第2章 それでも使命とともに、迷宮へと挑み始めた。
淡く光を放つ石の壁が、どこまでも続いている。なんとなく、ダンジョンというものは、もっと薄暗いものだと、僕は思っていた。
「ふん、雑魚が」
タイガが鼻を鳴らすとほぼ同時に、彼が大剣の一振りで切り捨てた角の付いたウサギ――ホーンラビットと呼ばれるモンスターが、壁よりも少しだけ明るく光を放ちながら、すうっと消えていく。
僕たちの初戦は、危なげなく、あるいはただ一人を除いて、ほぼ何もすることなく終わった。
「さっさと行くぜ」
「ちょっと待ちなよ。ボクが先頭さ。ちゃんと役割を考えてよね」
前を行こうとするタイガを引き留めたのは、僕やシンジュと同様小柄な女性で、軽量なレザーアーマーを着た冒険者だ。
そのジョブはスカウトと呼ばれている。ダンジョンを探索するのに欠かせない、索敵と罠発見のエキスパートだ。
彼女の名はレーナ。
「ちっ、わかってるさ」
「ははっ、威勢がいいってのは悪いことじゃねえが、先輩の言うことは聞くもんだぞ」
大柄な女性が、不貞腐れた顔をしたタイガの肩を叩く。男勝りな口調をしていて、燃えるような赤毛が特徴的だ。そしてタイガ同様に大きな剣を振り回す、それはファイターと呼ばれる前衛職。
その名はサンドラ。
「まあ、ここはまだ第一層だからねえ。手応えが無いのは、当り前さね」
そしてもう一人。
癖の強い蜂蜜色の髪をいじりながら、どこか気怠そうに呟くのは、すらりとした長身の女性だ。それはハンターと呼ばれるジョブで、その手に弓を持ち、後衛から遠方の敵を仕留めることに特化している。
この女性はブリギッタ。
「ほら、タイガ、いこ?」
シンジュがタイガを促し、そして僕たちは迷宮の中を進む。
「……あの、ブリギッタさん」
「なにさね?」
「皆さんは、何層目まで行ったことがあるんですか?」
タイガが集めた冒険者は、全員女性だった。そこにどんな意図があるのか僕には知る由もない。
けれど僕に反対する理由もなかった。その理由は、この三人が同一パーティで活動してきたことにある。
バラバラな集団よりも、慣れた三人のほうが心強い。パーティとは連携が欠かせないものだろうから。
「第五層までさね。といっても六人揃ってた時の話だけどねえ。さすがにあたしら三人、魔法使い抜きじゃあ、中層は難しいさね」
聞けば、かつての彼女たちのパーティには、メイジそしてプリーストと呼ばれる黒魔法と白魔法のエキスパートが一人ずつ、それに加えて前衛職のナイトがもう一人いたらしい。
では、どうして、その三人がいないのか。
僕はその理由を尋ねることは、できなかった。
そして彼女も話さなかった。
「僕たちは、そこまで行けると思いますか?」
「そうさねえ。パーティのバランスは悪くないからねえ。まあ、タイガがいるなら、きっと上層で苦労するなんてことはないさね。あたしらの出番はほとんどないかもしれないねえ。……それにしても、勇者ってのは強いねえ。ウォーロード、だっけ。サンドラもたいがいだけど、彼はその上を行ってるさね」
タイガのジョブは、ウォーロードだ。
僕のセージや、シンジュのセイントとは違い、重量級の武器を軽々と扱える、前衛職。
それは、とても目を惹く存在で、その行く手を阻めるものなど、どこにもいないのではないか。そんな気がしてくる。
「ま、しばらくは任せておいて、あたしらは気楽にしてればいいさね」
「そう、ですね」
前方を見れば、スカウトであるレーナを先頭に、そのすぐ傍をファイターのサンドラが歩いていた。
そしてその少し後ろを歩くタイガに、その隣でシンジュが何かを笑顔で話しかけていた。
それは、とても羨ましい光景だ。
でも、一方で。
その姿に、僕は既視感を持っていた。
「第二層への到達、おめでとうございます」
その後、ブリギッタの言う通り、何事もなく第一層を僕たちは踏破した。もちろん後衛職である僕は、何もすることはなかった。
ダンジョンの入り口へと戻り、僕たちの帰還を待ち構えていた衛兵たちに囲われながら王城に戻れば、そこでバルタザール氏の出迎えを受けた。
三人の冒険者たちも王城に滞在しているが、僕たちとは別行動だ。
「へっ。この程度、ちょろいもんだぜ」
それは事実だ。
本当にタイガ一人で、すべてを片付けたも同然なのだ。
もちろん僕は、付与魔法にて彼を強化していたけれど、正直必要なかっただろう。それはタイガが強すぎるからなのか、ダンジョンの第一層とはその程度だからなのか。
あるいはどちらでもあるのか。
「それは頼もしいことです。とはいえ、油断せぬようお願いいたします」
僕たちは第一層の探索を朝に始め、そして夕刻には帰還した。
第二層へと続く階段を降りればすぐ、そこの台座に水晶が置かれていて、それに触れれば、僕たちはダンジョンの入り口へと転送されていた。
ダンジョンの入り口にも同じように水晶が置かれている。それに触れれば、次回は第二層からの再開も可能となる。
なんとも不思議だった。
だけど、同行する先輩冒険者たちによれば、それはそういうもの、らしい。
もちろん、ダンジョンは深く潜れば潜るほどに、そこに巣食うモンスターは強くなり、待ち構える罠もまた凶悪になっていくそうだ。
そして全十層で構成されるダンジョンは、ブリギッタたち三人が到達したことのある中層、すなわち第四層以降からが本番だという。
その上、下層である第七層以降は、そこに至った冒険者がいなくなって久しいそうだ。ベテラン冒険者である彼女たちであっても、第五層が限界だったというのだから、推して知るべしだろう。
「でも、聞いてはいましたが、本当にもうダンジョンに、冒険者はいないんですね」
「そうですな。魔石が取れぬ以上、モンスターを倒す意味もありませんからな。彼らにとっては、ですが」
第一層を探索している途中で、僕たちは誰にも出会わなかった。
そしてそれこそが、この王国の危機を示している。
「しかし勇者様たちがダンジョンを制覇さえできれば、それも解消されましょう。そうして新たに生まれ変わったダンジョンは、また魔石を産み出し、それが民の助けとなるのですからな」
魔石の枯渇。
それが、王国が勇者を召喚しなければならなくなった、その原因だった。
魔石は王国の産業全てを支えている。
魔石を加工して造られた魔道具は、農業、工業、商業の全てに必要不可欠だ。
今はまだ、蓄えがある。
だが消費だけが続けば、いずれそれは枯渇する。
だから、この王国のすべての産業を支える魔石が枯渇するよりも前に、僕たちはダンジョンを制覇しなければならない。
それこそが僕たちに与えられた使命だった。
それが成されなければ、この王国は崩壊する。
そうなれば、王国に暮らす人々、そのすべては飢えて苦しみ、そして絶望の中で死ぬしかなくなるのだ。
「へへっ、すぐにでもやってやらあ!」
「もう! またそんなことばかり言って」
威勢のいいタイガと、それを窘めるようにしながらも、どこか愉快そうなシンジュ。二人はその使命を誇らしげにして胸を張っている。どこかおどおどしていたはずのシンジュですら、タイガに触発されたのか、今はずいぶんと顔を上げて前を向いている。
そんな二人を見ていると。
疑問が浮かんできた。
僕たちは今なお記憶を失ったままだ。
そして記憶を失っているという事実に、僕たちは最初戸惑って、混乱していたはずだ。特にタイガは、そのイラつきを直接ぶつけていた。
だというのに、それがもはや、なぜだかまったく気にならなくなっている。二人だけではない。僕も含めてだ。
だから、まるで最初から僕たちはここにいて。
そして勇者としてダンジョンへ赴くことが、当たり前のことなのだと、無意識に考えていた。
……つい、さっきまで。
少なくとも僕は、そう考えてしまっていたことに、気付いた。
「どうかしましたかな、ミナト殿?」
僕はきっと、他の二人とは違い、暗く難しい顔をしていたのだろう。それを見て取ったのか、バルタザール氏が声を掛けてくる。
でも、例えば、このバルタザール氏だって、どこまで信用していいのだろうか。彼はもしかすれば、僕たちが知るべきではない、何かを隠しているのではないか。
僕の中に、次々と疑念が湧き出してくる。
「一つ聞きたいのですが……。その、僕たちがダンジョンを制覇できたとして」
そして僕は、聞いておくべきことを、これまで尋ねていなかったことに気付いた。
「僕たちは、どうなるのでしょうか。元の世界へと、帰ることになるのでしょうか」
でも、僕の予想では。
「それはわかりませぬ。しかし、この国の英雄となるのは間違いないでしょうな。まさしく救国の英雄です。であれば、この国で何不自由なく暮らせることは、お約束しましょう」
おそらく、帰れない、ということだろう。その方法はないのだろう。
ただバルタザール氏は、何かを隠しているというよりも、本当に何も知らないのではないか。もし僕たちを騙すならば「わからない」などと言うだろうか。
どちらにせよ、彼はこの国を憂い、そしてこの国を救おうとしているのは間違いない。
魔石がなければ、この国は瓦解する。そのことは三人の冒険者も同じことを言っていた。なぜなら彼女たちも、このダンジョンに潜ってモンスターを倒し、その魔石を採取することで生計を立てていたのだから。
それに。
僕たちは、元の世界のことなんて、何一つ思い出せない。むしろ、この世界の事ばかり知っている。
ならば戻ることなど、なくてもいい。
事を成した後は、三人で平和に暮らすのも、悪くない。
……三人で? どうして、そう思った?
僕はそのとき、きっと一人となるはずなのに。
「ははっ、悪くねえな。待ち遠しいぜ」
「ミナトまで、そんな先のことを考えて。まったく、もう」
シンジュの言う通りだ。
まだ僕たちは第一層を踏破しただけに過ぎない。
けれど、僕の抱いた一抹の不安を余所に。
あるいは、ただ前を向くタイガと、その隣を歩くシンジュの希望通りに。
僕たちは苦も無く第二層を突破し、第三層へと至り。
そして、そこに辿り着いた。
「この先にいる守護者は、ジャイアントスパイダー。途中に出てきたブラックスパイダーの親玉みたいなやつだね」
スカウトのレーナが、大きな扉を前に、この先で待ち構えるモンスターについて教えてくれる。
この扉の先は、上層から中層に至るための試練の間。そこには守護者と呼ばれる怪物がいて、それを倒さねば中層へと至ることはできない。
「タイガより大きいよ。すばしっこくはないけどね。面倒なのは子蜘蛛のほうなんだ。知っての通り、あいつらは後衛を、特に魔法使いを狙ってくるから」
その子蜘蛛、ブラックスパイダーと呼ばれるモンスターとは、すでに戦っていた。
第二層から現れたそれは、僕の背丈の半分ぐらいのサイズだった。素早く飛び回ったと思えば前衛を躱し、そうして僕たち後衛を狙ってきた。
ハンターのブリギッタは当然それを知っていたから、最初から弓ではなく短剣に持ち替えて対処していた。
そして僕もまたその対応方法を、すでに把握している。
「ならオレ一人でそのデカブツをやってやらあ。他はお前らに任せたぞ」
「そんな、無茶な……」
タイガの提案に、僕は即座に反対した。
そんな力業でなんとかなる相手だとは、思えなかったのだ。
でも。
「いいや、それでいいぜ。タイガなら問題なくやれるだろ。他はアタイたちにまかせときな」
ファイターのサンドラが太鼓判を押した。
他の二人のベテラン冒険者も、特に異論はないようだ。
レーナは頷き、ブリギッタは反応せず、口を挟むことはなかった。
ならば、きっと僕の心配し過ぎなのだろう。
「そんなら、さっさと行こうぜ」
タイガの一言と共に、僕たちは大扉を開けた。
ザシュ、ザクッ、ザシュ。
次から次へと迫る子蜘蛛たちを、三人の冒険者が軽く切り払っていく。
僕とシンジュはその中央に立ち、彼女たちに護られていた。
そんな僕たちよりやや離れて、タイガが大蜘蛛と対峙している。
ブンッ!
その手に握られている大剣が振り払われるたび、そんな音がする。
でも、それに対して僕のやることは。
ひたすら皆を援護するための魔法を掛けることだ。
皆への能力強化の付与魔法を維持することと。
「魔神よ、彼らを縛る鎖を放て……《エリア・バインド》」
そしてこちらへ迫る子蜘蛛たちに対し、その動きを束縛する呪詛魔法を掛けること。
ただひたすらに援護に回る。そんな地味な役割だ。
「おりゃあ!」
タイガの気迫。上段から振り下ろされる大剣。
ザシュッ!
それとともに巨蜘蛛の足が一本吹き飛んだ。
だがその隙に、反対側の足が素早くタイガへと突き出される。
だけど。
キンッ!
「助かったぜ、シンジュ!」
シンジュの結界魔法がそれを防ぎ、タイガは無傷だ。
「女神よ、彼の者を護り給え……《プロテクション》」
そして彼女はもう一度、結界魔法をかけ直す。
タイガはシンジュの魔法を待ってから、猛攻を仕掛ける。
それは防御など考えない、一心不乱の攻撃。
つまり信頼しているのだ。シンジュを。彼女の魔法を。
「魔神よ、彼の者に弱化の呪いを与えよ……《ウィークネス》」
僕はそこに、呪文を唱える。大蜘蛛の耐久力を下げ、タイガの手助けをした。彼は果たして、そのことに気付いただろうか。
ザシュッ! ガシッ!
タイガの止まらない斬撃に、あっけなく守護者は倒れ。
僕たちは上層を突破した。
「大したことなかったな。つまらん」
ぶんっと、タイガが大剣を振った。
中層に至った僕は思い出す。
ブリギッタは確かに言っていた。
そこからは魔法がないと難しいと。
「女神よ、彼の者たちを輪廻へ戻し給え……《ターンアンデッド》」
シンジュの魔法が、迫りくる骨の戦士たちの、その半数を光へと変えた。だが半数だ。残る十体がカラカラと音を立てながら迫る。
「ふんっ」
グシャ。
タイガの大剣が、そのうち二体を同時に叩き潰した。
「魔神よ、彼の者に火の力を与えよ……《フレイムウェポン》」
シッ。
ハンターであるブリギッタから放たれた矢が、一直線に飛ぶ。敵の持つ盾がそれを防いだ、かに見えた。
ボウッ!
しかし、矢先が触れると同時、盾ごと敵が燃え上がる。
「こいつはいいねえ」
次の矢をつがえながら、彼女は少しだけ口角を上げた。
第四層で最初に出会ったのは、スケルトンと呼ばれる、アンデッドという種類の、そして人型のモンスターだ。
そして、人型モンスターの厄介なところは、武装をしていることだ。
「ちっ!」
サンドラが小ぶりな盾で、敵から飛来した矢を弾いて舌打ちをする。その矢はシンジュを狙っていた。
「邪魔だ、くそっ!」
タイガは弓を構えるスケルトンを狙おうとするけれど、それを他のスケルトンが阻む。
様々な装備をしたその群れは、冒険者の如く連携までしてくるのだ。
「魔神よ、彼の者を闇で包め……《ブラインド》。……だめか」
僕は相手の視界を塞ごうと、呪詛魔法は唱えたものの、相手に抵抗されてしまい効果がなかった。
「ボクにまかせといて!」
しかし、スカウトのレーナが敵の僅かな隙間を縫うように駆け抜け、敵の背後に回る。
ガシャン。
スケルトンの射手はバランスを崩して倒れ込む。
レーナは狙い違わず、脚の関節部分に短剣を差し込んで、その動きを奪っていた。
「よっしゃあ! 一気に行くぜ!」
そうなればもはやタイガの独壇場で。
遠距離からの攻撃手段を失った敵は、ただ彼に蹂躙されるのみだった。
「しかし、セージってのは難儀だねえ」
それは第四層の探索を終え、第五層に至り、帰還した直後のことだった。ブリギッタがそんな言葉を僕に掛けてきた。
「わかりますか?」
「もちろんさね。あたしは後衛だからねえ、前は隣にメイジがいたのさ」
メイジは黒魔法の専門家で、そして僕もまた黒魔法を扱える。
セージである僕との違いは、メイジは白魔法を扱えないこと。
だけど、それ以上に明確な差があった。
「あのスケルトンだって、一気に燃やし尽くしてたさねえ」
メイジが扱えて、セージには使えない魔法がある。
それは攻撃魔法と呼ばれる、敵に直接ダメージを与えるためのものだ。
その魔法が使えない代わりに、僕は白魔法も扱える、とも言えるのだけれど。このパーティには、白魔法の専門家であるセイントのシンジュがいる。
そしてセイントは、神聖魔法と呼ばれる、白魔法で唯一敵にダメージを与えられる魔法を扱える。でも、僕はそれを使えない。
セージとは、敵を弱らせ、そして味方を強化するジョブだ。
それは決して、派手ではない。はたして僕は、役に立っているのだろうか。
「そんな、浮かない顔するもんじゃあないさね。そのおかげで前衛が派手に暴れられるんだからねえ。そもそもレーナだって、一人で敵の背後に回り込むなんて真似、本来できやしないもんさ。元々スカウトってのは、戦闘じゃ役に立たない、せいぜい囮になるしかできないもんさね。けどダンジョンを進むには、不可欠なわけだねえ。それが役割分担ってやつさね」
ダンジョンでは、各々が自分のジョブに見合った役割を果たさねばならない。
なぜなら、パーティは六人までと定められているから。
だからこそ、その六人の組み合わせは非常に重要なのだ。
それにしても、なぜ六人までなのだろう。
役割ね。ははっ。
そんなことを考えている時だった。
まるで、この世界は、ロールプレイングゲームみたいだ……なんて、僕は思ったのだ。
思った?
どういうこと?
いや、思い出した。なぜ?
ロール、プレイング、ゲーム? それは、いったい、なんだ?
転送システム?
セーブポイント?
モンスタードロップ?
そこから連想される概念が、頭の中に次々と浮かんでいく。
「……うっ」
その奔流に、頭を押さえて、僕は蹲る。目の前がちかちかと輝き、視界がくらりとした。
「お、おい? 大丈夫かい?」
気付いたブリギッタが、隣にしゃがみ込んで声を掛けてきた。
「い、いえ……少し、待って」
ブリギッタに対して、なんでもないと手で制した。
ふぅ、ふぅ、と息を吐く。ゆっくりと意識してそれを整えていく。
そうして、しばらく待てば頭痛もだんだんと治まってくる。
「だ、大丈夫です。……少し疲れたみたいです」
僕はゆっくりと、慎重に立ち上がった。すこし身体がふわりとするけれど、歩くことは問題なさそうだ。
「そうかい? それならいいんだが、あまり無理はするもんじゃないさね」
ブリギッタはそれでも心配そうだ。
「ええ。ありがとうございます」
そう返しながら、僕は考えていた。
僕は、なぜそれを思い出したのだろうか。
理由はわからないけれど、僕は思い出してしまった。
だけど、それを思い出したところで、それがなんだというのか。
ロールプレイングゲームなんて、そんな概念を思い出したところで、一体それが何の役に立つというのか。
だって、ここはゲームの世界じゃない。
現実の、異世界なのだ。
ゲームのように、教会で生き返ったりできるわけじゃない。
選択を誤ったからといって、ロードしてやり直せるわけじゃない。
僕は頭を振る。
まったく役に立たない、思い出してしまった記憶を、頭から追い出したかった。
そうでなければ、余計なことを考えてしまいそうだったから。
「第五層が終わればもう半分だな。このまま突き進むだけだぜ」
「ふふっ、頑張ろうね」
前を行くタイガとシンジュは、いつもと同じく、変わっていない。
彼らはまるで、この危険な道のりを、楽しんでいるかのように思えた。そう感じたのは、僕が要らない記憶を取り戻したせいだ。
だから二人は何も思い出してはいない。
きっと僕だけが思い出したのだ。
この世界は、僕がいた元の世界とは、まったく違う理で動いている。元の世界がどんなところだったのかは思い出せないけれど、間違いなくそうだと確信した。
そう、違うのだ。
ここは、コンピュータゲームのようでいて、けれど異なる世界だ。
分かってしまったのだ。
ここは、死が身近な世界だということを。
元の世界とは違って。
理解してしまったのだ。
死とは、恐怖であることを。
僕はそんな、何の役にも立たない記憶を取り戻してしまったのだ。
僕だけが。
僕は震えた。
背筋が凍る。
「……っ」
そのとき、怖気づく僕を、背後から誰かが見つめている気がした。
僕は振り返った。
気のせいだとはわかっている。
それでもそれは、ダンジョンの奥底で、僕たちを待ち構えている何かかもしれない。
あるいはそれは、その途上にて、僕たちが果てることを望む何かなのかもしれない。
そして僕はそれから逃げるように、目を背けることしかできない。
「……え?」
でも、目を背けた先で、僕は視界の片隅に、銀色の輝きを見た気がした。
まるでその光は、一筋の希望のように思えた。
「ミナト、帰るぜ」
「……今、行くよ」
タイガの声に一度目を離せば、もうその輝きはなくなっていた。
だからたぶん、それは幻だったのだろう。
僕が恐怖のあまりに見た、ただの幻だ。
きっとそうに違いない。
僕が、中途半端な記憶を取り戻したせいだろうか。
「だめだ。これ以上、魔力が持たないよ。タイガ、いったん帰ろう」
そして僕たちは停滞し始めた。
「ちっ。しゃあねえな」
もっとも、第四層よりその兆候は表れていた。
「まったく、面倒なモンスターだぜ」
第五層に挑む僕たちの前に現れた新たなモンスターは、単純な力押しではどうにもならない相手だった。
「ごめんね。私の魔法じゃどうにもならなくて。ミナトにばかり負担が掛かってる」
「シンジュのせいじゃないんだから謝らないで。それにもう少し僕も上手くやらないとね」
その敵は、魔法生物という種だった。
さらに特定の形を持たないがために不定形と呼ばれ、それゆえにあらゆる物理的な攻撃を無効化する、そんな敵。
「じゃあ、さっさと帰んぞ」
その粘性体の名を、スライム、と呼ぶ。
「うん」
僕は四角い形をした、手のひらサイズの箱を取り出す。
その蓋を開き、そこに小さな魔石を納めた。
ダンジョンの探索を切り上げ、諦めてその場から帰還するための魔道具だ。
……そして、これもまた、魔石を消費する。
崩壊へと、一歩近づいた。
たった一つの魔石だけど。
僕は、そんな気がした。




