第1話 まだ動くもの
廃棄箱の底で、ごみが俺のほうへ動いた。
箱を傾けたわけじゃない。作業台ごと、向こうへわずかに下っている。灰色の塊は、その傾きに逆らって、指一本ぶんだけ這った。
俺は回収用のへらを止めた。
「待ってください。それ、まだ流さないで」
隣の作業員が、箱の取っ手から手を離す。排出口の向こうでは、次の回収箱が金属の台を鳴らしていた。
「どうしました、榊さん」
「中に動くものがいます」
「生き残りですか」
「まだ分かりません」
分からないから止める。俺たちの仕事では、それがいちばん安い。
正体の分からないものを流してから配管を止めると、午後の仕事まで全部なくなる。なくなった仕事の代わりに、汚れた配管を開ける仕事が来る。
俺は胸元の作業札を裏返し、点検中の赤い面を排出口に掛けた。榊保臣という自分の名前が見えなくなる。三十八になっても、この札を掛ける瞬間だけは、遅いと言われる前に理由を説明したくなる。
隣の作業員は何も言わず、後ろへ停止の合図を送った。
ここは街の地下に開いたダンジョンの、地上側の廃棄区域だ。
探索者が運んでくるのは、魔石や宝だけじゃない。折れた道具、使い終えた罠の部品、魔物の粘液が付いた布。持ち帰った荷物を検査する間に、捨てるもののほうが多くなる班もある。
入口の大きな画面では、朝から攻略配信が流れていた。今は音が聞こえない。こちらに届くのは、換気扇の低い音と、回収台車の車輪の音だけだ。
奥の作業台から、空箱が二つ戻ってきた。返却口の受け台が鳴る。
「止まってるの、ここだけ?」
箱を運んできた班長が聞いた。
「今のところは。動くものが入っています」
班長は俺の手元をのぞき込もうとし、途中で止まった。作業札の赤い面を見たのだ。
「じゃあ、返却箱は横へ置く。あとで数だけ合わせて」
「すみません」
「数が合えばいい。そっちは合わなくなると困るやつだろ」
顎で回収箱を示し、班長は台車を引いていった。
俺は灯りを箱の縁に固定した。
箱には「第二層・通路清掃」と書かれた札が付いている。底に薄くたまった黒い水。欠けた陶板。白い繊維の切れ端。その隙間で、灰色の塊がまた動いた。
握り拳より小さい。
丸いものを想像しかけたが、違った。片側がつぶれ、濡れた手袋を裏返して置いたような形をしている。灯りを受けた表面にだけ、薄い青が見えた。
「スライムか」
声に出した途端、塊の端が持ち上がった。
俺の声に応じたのか、灯りに反応したのか。そこまでは分からない。ただ、ごみが勝手に滑ったのではなかった。
隣の作業員も腰を落とした。
「回収班、死骸扱いで出してますね」
札の小さな欄には、確かにそう記されていた。生体反応なし。処理可。
「再確認を頼めますか。俺はここを見ます」
「はい。触らないでくださいよ」
「そのつもりです」
相手は壁際の通話機へ向かった。
生きている魔物なら、清掃員の判断では処理できない。担当へ渡すまで、箱をここに留めておく。
箱の中へ手を入れかけて、止めた。
へらの先にも、前の箱の汚れが残っている。
新しい道具を取ろうと立ち上がったとき、灰色の端がずるりと伸びた。箱の隅にある水抜き穴へ、細く引かれていく。
流れがあった。
排出口は止めたが、この箱の穴までは塞がっていない。下の受け皿に、黒いしずくが落ちている。スライムの一部かもしれないものが、そのたびに短くちぎれそうになった。
「おい。そっちはだめだ」
もちろん、止まらない。
俺は穴の下へ空の回収皿を差し込んだ。流れ落ちるものを、そのまま排水へ入れないためだ。これで助かったわけではない。細くなった体は、まだ穴へ引かれている。
箱を持ち上げて傾ければいい。
そう思った直後、塊の向こうに立った陶板の破片が見えた。箱の底に引っかかったまま、刃のような縁をこちらへ向けている。
水だけを戻せても、この小さな体を破片へ押しつけるかもしれない。
箱を動かす手を下ろした。
作業員が通話機を片手に戻ってきた。
「生体の担当が来るまで、現状保管だそうです。早くて昼前」
壁の時計は九時十二分を示していた。
「このままじゃ、穴から流れます」
「箱ごと二重にする許可を聞きます」
「お願いします。あと、清潔な受け容器を。底が平らなもの」
相手がうなずいて離れる。俺はしゃがみ直し、箱の外から穴の位置を確かめた。
細い体は、白い繊維の切れ端に引っかかっていた。
繊維は液を吸うための清掃材だ。使ったあとのものだから、本当なら早く離してやりたい。だが、それが最後の足場になっている。
灰色の塊がそこへ寄る。押しつぶされていた部分が、ほんの少しだけ丸くなった。
水を得たのか。繊維が支えているのか。
俺は端末で箱の中を撮り、手帳の回収量を書く欄に時刻を添えた。使い古しの清掃材に寄る。少し厚みが戻る。理由不明。
朝の回収予定は、まだ三分の一も終わっていない。
排出口の向こうで待っていた台車は、別の作業台へ回された。俺の担当列だけが空いた。ありがたいはずなのに、自分の手元へ戻ってきた静けさが重かった。
ここで余計なことを言わなければ、予定どおりに終わっていた。
その考えが浮かんで、俺は手帳を閉じた。
箱の札をもう一度見る。生体反応なし。その下には、判定した人の番号があった。暗い通路で、動かなかった塊を確かめたのだろう。俺だって、灯りを当てる前にはごみだと思った。
小さな体の内側に、丸い影が一つ見えた。ごみの粒とは違い、体が薄くなるときにも同じ位置にある。砕いた魔石か、体の一部か。
それを確かめようと灯りを近づけると、影の周りだけが少し濃い青になった。
俺は灯りを戻した。
箱の外にも、昨日取り切れなかった汚れが付いている。へらで落とせば済む汚れと、中の塊が、見た目にはよく似ていた。
「今、容器を持ってくるからな」
灰色の端が白い繊維を抱えるように曲がった。
返事には見えなかった。ただ、動いていた。
俺は回収皿を押さえたまま、もう片方の手で新しい停止札を取った。赤い面を上にして、箱の取っ手へ結ぶ。
さっきの札にある「処理可」の二文字が、隠れた。




