなかった。
それなのに、結果として一番心配をかけているのは自分だった。
「……大尉」
「うん」
「自分は……司令官っすから」
ミカはゆっくりと口を開いた。
「司令官が弱音を吐いたら、基地が揺らぐっす。大尉には、安心して戦ってほしいっす。だからこそ、自分がしっかりしなくちゃいけないって思うっす」
フレンダはミカの言葉を、静かに聞いた。
そして、少しの間を置いて、優しく答えた。
「ミカちゃんは、もう十分に頑張ってるよ。でも、頑張りすぎて、自分を壊しそうになってる」
彼女はミカの手に、自分の手を重ねた。
「ミカちゃんが一人で全部背負わなくてもいいんだよ。私もいる。メイもいる。みんな、ミカちゃんの味方だよ」
その言葉に、ミカは少しだけ視線を落とした。
彼女は今まで、「守る側」であることにこだわりすぎていた。
フレンダに頼ることは弱さだと、無意識に思っていた。
しかし、フレンダの言葉を聞いていると、自分のその考え方が、かえって周囲を苦しめているのかもしれないと、少しずつ気づき始めていた。
「……大尉」
「うん?」
「少しだけ……休みたいっす」
珍しく、ミカは素直にそう言った。
フレンダの表情が、わずかに緩んだ。
「うん。じゃあ、来て」
フレンダは立ち上がり、ミカの手を優しく引いた。
ミカは抵抗することなく、彼女について歩いた。
フレンダの部屋はシンプルだった。
ベッドと小さなテーブル、そして椅子が一つ。ミカは部屋に入ると、どこか落ち着かない様子で立ち止まった。
「大尉の部屋で休むっすか……」
「うん。ここなら、誰にも邪魔されないでしょ?」
フレンダはミカをベッドの近くまで連れて行き、自分は床に座った。
「ミカちゃん、こっちに来て」
「……大尉?」
「膝枕するよ」
その言葉に、ミカは一瞬、動きを止めた。
彼女は照れくさそうに視線を逸らした。
「そ、そんなっす……大尉がそんなことしなくても……」
「いいよ」
フレンダは優しく微笑んだ。
「ミカちゃんが今まで頑張りすぎた分、少しだけ甘えていいよ。私、ミカちゃんに膝枕してあげたい」
ミカはしばらく迷った。
彼女は今まで、誰かに甘えるようなことはほとんどしてこなかった。
特にフレンダに対しては、守る側でありたいという想いが強かった。
しかし、今日のフレンダの言葉と、積もり積もった疲労が、彼女の心を少しだけ緩めていた。
「……すまないっす、大尉」
ミカは小さく呟き、ゆっくりとフレンダの隣に座った。
そして、照れくさそうに体を横たえ、そっとフレンダの膝に頭を乗せた。
柔らかく、温かい感触が、ミカの頰に触れた。
「……っ」
彼女は小さく息を吞んだ。
フレンダの膝は、思っていたよりもずっと柔らかくて温かかった。
ミカは思わず、目を閉じてしまった。
「大丈夫っすか、痛くないっすか?」
「ううん。大丈夫だよ」
フレンダは優しく答えた。
彼女は自然な動作で、ミカの青い髪を優しく撫で始めた。指が一本一本、丁寧に髪を梳くように動く。
ミカは、その感触に少しずつ体から力が抜けていくのを感じていた。
(……温かいっす)
頭の奥でずっと疼いていた痛みが、ゆっくりと和らいでいく。
数週間ぶりに、彼女は誰にも警戒することなく、体を預けることができていた。
フレンダの指が、ミカの額を優しく撫でる。
「ミカちゃん、いつもありがとう」
「……大尉こそっす」
ミカは小さな声で返した。
「大尉がいてくれるから……私も、頑張れるっす」
「ミカちゃんは、一人で頑張りすぎだよ」
フレンダの声は、静かで優しかった。
「ミカちゃんが一人で背負ってるのを見ると、私も辛くなる。だから、たまにはこうやって、休んでほしい」
ミカは目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐いた。
彼女の胸の奥に、ずっと積み重なっていた重いものが、少しずつ溶けていくような感覚があった。
(……守らなくちゃ、って思ってたっす。大尉を、基地のみんなを……)
しかし今、フレンダの膝に頭を預けていると、守られることの温かさを、久しぶりに感じていた。
ミカはゆっくりと口を開いた。
「大尉……」
「ん?」
「私は……本当に、弱いっす」
珍しく、ミカは自分の弱さを口にした。
「司令官なのに、こんなに疲れてしまって……、大尉にまで心配をかけさせて……本当に、情けないっす」
フレンダはミカの髪を優しく撫でながら、静かに答えた。
「ミカちゃんは、弱くないよ。むしろ、強すぎるくらいだと思う」
彼女は少しの間を置いて、続けた。
「ミカちゃんが一人で頑張ろうとするのは、みんなを守りたいからだよね。それ自体は、すごく優しいことだと思う。でも、ミカちゃん自身が壊れそうになってるのは、違うよ」
フレンダの指が、ミカの頰をそっと撫でた。
「ミカちゃんも、守られる側になっていいんだよ。私も、ミカちゃんを守りたいと思ってるから」
その言葉が、ミカの胸に深く染み込んだ。
彼女はゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐いた。
(……大尉は、本当に優しいっす)
ミカは、徐々に意識が遠のいていくのを感じていた。
数週間ぶりの、深い安心感。
誰にも見張られることなく、ただ休むことができるという、久しぶりの感覚。
フレンダの膝は、温かく、柔らかかった。
ミカは、ほとんど無意識に、フレンダの膝に顔を少しだけ寄せた。
「……大尉」
「うん」
「少しだけ……寝るっす」
「うん。おやすみ、ミカちゃん」
フレンダの優しい声が、最後に聞こえた。
ミカは、ゆっくりと意識を手放した。
彼女の寝息は、いつもの鋭さとは違い、静かで穏やかだった。
長期間張りつめていた肩の力が、ようやく完全に抜けていく。
フレンダは、そんなミカの頭を優しく撫で続けながら、静かに微笑んだ。
「よく頑張ったね、ミカちゃん」
彼女は小さく呟き、ミカの髪を丁寧に整えた。
部屋の中は、静かだった。
ミカは、久しぶりに、誰にも警戒することなく、深く眠っていた。




