冠詞とは何か4:冠詞とは結局何か
冠詞とは結局なんだろう、という話をするのをすっかり忘れていた。
これに関して私なりに仮説を考えてみたが、冠詞のある言語において冠詞とは「文を文として成立させるため」あるいは「名詞を名詞という形にするため」に存在していると考えるのが妥当ではないかと思う。
少し違う話を出そう。日本語では全ての動詞はウ段で終わり、い形容詞は「い」で終わる。つまりそれ以外の形のものを日本語で動詞として使うことはできない。
たとえば「グーグルで調べる」を省略して「ググる」というのと同じような感じで「る」をつけて「ヤフる」や「バトる」などさまざまな動詞を作ることができるが、「る」をつけないことには動詞にできないし、最後の音節がウ段でもないもの(「テキスト」などを)を動詞として使うことはできない。例:今から友達にテキスト。
しかし英語では、動詞や形容詞に決まった接辞がない。一部の動詞化する接頭辞や接尾辞はあっても、それを全ての動詞につけなくてもいい。GoogleもそのままI googled it.とか言うことができてしまうし、I'll text him.といえば「(ラインなどで)テキストチャットを送る」という意味になる。
冠詞というのも、ある意味でこういう現象と似ている側面がある。つまり、英語ではaのつく名詞はaというカテゴリに入り、何もつかない名詞であれば無冠詞というカテゴリに入り、それ以外は「ない」のである。日本語であるものを動詞として使うにはムリにでも「る」をつけなければならないのと同じで、例えばToyotaという単語を英語の名詞として使おうとしたら可算名詞か不可算名詞かどちらかのカテゴリに落とし込んで使わないといけなくなってくるわけだ。
つまりI have a Toyota.(トヨタ車を持っている)ならaがついて、 Toyota is the world's market leader.といえば会社の名前で固有名詞になるので何もつかない――という感じで、aをつけないことも無冠詞というカテゴリを選んで使ったということになってしまうのだ。
「自動車を一台持っている」というときにI have carと言ってしまうというのは、日本語で無理やり例えるなら、動詞を「明日は学校に行かない」というのを「明日は学校に行か」までで止めてしまうような中途半端な印象を与えるのではないだろうか。(「行かない」という動詞は五段動詞なので活用すると「あ」という母音が挿入されるが、これは後ろに「ない」がくっつくことによって初めて語として成立し、「行か」までを単独で使うことはない。)
英語でも名詞を裸でそのまま使うことはある。例えばCurrent Local Time In Philippines(フィリピン現地時間)のようなニュースなどの見出しの場合は冠詞は「省略」され、そして会話ではGirl must be important.(その子は重要なはずだ)のようなtheが省略された形としても無冠詞の単語は出現する。
しかしこういうことがあっても、冠詞のある言語では冠詞を使うか使わないかは選択ではなく必要や義務なのだ。a/theがあるかないかはスタイルの問題ではなく、ほとんどの場合絶対に必要だからついているのである。
要するに冠詞のある言語の母語話者は冠詞があるべきところに冠詞がなければ冠詞が省略されていると思ってしまう。例えば「花はきれいだ(特に特定の花ではなく、全般的な話)」というつもりでFlower is beautiful.と言ったら、英語のネイティブスピーカーはこれをThe flower is beautiful(その花は美しい).かFlowers are beautiful.(花はきれいだ、話者が言いたかったのはこちら)のどちらかに頭の中で変換して聞くのである。そして勝手にどちらかの意味に解釈して受けとるのだ。こういう感じで知らず知らずのうちに誤解されていくこともあるわけだ。いやはや、恐ろしい。
こういう現象が別の形でかなり進んでいった面白い例があるので、最後にそれについて触れて締めくくりとしたい。
メキシコの先住民の言語でナワトル語というのがあるのだが、メジャーな言語にはあまりない抱合語と呼ばれる文法的特性を持っている。深入りすると私の知識のなさを露呈してしまうので、かいつまんでナワトル語の「名詞の抱合」について触れる。
結論から言おう。なんとナワトル語には名詞がない。な、なんだってー! という感じかもしれないが、全ての単語が「文」になってしまうナワトル語は、名詞が名詞として独立して存在できないのである。
例えばナワトル語でtōch-というのは「ウサギ」をあらわす名詞なのだが、このままでは文存在できないので、tōch-tli.という接辞をつけなければならない。こうすると「それ(三人称単数の名詞)は誰のものでもないウサギである」という文になり、初めてナワトル語として正しい発話になる。「なんだ、それじゃ-tliが名詞接辞じゃないか」と思う人もいるかもしれないが、「私のウサギ」になればno-tōch.になって-tliはつかない。そしてさらに主語がなんであるかによっても接辞がつき、「私は誰のものでもないウサギである」ならばNi-tōch-tli.という感じになって、ナワトル語ではこれでようやく一つの単語(=一つの文)として成立する。日本語の「ウサギ」とは違ってtōchだけを使うことができず、何かしらの接辞をつけて文にしないとすわりが悪いのである。こうして見ると、-tliは不定冠詞と似たような役割を果たしていて、it isが名詞の中に組み込まれていると考えることもできる。
まあ、乱暴な例えなのであまりよくないが、ナワトル語母語話者はTōch.とだけ聞くと、「ウサギ」を「ウサ」まで言って止めるような気持ち悪さを感じるのかもしれない。
参考 古典ナワトル語で学ぶ「抱合語」体験教室 佐々木 充文 (@Mitchara)